The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
Artist Interview
What is the Kabuki version Twelfth Night?
歌舞伎版『NINAGAWA 十二夜』とは? 蜷川幸雄の新たなる挑戦
近代能楽集
近代能楽集
『近代能楽集─卒塔婆小町/弱法師』
(2005年/彩の国さいたま芸術劇場)
撮影:池上直哉
マクベス
『NINAGAWA マクベス』
(2002年/ニューヨーク;ハワード・ギルマン・オペラ・ハウス)
撮影:江川誠志
ペリクリーズ
『ペリクリーズ』
(2003年/ロンドン;ナショナルシアター・オリヴィエ)
撮影:江川誠志
──明治の終わりから、昭和にかけて活躍した名優の六代目尾上菊五郎が創立した劇団の演目としては、少しどころか、ずいぶん新しい要素を取り込んでいると思います。ただ、今回の舞台は、まぎれもなく「歌舞伎だ」と、だれもが思ったのではないでしょうか。破壊的ではなく、建設的になっている。その試みは見事に当たったのではないでしょうか。
そういう意味ではね。オープニングも、古典的な定式幕を開けたら、奧が全面鏡になっていて、客席が映り込む。観客が自分たちを相対化すると同時に、ここがまぎれもなく現代の場だって判らせながら、驚きを持たせる。鏡が透けてくるとセットの中の満開の桜が浮かび上がってくる。そこは現実ではなく、虚構の世界です。まあそのへんは「蜷川がやることはこういうことですよ」とお客さんに予知させながら運んでいこうとしています。それはある程度うまくいったかなと思います。

──蜷川さんが演出されるとなると、観客は視覚的表現が一体どうなるか当然期待されたわけです。冒頭の満開の桜にしても、大詰の百合の庭を渡る朱色の太鼓橋にしても、蜷川色を明快に出したと受け取りました。
ある程度うまくいった理由のひとつは、歌舞伎の人たちがものすごくよく協力してくれたことです。菊五郎さんと菊之助くんはじめ、歌舞伎の人たち、スタッフに感謝しなきゃいけない。僕に聞こえるトラブルは何かあったとしても、ほとんど背後で処理されていった。外国で仕事をする困難さに比べれば、はるかに協力してもらったという感じはしますね。
海外に『近松心中物語』をもって行った時、ゲネプロで向こうのスタッフともめて、明日公演中止の瀬戸際までいったことがあるんですよ。そういう経験があるから、現場でトラブったらどれだけ大変かわかっている。カナダでも、後1分だか2分で一幕の稽古が終わるのに、10時15分前になったらスタッフが引き上げた・・・15分前には上がって着替えをするからという理由です。日本だったら2分ぐらいいいじゃないとなるのが普通なので、唖然としました。でもそういう国際経験がよかった。歌舞伎座に来ても、少々のことじゃ驚かない(笑)。
外国での経験があるので、ルールをどうやって守って、それを超えるにはどういうふうにすべきかを学んだ。時には激しい怒りが必要になることもある。この前もイギリスで『ペリクリーズ』を上演した時に、「じゃあ止めるよ!」って客席通路で大げんかになった。そこで論戦になったんですね。あるテリトリーを超えて仕事をしないスタッフのあり方に苛立つことがあるんです。「目の前にあるものを何故手伝わないんだ、イギリス人にとってはルールの方が人間性より大事なのか!」と僕は怒るわけ。「日本人は夜遅くまであるいはパートを超えてまで、幕を開けなければならないんだったらやろうとするのに、なぜイギリス人は置いて帰っちゃうのか。そこでは人間性とかクリエイティブなものに対する愛情より、契約が全て優先するのか!」と。ときどきぶつかるわけです。
そういう意味で言えば、外国でいろいろ経験してきたから、歌舞伎では、自分が予想していたよりは、はるかに困難ではなかったですよ。けっこう楽しかった。

