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蜷川幸雄
蜷川幸雄(NINAGAWA, Yukio)
1935年生まれ。演出家。
1955年に劇団青俳に入団。俳優活動を経て、67年に劇団現代人劇場を結成し、翌年発表した清水邦夫作品『真情あふるる軽薄さ』で演出家デビュー。72年に演劇集団櫻舎を結成。時代をアジテートする清水作品を世に問い、60年代〜70年代の小劇場演劇をリードする旗手として注目を集める。74年に『ロミオとジュリエット』で商業演劇に進出。以来、ダイナミックな群衆演出、蜷川美学と呼ばれる豊饒な空間演出、西欧の戯曲のローカライズなどにより、次々とヒット作を生み出す。83年の『王女メディア』により初のギリシャ公演を敢行。以来、海外公演も多数。ことに近年、96年『夏の夜の夢』、97年『身毒丸』、98年『ハムレット』、99年から2000年にかけてはロイヤル・シイクスピア・カンパニーと共に『リア王』を長期上演するなどイギリスで活発な公演を行ない、2002年には名誉大英勲章第三位(CBE)を受章。その他、受賞歴多数。現在、桐朋学園芸術短期大学学長。
代表作には、『近松心中物語』『NINAGAWAマクベス』『ハムレット』『身毒丸』『グリークス』『ペリクリーズ』など。
http://www.my-pro.co.jp/ninagawa/
十二夜
十二夜
写真提供:松竹株式会社

『NINAGAWA 十二夜』(三幕)
日程:2005年7月7日〜31日
会場:歌舞伎座
原作:W・シェイクスピア
訳:小田島雄志
脚本:今井豊茂
演出:蜷川幸雄
出演:尾上菊之助(斯波主膳之助、獅子丸実は琵琶姫)
中村時蔵(織笛姫)
中村信二郎(大篠左大臣)
尾上松緑(右大弁安藤英竹)
市川亀治郎(麻阿)
坂東亀三郎(役人頭嵯應覚兵衛)
尾上松也(従者久利男)
河原崎権十郎(海斗鳰兵衛)
坂東秀調(従者幡太)
市川團蔵(比叡庵五郎)
市川段四郎(舟長磯右衛門)
市川左團次(左大弁洞院鐘道)
尾上菊五郎(丸尾坊太夫、捨助)
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an overview
Artist Interview
2005.8.18
What is the Kabuki version Twelfth Night?  
歌舞伎版『NINAGAWA 十二夜』とは? 蜷川幸雄の新たなる挑戦  
シェイクスピアをはじめ西欧の古典といわれる戯曲を、いかにローカライズして、現代を映し出す鏡として再生させるか。蜷川幸雄は、『王女メディア』『NINAGAWA マクベス』『夏の夜の夢』『ペリクリーズ』を、英国、ギリシャ、アメリカなどで発表し、高い評価を獲得してきた演出家である。今年の7月、東京の伝統演劇の本拠というべき歌舞伎座で発表した『NINAGAWA 十二夜』は、現代演劇の俳優ではなく、歌舞伎俳優を起用し、新作歌舞伎にチャレンジした点で、そのキャリアにおいて特異な舞台となった。そこでは、歌舞伎の様式を守りつつ、舞台前面を覆う鏡を背景に、大胆な視覚表現が試みられている。蜷川における西欧演劇の素養が、歌舞伎俳優の身体性と衝突したこの作品は、新作を生み出す力を失いかけていた歌舞伎というジャンルに揺さぶりをかけた。
(インタビュー:長谷部浩)


──『NINAGAWA 十二夜』の稽古が始まる前に新国立劇場でお目にかかった時に、今回の演出家としての立場は、オペラの演出に似ているとおっしゃっていましたね。稽古を終え、初日を開けた今では、どんな違いあったとお考えになりますか。
まず、演出家の場所というものが歌舞伎には明確にないわけですよ。あらゆることが演出家抜きにして成り立つようにできている。
もちろん座頭が演出家の役割を担っているんだろうけど、稽古がスタートする日も別に演出家が前に立つわけではないし。なんて言ったらいいかな、ともかく演出家という存在がとても曖昧にできているんです。
歌舞伎の作り方としては、それが当然だとわかっていたので、指揮者が先頭に立つオペラにおける演出家と同じだと最初から言っていたわけです。それから、自分が現代演劇を演出する時の助手やスタッフはほとんど連れていかないで仕事をしました。歌舞伎という異国へ留学するという認識があったので、その範囲内で、演出家としてどんな役割ができるのかを考えました。

