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Artist Interview
東西の古典の出会い栗田芳宏が仕掛けた、能楽堂のシェイクスピアシリーズ


Data
新潟市民芸術文化会館 りゅーとぴあ
開館:1998年10月
新潟市が設置した、コンサートホール(1900席)、劇場(900席)、能楽堂(380席)をもつ複合文化施設。新潟市芸術文化振興財団が隣接するホール付きの音楽専用練習場の新潟市音楽文化会館を含めてトータルに運営している。演劇部門の芸術監督にプロデューサーの笹部博司、演劇部門のアソシエイト・ディレクターに演出家の栗田芳宏、舞踊部門の芸術監督に金森穣が就いている。総事業予算は約4億円。音楽部門では音楽文化会館を拠点にジュニアオーケストラを育成し、小中学生を対象にしたスクールを運営。演劇部門でも小中学生を対象にしたスクールを運営し、オリジナルミュージカル作品をプロデュース。また、全国ツアーを行なうオリジナル作品のプロデュースも行い、人気俳優をキャスティングした公演や能楽堂を使うシェイクスピアシリーズなどを発表している。




























































*『愚者には見えないラ・マンチャの王様の裸』
作:横内謙介
初演:1991年
横内: 実際に能楽堂でシェイクスピア劇をやってみて、難しいと思ったところは?
栗田: それはやはり台本です。普通の劇場で上演する場合はそのままやればいいが、能楽堂となるとまず上演時間の長さが問題になる。能楽堂の公演は、狂言で1本30分、能でせいぜい1時間。上演時間3時間などという作品は能楽堂ではかけられない。
それと、能楽堂は儀式の場なので、戯曲をテキレジして、その場に相応しいように儀式化、様式化しないといけない。そのために、外枠の世界をつくる必要があるが、そうすると物語として誰がその世界を司るのかという問題が生じる・・・。
横内: それはどういう意味?
栗田: 能楽堂は儀式の場だから、そこで写実的な演劇をやろうとしても仕様がない。登退場するところも橋掛かりしかないから、普通の劇場のように人物が出たり入ったりすることさえできない。だから、物語をある世界観に閉じこめて、様式化するわけだけど、そうするためには戯曲の中にその世界を司っている目をつくる必要がある。
それがシリーズ1作目の『マクベス』の場合は魔女だった。原作は3人だけど、魔女たちに操られているマクベスやマクベス夫人の世界をつくるには3人だけだと立体的にならないので、鏡演出として魔女を6人に仕立てた。
『リア王』の場合は、リアの影法師を3人登場させて、その影法師が司る儀式にした。ケントもグロスターもエドマンドも登場せず、その情報を影たちに与えてリア王と3人の娘の話だけにした。
今、企画している『冬物語』については、母親が子どもに物語を話して聞かせるというスタイルなので、その言霊として登場する子どもたちが司る物語にしようと考えている。つまり、物語のがっちりした外枠の世界をつくらないと能楽堂での上演は無理ということ。そのためにテキレジというか、演出構成という方が近いと思うが、シーンをずらして、コアになるものを取り出して、それを中心に世界を広げるような台本づくりをしている。
横内: (大きくうなずいて)なるほど。では、誰かが司らなければならない空間というのは、何ですか? 歌舞伎にはないですよね。
栗田: ええ。能楽堂という劇場自体が、一般に考えられている劇場とは違う。そこは祭祀的な場、つまり日本古来にあった、舞を踊ることによって雨乞いや米の豊作を祈祷する場としてスタートしている。そういう場に、いわゆるリアリズム演劇を当てはめてもうまく結婚はできないでしょ。
横内: そういう空間で展開されるドラマから、観客は何を得るんですか?
栗田: 観客が何かを得るということ以前に、観客もイマジネーションを持たなければいけないということだと思う。はじめから大胆な虚構の世界であることが提示されている能楽堂の観客と、プロセニアム劇場の観客では、観客自体のルールが違っているはず。
