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麿赤兒
麿赤兒(Maro Akaji)
1943年奈良県生まれ。早稲田大学文学部演劇科を中退。劇団「ぶどうの会」を経て、1964年に土方巽に師事するのと平行して、唐十郎とともにアングラ劇団、状況劇場を設立。デモーニッシュな俳優として活躍。1972年、演劇と舞踏の新たな融合を目指して「大駱駝艦」を旗揚げ。以来、社会的な規範からはみ出した肉体や情念も人間の本性として肯定的に捉え、舞台上で「もののけ」として甦らせる、スペクタクルでユーモラスで物悲しい作品を「天賦典式」と名付けて発表。また、俳優としても活躍し、多数の映画に出演。1982年にアメリカン・ダンス・フェスティバルで海外デビューして以来、海外公演多数。
■大駱駝艦 公式サイト
http://www.dairakudakan.com/
海印の馬
『海印の馬』
Kaiin no Uma
撮影:山崎博人

1982年に初演。アトリエ豊玉伽藍(1985閉鎖)で1980年に月替わりで行われた連続公演『十二の光』のハイライトシーンで構成。幻の馬を求めて彷徨う麿がさまざまなもののけと出会うというスペクタクルな作品で、大駱駝艦の舞踏の醍醐味を堪能できる代表作。


壺中天
2001年5月からスタートした、壺中天公演は振付・演出する舞踏手がすべてを決め約1カ月で作品を創作し、必ず振付をする舞踏手のソロ部分を入れることが決め事となっている。2005年6月現在までに若林淳、村松卓矢、向雲太郎、石川正虎、田村一行、八重樫玲子、兼沢英子、小林裕子、今井敦子等によって20作品を発表し、6作品の海外公演を行い高い評価を受けている。
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an overview
Artist Interview アーティストインタビュー
2005.6.17
Maro Akaji's representative butoh work Kaiin no Uma performance in South KoreaHe talks about butoh today  
代表作「海印の馬」で韓国公演 麿赤兒が語る舞踏の今  
大駱駝艦は、1972年に麿赤兒を中心に結成された日本を代表する舞踏カンパニーである。設立メンバーとして、天児牛大(現・山海塾)、大須賀勇(白虎社・解散)、ビショップ山田(北方舞踏派・解散)、室伏鴻(背火・解散)、田村哲郎(ダンスラブマシーン・解散)など錚々たる舞踏手が参加し、後に「一人一派」と言われるほど多くの舞踏カンパニーがここから誕生した。
1959年に発表された「禁色」によって、土方巽が日本の文化に根ざした表現主義的なダンスの試み(後に暗黒舞踏と称する)に船出してから、40年余り。白塗り、がに股、剃髪、不連続な身振りに象徴される日本の舞踏は「BUTOH」として国際的な市民権を得たが、解散したカンパニーも多く、また、若いアーティストたちはコンテンポラリーダンスに新しい身体表現の可能性を見いだすなど、舞踏を取り巻く環境は大きく変わってきた。
そんな中、結成から30年を越えて、40名近いメンバーを抱え、なお第一線で創作活動を続けている麿赤兒と大駱駝艦。カンパニーに所属する若手が振付・演出・美術・音楽までひとりで行なうアトリエ公演を2001年から連続企画するなど、新世代の舞踏の誕生も予感させる。
日韓友情年を記念して、6月25日から7月14日までソウルで開催されるダンス交流フェスティバルに招待され、代表作『海印の馬』で初めて大規模な韓国公演を行なう麿赤兒に、舞踏的なるものについて話を聞いた。

(聞き手:小沼純一)


──2001年から大駱駝艦の若手が作品をつくってアトリエで発表する「壺中天」シリーズがスタートしました。若手の育成についてはどのように考えているのですか。
あまり深く考えてないけど(笑)。いつも僕の振付けでやっていると、彼らなりに思うところもあるだろうし、蓄積しているものもあるだろうから、まあ、何かやってみろと。マンガばっかり読んでるのかと思ったら、そうでもなかったりして、僕とはズレがあるけどそれが逆に新鮮ですね。ただ、壷中天をやっているのは、5年、10年経験のある連中です。