──昭和に入ってからは、少数の例外をのぞいては、江戸、明治期に成立した古典をレパートリーとして繰り返してきた歌舞伎には演出家というポストはありません。現実には通常の演目を上演するにあたっては、キャスティング権を含め、演出の権限を座頭がもっている。今回の座頭は、七代目尾上菊五郎さんですが、演出家の蜷川さんを立て、とても気遣っているのが、稽古を見ていてよくわかりました。こうした特殊な現場で苦心された点があればお話しください。
苦心は大してしてないですね、現実には。歌舞伎の手法について、ほとんど自分は知らないのだとよくわかった。それを含めて想定内でした。
例えば合方とか、下座音楽のいろいろな呼び方、用語にしても、それを音楽と呼ばせてくださいという言い方をしました。長唄、三味線、鼓を中心とする下座音楽に、ボーイソプラノと伴奏するチェンバロを重ねるような幕開きの音楽も、歌舞伎は許容してくれた。そういう意味での誤差はほとんどなかった。
じゃあ演出家の役割をどこに設定したかと言ったら、シェイクスピアの戯曲の構造をどう俳優にわかってもらうか。それと、シェイクスピアの書いた台詞のレトリックは、歌舞伎が持っている近世から近代へかけての日本語のレトリックと違うので、それをどうやって歌舞伎の演技にマッチさせるか、合わせていくのか。
ただ、戯曲の構造の理解という意味で言えば、僕の解釈を歌舞伎俳優に演説のようにして言っても仕方ないわけです。細かい具体的な演技の指示の中に、その構造の理解へと導くよう滲み込ませる。後はビジュアルで、観客にどう説明していくか、ということでした。そのぐらいかな。
技術的に言うと、最近の僕の演出は、即興的・集団芸能的になっている。それは現代演劇を演出するときも、今回も同じです。技術をきちんと持った人たちが周りにいて、「じゃあここは音楽を入れて」と言ったら、イメージを言うだけで、すぐにスタッフが作ってくれる。ダンスにしようかと言ったら、即座に振付が行われる。そういう即興演出とほぼ近いようなやり方だったので、技術を子供の頃からたたき込まれた歌舞伎俳優と、それを支える熟練したスタッフと一緒に仕事をするのは、違和感はなかったですよ。
ただ、独特の約束事が面白かったですね。例えば「三日定法」という言葉とか。今回はなかったけれども、病気のために代役が立つとしますね。例えばその人の病気が一日で治ったとしても、3日間は代役に勤めてもらう。演出家は初日から3日間は直していいけど、その後は…。まあともかく、何でも3日なんだよな。
それはイギリスと同じで、イギリスはだいたい幕が開いて2日で帰されちゃう。私費でいるぶんにはいいけど、それ以上の滞在は保証しない。そういうルールが…イギリスに似ているといえば言えるんだけど。でも向こうの方が契約で決まっているだけに、曖昧じゃない。歌舞伎は、曖昧な不文律で成り立っている。システムは似ているところがあるから、そんなに大きな違和感なく、演出できましたけどね。

──多分、今の蜷川さんのお立場で歌舞伎を引き受けるというのは相当勇気のいることだったのではないかと思うんです。つまり、これで得るものはあまり想定しにくい。それに引き替え、どう演出しても、伝統を破壊したと言われるか、逆に蜷川色が出ていないと言われるか、どちらにしても批判を受けそうな厳しい立場ですよね。記者会見では、菊五郎さんの息子にあたる20歳代の五代目尾上菊之助さんの熱意に打たれたから引き受けたと話されていましたが。
そうですね。それ以外にないですね、正直言って。もしかすると何か新しい発見があるのかなというのはもちろんありましたし、古典芸能の世界とか劇場というものは一体どうなっているのかとか、そういう空気を知りたいとは思っていました。日本の演出家だといっても、歌舞伎と現代演劇のあいだには隔たりがあって、歌舞伎の世界は、観客席、表側からしか見てないですからね。
まあ、野田秀樹や串田和美さんは、十八代目中村勘三郎さんと組んで、脚色や演出の立場でやられていますが、僕は彼らより子どもの時から歌舞伎を見ているとは思うんです。だからこそ、絶対これは中途半端に手出しをしない方がいい世界だと思っていました。
正直言って判らないことはたくさんあるわけです。例えば、音楽では、じゃあここは合方に何を入れようか、嵐の合方にしましょうかとか言われてもわからない。もう半拍、早い方がいいのかと言われても、きちんと勉強もしていないし、歌舞伎の裏に通じているわけではないから、具体的にはわからないわけですよ。それがきちんとできるか、全くの素人でいるか以外には、古典芸能に関わる方法はないと思っていました。歌舞伎を自分が演出するつもりで、見てこなかったですからね。現代演劇に何をパクってこようかなと思いながら見ていただけで(笑)

──今、合方の話が出ましたけど、今回、西洋音楽もプラスされていますよね。ラテン語の少年の合唱から始まって、途中にハープも入っていますが、異文化を衝突させる意図はあったのですか。
たとえば『NINAGAWAマクベス』は、舞台の前面が、日本人が祖先を祀る仏壇を思い起こさせるセットになっている。そのなから聞こえてくるのはお経だったり、声明だったりするわけですが、そこにフォーレの「レクイエム」を最初からダブらせています。ですから今回も、単に歌舞伎の様式を尊重するだけではなく、1割か2割は違うことやろうかなとは思っていたんですね。
歌舞伎座で難しいのは、圧倒的に古典の愛好者がお客さんとして多いということ。歌舞伎の役割には、一方では古典の正しい継承という問題がある。だけども正しい継承と言っても実際はかなり変質していっているだろうと僕はかねがね思っていたわけです。劇場構造も明らかに昔とは違って、間口が横に広がったりしています。そういう劇場の構造や照明機材の進歩に従って、歌舞伎の古典といわれる演目にしても、江戸期、明治期とは、十分変質しているに違いない。
けれども、今現在、古典だと思われている狂言のあり方、あるいはそれを愛好する人たちの歌舞伎や歌舞伎座に対する思いを全く壊してしまうのだったら、歌舞伎座でやる理由はないわけです。それから、今回中心になっている菊五郎劇団がもっている正統性といいますか、彼らのもっているある種のアカデミックと思えるくらい芸能色をちょっと薄めている劇団と仕事をする。それを考えたときに、違和感を与えないで少し新しい、今までと違うものが入ってきたという程度でいいだろうと。老舗の味ががらっと変わったら、だいたい昔の方が良いって言う人が多いだろうし、まあ、『十二夜』は、賛否は七三と踏んだんです。3割良い、7割嫌だ…それはしょうがないなあと。でもなるべくなら7割の人が好いて、3割の人が嫌だというぐらいの比率で作品を仕上げようかなというのが、僕が立てた現実認識ですね。
 
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