たとえば、プロセニアム劇場でリアルな椅子が一脚あれば、その1センチと観客の座っている椅子の1センチは同じ寸法になるが、装飾のない能舞台においては1センチというのが1ミリになったり、1キロになったりする。照明もほとんど地明かりだから、明かりで演出することはなくて、あるのは役者の肉体とそれに対する演出だけ。
横内: それと言葉。
栗田: そう、肉体と言葉しかないんだから。投げたイメージを観客が自分のイマジネーションと合わせて受け取るという共同作業ができる。
横内: そういう場所なんだ、能楽堂は。
栗田: そう、そういう場所だと思うんです。
横内: 能楽堂で上演可能な戯曲として、シェイクスピア以外に何か考えられますか?
栗田: 難しいですね。ギリシャ悲劇を能楽堂でやったらと考えると、できないこともないとは思うけど、シェイクスピア以上の効果はまず出ない。
シェイクスピアが演出家や役者によっていろいろなオリジナルをつくることが可能な戯曲だと思う。劇作家が全部指示をしてしまっている本が多いなかで、シェイクスピアにはト書きも少ししかないし、後は、勝手にやってくれって言われている気がする。この不完全なところが魅力。研究者や翻訳者はそうではないと言うかもしれないけど(笑)。
横内: シェイクスピアは構成とか関係とか実に緩いところがいっぱいあるけども、その台詞の一言一言はその緩さを補ってあまりある含蓄がある。
栗田: だから研究は学者に任せて、シェイクスピアの世界を僕らはもっと自由に遊んでいいんじゃないかと思う。それは能楽堂を使うという意味においても同じ。
それを言うと、横内さんの作品で、舞台上にベッドをひとつだけ置いて上演した『愚者には見えないラ・マンチャの王様の裸』(*)のイマジネーションは、能狂言に通じるものだと思う。それだけで、世界のすべてを作ってしまったんだから。
横内: ただあれは、ザ・スズナリというソデもない、場面転換もできない小劇場での公演だったために、空間的な制約から、その場所で行われるメタシアターな物語にした。たしかに空間によって物語が動き始めるということはあって、能楽堂という場自体が求めているある種のドラマがあるというのはわかる。だから、チェーホフなどを能楽堂でやる意味はあまりないですよね。三島由紀夫の『近代能楽集』というのも企画が出そうだけど難しいと思う。
栗田: 実は『桜の園』も企画に上がったけど、どうにもこうにもならない(笑)。三島も上演できるか読んでみたけどダメ。太宰治の『新ハムレット』もダメだった。やっぱりシェイクスピアの曖昧さの力が能楽堂には合う。
横内: 人間関係を描いていても、宇宙観がないと始まらない。
栗田: そう。だからといって能楽堂で哲学を述べようという気はさらさらないけど、そういう思考のある普遍的な戯曲でないとなかなか難しい。
横内: ところで、『マクベス』も『リア王』も、出演者の大半は新潟でオーディションした、栗田さんの育てている若い俳優たちですよね。そういう若者たちに、能舞台が求めている様式を伝える必要があると思うけど、本格的な能狂言の技術を習得することは不可能にしても、演技指導なりは必要では?
栗田: 育成の問題は一番悩んでいるところ。企画が決まり、オーディションで選んだ役者に所作指導から始めて発声指導などを3カ月ぐらいでこなしてもらう。それをずっと続けられる養成システムがあって、能の専門家が基礎的な稽古をつけてくれるようになればいいけど、今は公演毎の練習しかできない。特に能楽堂では普通の発声では声が通らないので苦しい。
横内: たとえば、その点、鈴木忠志さんなどは、自分のスタイルや様式をつくることに力を注いで、「鈴木メソッド」という訓練法をつくった。栗田さんはそういうことには興味はないんですか?
栗田: メソッドのようなかたちで自分のスタイルをつくろうという考えは全くありません。作品ごとで、観客が興味を持てるような創意をすることに興味がある。だから、『マクベス』と『リア王』も、能楽堂だから一定のルールはあるが、必ずしも同じ演出スタイルでやっているわけではない。『マクベス』で考えた栗田イズムが『リア王』で通用するとは限らないので、その都度、作品に向き合うということが重要だと思っています。
 
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