──逆に、歌舞伎以外の仕事でもそうですが、日本では論理的な論戦がまず行われにくいと言えますか? 逆に論理と論理を突きつけあうことをしない、曖昧なシステムで動いている。
歌舞伎には、独特なシステムがあって、その良いところもあるわけです。ですからこれは融合してお互いに余裕を持ちながら良いところをとりっこするのがいいと思うんですよ。
だけど、今では日本の現代演劇を支える若い世代には外国へ留学したスタッフも一杯いるから。感情的になったとしても、かつてのように血を流すみたいな修羅場はなくなって、論理的な話し合いが行われる。外国で仕事をするのと似たような環境が日本でもできてきています。ただ、日本の方が何て言うか、契約を飛び越えて、心情で仕事をしてくれる部分があるから仕事はしやすいかなあ。
一方で、こういうこともあるんだよ。外国は平気で初日を延ばすからね。それは、そのシステムの中で、多分出来がわるいところなんかは、例えば8時間労働で間に合わなければ、プレビューの期間を延ばすことで、初日を開けるシステムを持っている。彼らの合理性にも理由はあると思います。

──今回仕事なさる時、歌舞伎をやるのは1回限りだとおっしゃっていますね。実際に幕を開けてみて、周囲から、例えば現代演劇の俳優で上演した『四谷怪談』(2001年 東京・シアターコクーン)をやったらどうかとか期待が聞こえてきます。例えば、歌舞伎の伝統的な演目である『東海道四谷怪談』(四世鶴屋南北作)を歌舞伎俳優で上演する可能性などお考えになりますか。
全然考えていません。今回は、十分楽しかったし、本当に菊五郎さんには感謝している。第一、菊五郎さんが、マルヴォーリオとフェステの二役をやるのは大変なことだったと思います。稽古初日には、完璧に台詞を覚えきてくれたしね。僕は歌舞伎に対しては、とても幸せに出合えた演出家だと思っています。で、ただ…あのう…演出家としては、全部、お客さんに僕の手は見せちゃったから(笑)。歌舞伎の美学を新しく創り直すための手はちょっとないなあ。

──例えば『十二夜』を、基本的にはこのプロダクションのままで、外国で公演する可能性はありますか?
僕は、本当は、こういう作品を外国に持っていきたいと思ってはいる。ただ、歌舞伎をかかえる興行会社の松竹が、海外公演の可能性についてどう思っているか、きちんと話をしていないし。今回の『十二夜』は、マルヴォーリオとフェステを二役にしたことにともなう変更以外は、ほぼシェイクスピアの原作通りに運んでいます。歌舞伎は男性俳優だけの集団で、女方がいて女性の役を演じる。菊之助君は、セバスチャン、ヴァイオラ、シザーリオの三役をひとりで演じ分けている。歌舞伎の特徴もよく出ているし、少年俳優がいたエリザベス朝の上演形態に近いので、イギリスや外国の観客に見て欲しいなとは思っていますよ。ビデオが出来たら外国へ送って友人のプロデューサーに見てもらおうかなと思っています。

──それは歌舞伎とシェイクスピアの融合という意味で、良い特徴が表れているということですね。それは『ペリクリーズ』を上演する場合に、つまり歌舞伎の演出手法をシェイクスピア劇に導入するのとはまた別の問題ですね。その違いというのは俳優の身体性ということになりますか?
そうですね。俳優がもっている身体性と、その身体性の中身で言えば、リアルと様式を行ったり来たりできるということですかね。もうちょっとリアルを増やしてみてもいいかなあとは思っていますけど、リアルと様式の往復はやっぱり鮮やかですよ。

──逆に言うと、現代演劇の俳優にはある種の様式が、残念ながら欠けているともいえますか?
そうですね。現代演劇の俳優も、何かを突き詰めた果てにある様式性を獲得するといいなあと思っているけど、なかなかそこまでいきにくいところがあるわけです。例えば、英国の俳優には、様式的な身体というのが一切ないんです。ですからそれがあると、どれだけシェイクスピアが豊かになるか。様式的な身体があることが、日本的な芸能のもっている大事なところだと思うんです。英国の俳優は、動機がなければ演技ができない人たちなので、シェイクスピアがどんどんリアリズムになっている。喜劇やロマンス劇のようなあんな嘘っぱちな話を、リアルにやったって面白くなくなっちゃう。そういう意味で言えば、これはまさしく日本の古典芸能を使っているけど、シェイクスピアの本質的なところに関わる問題を提示していると、僕は内々思っています。
 
BACK
| 1 | 2 | 3 |
NEXT
TOP