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Artist Interview
The adventurous world of Toshiki Okada, a playwright who write in
「超リアル日本語」を操る 劇作家・岡田利規の冒険
クーラー
チェルフィッチュ『クーラー』
© non takagi
──劇作家として作品にしていく上でのフィクショナルな作業が行われていると思いますが。
劇作家としての作業というか、構成みたいなことで考えているのは、持続ということですね。僕は作品を俯瞰した箱書きのようなものを作っては書かないんですが、それは僕が、あるシーンと次のシーンが、本当に持続しているかどうかということだけを大切にしているからです。

──冒頭に「今から、なんとかかんとかをやりまぁす」と告げてから舞台上の人物がその話に入ります。あれは、「昔々あるところに」と同じフィクショナルなフレーズなわけで、現実の生活には絶対にない設定ですが……。
その辺は劇作家としての作業というより、お客さんへのサービスというか、芝居をわかりやすくするための解説としてやっています。「これこれをやる」って言えば、「ああそうなんだ。やるんだ」ってお客さんにも分かるじゃないですか。そういうことなんですけど(笑)。

──台詞にリズムを付けようとなさってはいるのでしょうか。戯曲だけ読むと、大変リズミカルな感触があります。
それは自覚していません。戯曲というのは、声に出して読むのを前提にしたものだから、声に出したくなるとか、声に出してみると何を言っているのか分かるとか、読んだ方がそういうふうに感じてくれるのは嬉しい。けど、僕自身が上演するときには、そういうリズムで語ってる身体は否定しています。身体は台詞のリズムとは別の固有の動きをするべきだと思っているので、戯曲からリズムが読みとれてもとれなくても、僕のやろうとしていることとは関係がありません。

──本にする時に、編集の方が苦労して台詞に句読点を入れたと聞いています。それがリズミカルに感じるリ由かもしれません。
もともとは、点も丸も、まるで打ってない台本ですからね、僕のは(笑)。

──独特な台詞術と同時に、岡田さんの舞台では、俳優の身体もとてもユニークな動きを見せます。
さっき言った平田さんから受けた影響という話に繋がりますけど、言葉への意識を散らすために、身体へ意識をシフトさせるというところまでは、平田さんの作業を追っかけているんです。ところが、言葉に意識を集中させると言葉が死んでしまうように、身体に意識をシフトさせることによって今度は身体が死んでしまう。なので、身体に意識をとどまらせることもできない。それで、意識をどこに持って行くかというと……ここからは言葉にするのが難しいのですが、イメージだのシニフィエ(意味されるもの)だの、いろいろな言い方をしているのですが、つまりは台詞や身体の動きに先立つものが人間の中にはあるはずだと。何か喋るにしろ、何か動くにしろ、ゆえなくしてではない、それらの出てくるところのものがあるはずだと。そこに意識を持っていく、それを自分の中に作れというのが、今稽古場でやってる僕の作業です。

──そのイメージというのはたとえば、スタニフラフスキー流で言う「衝動」とか、あるいは新劇の演出家がよく言ったりする「動機」とかいうものとは、違うのですか。
スタニフラフスキーやストラスバーグ、新劇のことも、よく知らないので分かりません。もしかしたら同じものかもしれません。同じものであってもなんの不思議もないです。何からすべての言葉や動きが出ているのか、その出所があるかないかというのは、演劇にとってすごく基本的なことを言っているだけですから。
ただし、僕が必要だと思っているイメージは、受け手にとってのイメージではない。ある台詞があって、その台詞を読んだ後から出てくる悲しみや喜びを「受け手のイメージ」と呼ぶとすれば、それではありません。というのも、僕が見る限り、「受け手のイメージ」で台詞を発している演技が圧倒的に多い。ある台詞から受けるイメージを使ってその台詞を喋る演技は、決定的に間違っていると僕は思います。僕が言っているのは、すべての言葉や動きを生み出す、出所にあるイメージのことです。

──岡田さんの稽古場では、稽古の始まる前に一般的な劇団で行われている肉体訓練の替わりのようにして、「今日あったこと」を俳優がダラダラと喋る、言葉の訓練のようなものがありますね。あの風変わりなトレーニングは何を目的としたものですか。
あれは、喋りの訓練と言うよりも、ふだん喋っているときに自分がどうやって体を動かしているかを知ることに目的があります。そして、その動きがいかに言葉から出てきていないか、それを知ることにあります。もうちょっと説明すると、そのとき喋っている言葉を仮に台詞として与えたとしたら、その台詞から作ろうとするとどれだけむずかしい動きを自分が普段しているかが分かってくる。それを分かった上で、普段の身体に見合った動きを、フィクションとして作る手助けにしてもらうための訓練なんです。
もうひとつ目的があって、それは、言葉に先立つもの、つまり僕の言っているイメージというものが、いかに豊かかということを意識してもらう訓練でもあります。豊かというのは、出てきた言葉に対して、それに先立つイメージのほうが圧倒的に情報量が多い。先立つイメージをすべては言葉にできていない。その氷山の一角ぶりを意識してもらうということです。逆にいうと、ひとつの台詞を喋るために、必要最低限のイメージを作るというのはつまらないことなのであって、台詞よりもずっと情報量の多い先立つイメージを作るために、自分で自分の中に起きていることを把握してもらう訓練でもあります。
僕は、身体と言葉は一致しないということをいつも俳優に言っています。現実の中で、喋っている言葉を補足するような身体の動きというのはごく稀であって、たいがいはまるで違った動きをしている。そのような身体が僕は豊かだと思います。その意味で、現実にある身体の方が、演劇にある身体より豊かなんじゃないでしょうか。だからこそ、現実の身体の豊かさに少しでも近づきたいと、現実をモデルにした演劇をやろうとしているんです。

──現実というものには一枚ベールがかかっていて、生活の中でその本当の姿を見ることは難しい。けれど、岡田さんの舞台を見ると、そのベールが一枚はげて、現実の生の顔が一部見えてくる、そんなこともあるんじゃないでしょうか。
それでよく言われるのは、僕の芝居を見た帰りに、電車の中でうちの俳優と同じようなヘンテコリンな動きをしているやつが電車に乗ってたって(笑)。まあそれは副作用であって、狙った効果ではないのですが、ちょっと大風呂敷に言うなら、たとえば唐十郎さんのテント芝居のラストでテントがバッとはね上がって、現実の風景が垣間見えることの効果と同じようなことであればいいなぁ、と思っています。
 
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