──麿さんの振付けとどういうところが違いますか?
うちの舞台様式みたいなものはある程度踏襲しつつ、内容というのは本当に全部まかせている。振付け、美術、照明、音楽とかいろいろひとりでやるので、それをどうセレクトするかでもの凄くセンスが問われますね。僕の焼き直しみたいなことをすると不機嫌になるから(笑)、かなりプレッシャーがかかっていると思いますよ。
僕にとっても「こういうことを考えているのか」と大変勉強になる。それと、20代、30代の若い奴と話すのに、作品を話題にすれば対話が成り立つみたいなこともありますし。僕の振付けは抑圧だから、忸怩たる思いでやっているのが彼らの中でどう醗酵しているか、それが出るのは面白いですよ。 稽古の途中は見ないようにしていて、彼らが自分でそれなりに仕上げて、本番1週間ぐらい前にちょっといじくる。ただ僕の感性のみで「ここが面白い」「ここは面白くねえ」「削れ!」というわけにもいかない。その辺はせめぎ合いですね。

──スタイルからあまりはずれると駱駝艦ではなくなると思いますが、その辺の境界線はどこにあるのですか?
そこが難しいですね(笑)。僕なりの許容範囲があるというか、こちらも相当「デタラメ」をやっているから、それほど驚くことはないですけど。「デタラメ」というのがどういう意味かを語ることはできますよ。

──「デタラメ」の説明がつくのですか?
つきますよ。「デタラメ」というのは僕の基本的な方法論ですから。ある日、何気なくマッチ棒を投げたら、確率的に「立っちゃった」みたいな、そういう瞬間みたいなところで楽しめるか、生獲りにできるか、というのが僕の言う「デタラメ」。そういう「デタラメ」は、どれだけ心身(こういう言い方をすると言葉が違ってくるけど)がそれを掴まえているかということで見えてくるものなんです。「ふざけてんじゃねえよ」って言うほど見えてくる(笑)。ふざけててももの凄い。そういうものさえ見えてくれば、これは相当面白いと思います。

──大駱駝艦として、ある種のスタイルというか文体というか方法というか、それを共有しているとして、大野一雄さんや山海塾にも独自のスタイルがあるとすると、じゃあ舞踏って何なのでしょう。
結局「舞踏は舞踏の中にない」ということになってくる。あやふやながら僕には僕のスタイルというのがあって、山海塾とも笠井叡とも違う。山海塾とは多少共通点があったにしても個々に違うし、そういうスタイルは邪魔になるのでみんな何とかそれを振り払って違うところに行きたいけど、一歩踏み出しては迂回して戻ってくるみたいな、常にそういう分岐点に立っている。とはいってもそこから抜けてしまおうとかいうのではなく、包含しながら進み、密教的に増殖していく。その時間なり場所を司るというか、つまりは自分自身をどう司るのかということが舞踏にはあるけど、だからといって舞踏の定義となるとそういうのでもないから、難しい。

──とは言っても、観ている方は舞踏として何らかの受け取り方をしてしまう。
復元能力に関わるところについてということですよね。そこにはそれなりの自負はあって、言葉にしろ、身体の動きにしろ同じ感覚が司っていて、それは何か?というと何でしょうねえ(笑)。 言葉の言霊だとか、ある種の始源の強さだとか言うと、民族学みたいな話になるし。まあ、そういう面もあるとは思いますが、身体の置き方、立ち方によってあらゆる疑問が解消するというか、そういう存在の仕方というのがあるんじゃねえかってことですよね。

──それは、東京でも、アメリカやソウルでも変わらないだろうと?
そう、それはありますね。だって、海外の出し物を観ても、文学を読んでもそれなりにわかるでしょ。細かいところは判りませんよ。でもビックリしているとか、泣いているのは悲しいんだろうとか、情念的なものは判ります。まあ、人間なら一応情緒はあるだろうというのが前提ですけど。持ってないヤツもたまにいるから(笑)。
 
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