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Artist Interview
Leaders of Japan's avant-garde theater, The World of Yukichi Matsumoto and Ishinha
日本の前衛を代表する 維新派・松本雄吉の世界
キートン
キートン
キートン
維新派『キートン』(2004年)
photo: FUKUNAGA, Kohji (Studio epoque)
松本雄吉インタビュー

※このインタビューは1998年に発行された「維新派大全」に掲載されたものを、劇団の許可を受けて海外発信用に再構成したものです。


──前身の日本維新派の頃から野外上演にこだわってらっしゃいますね。松本さんにとって野外とは?
それについてはいろんなことを言ってきたけど、野外劇場の一番の意味というのは、「一回性の演劇」「一回性の劇場」ということだと最近すごく思う。それは、やろうとする強い意志としっかりした企画がないとできないし、中途半端にやろうと思ってもできない。
劇場の場合はとりあえず、1年も2年も前からホールの予約を押さえるけど、その場合はエネルギーがあるから押さえているわけではなくて、結局スケジュール調整で押さえるだけ。野外でやるというのは1年も前から、その時点からエネルギーを持ち続けなければいけない。それを持続できなくて、誰かが止めたいというと、すぐに駄目になってしまう。
つまり来年のことなんか考えないで、どれだけ一回性になれるかということ。何が俺らを野外に向かわせるのかということを自分自身で毎年毎年検証しないと、意味がない。無理して野外劇をやる必要はないわけやから。

──維新派は規模がだんだん大きくなってきて、大変さも大きくなっていますよね。
野外でやっているけど、最近はエンターテイメント的なやり方を目指しているから、あまり変な前衛やアングラみたいな低い次元の野外性は控えようと。簡単に言えば、客席はちゃんと見やすいようにして、受付はきっちりやって。チケットはどういうシステムで取れるのかとか。舞台は内容が薄くても(笑)見せ場は何カ所かつくるとか、そういうことはちゃんとしているから。お客さんは基本的に大事にせなあかんと思うから。俺らが年に1回、野外をやるというのを楽しみにしていてくれる人が多いと思うし。

──その野外というのは松本さんの中で方法論として切り離せないものですか。永遠に野外を続けていくのでしょうか。
それは考えてなかったけど、そういうふうに考えたらしんどいな(笑)。いわゆるアウトロー的な意味での……まあ、作品を作っている奴は本当はみんなアウトローだと思うけど、そのアウトロー的な意味での様式というか方法論というのは、固定して考えるべきではないというのが持論だから。野外というのは、単に劇場を外に建てるということではなく、「外に立ち続ける」ということだから。体制に取り込まれたくない、辺境や境界にいたい、漂流していたいということやから。
野外以上にアウトロー的になるという方法もまたあるだろうし。今の時期はアウトローがインローに対して頑張って、「ざまあみやがれ」ということをもう少しやりたいから。これだけアウトなやり方でも客を集められるとか、大きな事ができるとか。周辺にあるからといって、方法的に決して周辺的なことをやるのではなく、ものすごく中心的にやりたいしね。ただ立ち位置が違うというだけで……。

──維新派の野外劇場を建築の様式として考えると、建築というジャンルそのものを揺り動かす、非常にユニークな建築論が展開できると思います。
俺らは残らないものをつくっているわけだから、いわゆる建築ではないよね。1回きりの、その場限りの構築物だから。建築家が見に来たり建築の学生が見に来たりすると、うらやましがられる。非常に建築的であって建築物的でないところがいいと。基本的には見る、見られるという関係の境界をしつらえるのが劇場ということだから、地面に線引いて、ここからここまでが舞台、こっちが客席という街頭のガマの油売りみたいなことでいいという考えがある。
障子を使って作った劇場なんかは、指に唾つけて穴を開けられる境界だから、そういう考えが一番よく出ていると思う。淀川でやった『足の裏から冥王まで』の場合は、溝を掘って水を引き入れて境界を作った。結局、日常の風景の中で見えにくくなった闇というか、異界というのか、そういった世界の扉をしつらえるという、境界を具体的に見せるというのが、劇場ちがうかな。
ただ俺らの場合、すべてを手作りで四方八方、客席までも作り込むから、舞台に対する平面的な視線ということだけでなくて、視線が立体的になってくる分、闇とか異界があっちこっちに見え隠れする劇場になる。野外の仮設の劇場だから、コンクリートの壁で囲った街の劇場とは違って、あっちこっちから風が入ってきて、いろんな気配を感じる。その分、表現としての舞台に客の興味を惹きつけるというのが大変だけど。

──維新派の作品のキーワードに<路地>や<廃墟>というのがあります。
<路地>や<廃墟>というのは、「風のすみか」ということ。
思想家の吉本隆明が面白い観察をしている。自分の家の庭に盆栽を並べる人は縁側から見るためにという自分の視点から、ところが路地に盆栽を並べる場合はまるで夜店みたいにそこを通る人から見えるようになっていて、通行人に奪われても仕方のないような置き方をしている。路地というのはそういう道であって庭であるようなところ。自分と他人の境が曖昧な、所有の感覚がいい加減なとこなんだよと。どこへいっても「私」「他人」というのをはっきりしておかないと生きていけないところが人間にはあるけど。そういうのがいいかげんに曖昧になる世界というのは、俺らみたいなだらしない人間には非常にありがたいところがある。あいつもやっているというと、ほっとするような、そういうのが「路地」っぼい感覚だと思う。
「家」には製作者も所有者もいるわけだけど、路地や廃虚は製作するものでもなければ所有するものでもない。廃墟みたいなアパートが下寺町(大阪・浪速区)にあって、香港の九龍城みたいな集合住宅。あそこを見ていると路地が立体化したような感じがする。もとは、フランス人のデザイナーが設計したしゃれた建物だったらしいけど、住人がむちゃくちゃにしてもうた。いろんなややこしい住人がいたらしいからね。大正時代の話だから、決して、今みたいにサラリーマンばっかりじゃないから、製作者の意図を裏切るような結果になった。アパートというどの部屋も均一な風景というのに本能的に耐えられなかったんだろうね。
今の大阪の街には廃墟はほとんど見られないけど、街の要所要所に、古井戸みたいに廃虚があった方が本当は健康的な気がする。ワルが溜まれるところとか、野鳥が巣をかけるとか…街の傷というか。傷がない街って面白くないやろ。

──音楽家の藤本由紀夫さんが、維新派の舞台というのは、すごく土着的なように見えるけど実はすごくシンプルでモダンで機能的に作られている。それに感動したと言われていました。
演出家の太田省吾なんかも言ってたけど、維新派の場合、「野外劇」と謳っているから、野原の「野」だし、「野」には土とか自然というイメージがあって誤解されるから、別の言い方を考えたらどうかと。野外でやっているからといって自然児じゃないし、実際やっていることはすごく人工的なことだから。人工光が好きだし、トタンやペラペラの感じ、プラスチックやミニチュアの世界とか好きだし。そういう意味でモダンかもしれない。本人はウルトラ・モダンだと思ってるけど(笑)。
 
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