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上妻宏光(AGATSUMA, Hiromitsu)
1973年生まれ。木下伸市(木乃下真市に改名)に続く世代のトップランナー。6歳で津軽三味線を習い始め、1995、96年の津軽三味線全国大会で2年連続優勝。ライブでは卓越したテクニックで、古典とジャズやロックの手法に学んだオリジナル曲を演奏。国内外で他ジャンルのミュージシャンとのセッションを数多く重ねている。また、2003年には自身のバンドでアメリカ東海岸ツアーを行い、成功をおさめた。髪を茶に染め、ピアスをし、革ジャンを身につけて演奏するなど、ファッションでも若い世代にアピールしている。
http://www.agatsuma.tv/




■ 上妻宏光バンド・津軽三味線公演(「日本・EU市民交流年」国際交流基金関連事業)

1/12 バルセロナ・ラウディトリL'Auditori,Barcelona
1/14 リスボン・オルガ・カダヴァル文化センターCentro Cultural Olga Cadaval,Lisbon
1/16 マルセイユ・サル・ジノ・フランセスカティ(コンセルヴァトワール:アネックス)SALLE ZINO FRANCESCATTI (Conservatoire Annexe),Marseille
1/19 Conservatoire de Musique Auditorium,Luxembourg
1/21 Auditorium du Passage 44,Brussels
Artist Interview
2005.1.19
A shamisen player from the rock generation,Hiromitsu Agatsuma talks about taking his shamisen music to Europe.  
 
「三味線」は様々なジャンルの音楽を育んできた日本の伝統的な弦楽器のひとつである。三味線の中でも胴が大きく、棹も弦も太い「津軽三味線」は、日本列島の北部、青森県津軽地方の門付け芸から生まれたものだ。そもそもは民謡の伴奏楽器として用いられていたが、それが独奏楽器として舞台で演奏されるようになったのは半世紀ほど前から。技巧とアレンジの妙で聴かせる津軽三味線の即興演奏はジャズに通じるといわれ、ロック世代の聴衆にもアピールしている。若い演奏家たちは欧米の音楽も取り込み、三味線で現代を表現しようと模索している。上妻宏光はその最前線に立つ演奏家である。
(聞き手:奈良部和美 インタビュー:2004年12月10日)


──三味線を始めたのは何歳ですか。
6歳です。父が趣味で三味線を習っていました。古典芸能のように代々三味線をやっている家系ではありませんが、父の弾く生の音を聞いて育った影響は大きい。津軽三味線は弦を叩く奏法なので、リズムがあってスピード感がある。その音色にもとても引かれました。

──上妻さんの世代では、三味線を習っている小学生はとても珍しかったのでは。
そうですね。自分から三味線をやっていると話したことはありません。三味線は年輩の方がやる楽器というイメージがある。周りに習っている子もいませんから、恥ずかしいような思いがありました。平日は時間があれば練習していましたから、同世代の子とはあまり遊びませんでした。10歳ごろだったか、天才ちびっ子を紹介するテレビ番組に出て、三味線をやっていることがばれてしまった。友達には『すごいな』と言われました。

──プロの演奏家になろうと決断したのはいつごろですか。
14歳。全日本津軽三味線競技大会というコンクールで優勝したのがその年齢でした。自分の才能はゼロではないと感じました。ただ、14歳にしてはうまいというレベルなので、大人の世界で通用するか挑戦したいと思いました。僕の住んでいた茨城県では、うまい人は少ない。一流の演奏家が集まっているのは、やはり東京です。うまい人の演奏が身近に聞けて、人とのつながりも作れるだろうと考えて、中学卒業と同時に東京に出て、高校に通いながら三味線の勉強をしました。

──先生について勉強したのですか。
独学です。先生がお弟子さんたちを組織する会に入って勉強するのが一般的ですが、そうした会に入ると、会の活動に時間をとられます。プロの演奏家を目指していたので、伴奏の力をつけなければならないし、多くの曲も覚えなければならない。学ぶことが多くて、僕には会の活動に割く時間はありません。技術的に大したことのない人たちが、組織の力で威張っていることにも、考え方の違いを感じました。当時も、会に属さないプレーヤーはいましたが、組織を破門された人が多かった。師匠の考え方とは違う音楽活動をして干された人たちです。僕もロックバンドに入りましたから、師匠がいたら問題が起きていたでしょう。技術を磨き、表現の幅を広げるには一人の方がやりやすかった。

──日本の伝統的な音楽の世界では師匠とのつながりで演奏活動ができる。アウトサイダーが生きにくい構造になっています。苦労の多い選択だったのではありませんか。
プロの演奏活動をしている先輩の仕事について行ったり、浅草にある民謡酒場で演奏したり、口コミで仕事は徐々に広がりました。古典が出来ないからロックに逃げたと言われたくないので、青森県弘前市で毎年行われる津軽三味線全国大会に出場し続けました。実力があれば優勝できるという世界ではないですから、意地でも有名な先生のお弟子さんに勝ちたい。相当うまくないと優勝できないので、懸命に練習しました。津軽三味線も師匠が違えば演奏法も違って、いろいろな流派があります。いろんな流派の楽譜を勉強しました。カセットテープやSP盤など資料を買い集めて、ルーツといわれる演奏家のフレーズを学びました。津軽三味線全国大会は1回優勝すればけじめになると思ってましたが、1995年、96年と2年連続優勝しました。
 
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