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Artist Interview
Maro Akaji's representative butoh work Kaiin no Uma performance in South KoreaHe talks about butoh today
代表作「海印の馬」で韓国公演麿赤兒が語る舞踏の今
海印の馬
海印の馬
──土方さん、大野先生もそうですが、天児さんも麿さんも、みんな言葉というものをとても上手く使っていると思います。実際に舞踏の振付けの場でもたくさんの言葉を投入してイメージをつくっていく。その辺りのことをお伺いしたいのですが。
基本的に僕が使う言葉というのは“方便”ですよ。身体なんか鋳型みたいなもんだからそれだけでは動かない。ひとつの方便として言葉、インチキな言葉でも何でもいいんだけど、それを使うことによって身体ってものが反応するんです。僕の場合、身体が動くためにはどんな言葉を使ってもいい。だからといってできあがったものがその言葉であるということは全くなくて、もっと違うものであるところに意味がある。
そういう言葉を身体が飲み込んで、そんな言葉なんていうのは一切消えて、そこには身体のあり方、動きも含めて、あり方みたいなことだけが存在する。

──そういう言葉のあり方のようなものは、若い人にも継承されているのですか?
いや、なかなか(笑)。言葉が方便にならなくて、平板な意味としてとってしまう。「やわらかく!」「かたく!」「その連続!」とかって言うと、こうやれっていうのとか、じゃあグニャグニャなのか、そうでもないのか、説明してるのか、違うのかって話になりますわな。だから言葉によって逆に身体が変なところに行ってしまうことになる。

──麿さんたちが使っている言葉は、指示というかインストラクションじゃないんですよね。
方便なんですが、若い人には、まだやっぱり言葉に対する信用があるというか…。「行け!」って言ったら行ったりしちゃうんですよ。

──それって小説を読まないからじゃないですかねえ(笑)。ところで、先ほどからの話を積み重ねていくと、まさに身体というものは変わらないというのは事実としてあるけれど、言葉についての認識にはかなりのズレが生じていることを踏まえて、麿さんが若い世代について考えていることってありますか?
踊りとして面白いというところに納まればそれはそれでいいんじゃないかと。僕の手助けがなくても、そういうふうなところにタッタッタッタッと行ける、ある種の手練れになってくれればいいとは思っています。
我々の仕事として身体の置きっぷりというのがあって。何もしないで板間に立っている意味みたいなことなんだけど。何もしなくても、それこそ言霊ならぬ“体霊(タイダマ)”がウワーンとあって、止まっていてもその波長が変えられる。要するに、身体の一種の多面性(多様性)が、見てる方にいろいろな方向性をもって伝えられるようになってくれれば。「なんじゃこりゃ」「見たことねえぞ」っていうところが最初だとは思うんですが。

──野口体操的なものからはじめて、「見たことねえぞ」っていうところにいくにはどのように進めていくのですか。
野口体操というのは肉体概念みたいなもので、僕自身は最初に教わった時にとてもショックを受けた。体操はカチッとしたものじゃなくてグニャッとしたもの、身体というのもグニャッとしたものという、自分が身体についてもっていたそれまでのイメージの全く反対のベクトルを触発された。
でもじゃあただグニャグニャしてればいいとかという、そうじゃない。袋という身体の器が固ければどうなる?という疑問がでてくる。どんぶりのようなカチカチの器で中味が揺れてるとどうなる?とか、凍っちゃたらどうなんだ?とか、いろいろと投げかけて身体を動かしていく・・・。

──先ほど、言葉は方便であると言われていましたが、言葉のイマジネーションがなければ踊ることができない、身体をつくることもできない、ということですか?
そうですね、できませんね。重心を低くするというのでも、色々な例を出します。剣道でも柔道でも、腰が抜けていると攻撃もできないし防御も弱い。そういう武道の立ち方の例とか。
そしてそのイメージから飛び出る。我々は武道じゃないし、勝ち負けでやっているわけじゃないですから(笑)。そこで今度はヤクザのケンカの仕方っていうのが出てきてね。型にはまった動作だと、どっちが強いかわかるけど、ギャーってわけのわかんない暴力ででてきたらわからない。ウワーとか変な踊りでもされたらそっちが勝っちゃうかもしれないみたいな(笑)。
でもまあ、そういうことを言っていてもそれも方便ですから。そういうことを言っても、なおかつ、言葉は我々の身体にとってはどんどん消えていってしまうものなんです。同じようなことをさせるのに、他の例えをだしたっていいわけでしょ。例えはいくらでもあるんだから。

──ということは、最初に身体についての考え方をある程度変えたら、あとは実際に色々な言葉やイメージでエチュードをやる。
言葉とイメージだけでいいのか?という判断もあるんですよ。だんだん宮本武蔵とか、塚原卜伝みたいな話になってきた(笑)。剣豪が自然体でいても隙がないみたいな、それも一つの形だとか言う話し。僕がよく言うのは、「存在感があるというのもひとつの技術だぜ」ってこと。ただいればいいってものじゃなくて、グニャーっとしてても何かがあるというか。そこに行けるための技術論というのはあると思います。

──舞踏の作品には一定の時間の流れが必要です。それはどうやって決まっていくのですか?
面白ければどんどん続けてやるんです。とは言っても、面白い、面白くないをどこで決めるのかが問題ですが、具体的にやっていくと、1シーン大体10分か15分の単位になります。
今は、やっている方より見る人のスピードの方が速くて、パッと見たら判っちうみたいなことがある。別に駆け引きでやっているわけじゃないから、そういうのに対処する必要があるかどうかは別問題ですけど。
ただ、時間を持続するためには、それはそれで駆け引きの手だてというのはあると思う。僕の中では一種の「間」ということになるんですが。静止でなくてもいいけど、静止画をつくる、間をつくるみたいなことがあります。音楽の言葉で言うと、シンコペーションがけっこう好きなんですけど、そういうある種のショック、ウッとなるという西洋的な間。ウッといくかと思ったらクッとなるみたいな、不連続な連続が持続のポイントだったりします。ピアニッシモの中にも「クッ」とか「バーッ」とかあって。むしろゼロにできるだけ近いところでゼロから1にいく方が、100から101にいくより客をグーッともっていけるみたいなところがありますね。

──音楽についての考え方は?
微妙ですよね。「良い音さえあればい」ということになるんだけど、情緒的な音は特定の感情を彷彿とさせるからよくなくて、だからなかなか邦楽は使えない。野外でやるときは音楽としての音があると面白くないけど、劇場では完ぺきに音がないと僕でさえ不安になってくる。なかなか「沈黙も音である」という境地にはいけないですね。
 
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