The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
Artist Interview
Leaders of Japan's avant-garde theater, The World of Yukichi Matsumoto and Ishinha
日本の前衛を代表する 維新派・松本雄吉の世界
流星
維新派『流星』(2001年)
photo: FUKUNAGA, Kohji (Studio epoque)
──維新派のスタッフには、美術の林田裕至さんとか、舞台監督の大田和司さんとか、映画関係の人が関わっていますよね。
演劇畑の人は簡略化とか象徴化とかを先に考えるところがある。舞台の上で水使うわけにいかないから紙でいきましょうとか、まず抽象化を考えて、それがセオリーになっている。「劇場」という存在自体が抽象的な所だから。俺の知っている映画の連中は作り方が男っぼいというか、本物指向が強くて合成とか嫌がってできれば本物でいこうと。映画というフィルムに還元される芸術の割には本物にこだわるというか。僕らが野外でやろうとする時に、そういう映画人の発想がすごく参考になる。

──具体的に影響を受けたとか好きな映画監督は?。
その時々で面白いものはある。『ブレードランナー』や『バクダット・カフェ』、『汚れた血』や大友克洋の『メモリーズ』とか、挙げていったらきりがない。
フェリーニやベルトリッチとかも、やっぱり見てしまう。日本映画では、俺は新藤兼人だよ。新藤の「裸の島」は名作だと思う。あの人の臭いところが好きやねん。死刑囚の永山則夫をモデルにした『裸の十九歳』とか。逆に鈴木清順とか、ああいう芸術ぶったものは嫌やね。映画はやっぱり古典的なセオリー通りのものに惹かれる。黒沢は大好き。彼は美術家だから、レイアウトが上手で、ひょっとしたらピカソ以上じゃないかと思う。すごいデッサンカがあって、役者がここにいたら、次は絶対にここに立たないかんという場所でびしっと撮る。

──文学では、宮澤賢治の言葉の冒険とかを、一番再現しているのは維新派だと思うのですが、賢治の言語遊びの部分や世界観とか近いものを感じますか?
鉱物に魂がこもっている表現とか、影響を受けてますよ。台詞でやたら金属やら物質の名詞を羅列するのは、表現としての鉱物性を宮澤賢治に教えられたせいかもしれない。賢治の作品を上演したことはないけど、その世界観には多分に影響を受けてるんだろうね。ただ、俺は尋常ではない巨人のようなイメージで捉えているから、そう簡単に宮澤賢治がどうのこうのと語れない。

──松本さんが今、一番、時代性を感じるのはどういう事柄ですか?
今一番問題にしているのは、若い子の故郷喪失やね。俺はうちの劇団の子に、無理矢理でもいいから故郷を作れって言ってる。故郷がなかったら人間じゃないから。別に故郷が日本的な木造家屋でなくてもいい。維新派が野外劇をやっている南港が故郷でもいいし、マンションが故郷でもいい。その、自分の故郷にいっぱい伝説を作れ、と。ノスタルジーってどこにでも宿るものだと思うからね。マンションのノスタルジー、そんなことを、小説家の村上春樹がちょっとやろうとしてるような気がする。それぞれ、自分で自分の故郷を作ったらいいと思う。

──美術との関わり・影響についてお聞きしたいのですが。
俺らの頃の美術界には面白い人が多かったから。影響を受けたというとやっぱり大阪の具体美術協会で、白髪一雄とか吉原治良とか、彼らは完全に美術という概念を崩していたからね。ものすごく前衛的な、前衛的だけどものすごくホットな、体ごとなにかをやっているというか。
高校の時に出会ったから、具体美術協会の精神は刻み込まれてると思う。
ともかく表現というのは人のやっていないことをやる、あるものを潰して、ない表現をやるということだから。内的テーマとかなんとかよりも、先に材料とか方法とか探さないといけない。なんでも面白いと思ったものは自分のものにしないと、その内容がどうとかいうのではなく、誰もやっていなければそれは面白いと。
あと時期はずれるけど「PLAY」という、今でいえばパフォーマンス集団があった。主宰者は池水慶一という人。俺も手伝ったりしていたけれど、この人たちがかなり面白いことをしていた。その当時はパフォーマンスといわずにハプニングと言ってたけど、直径5メートルぐらいのFRP(強化プラスチック)で作った卵を和歌山の潮岬に流す。その卵が海流にのって旅をして、サンフランシスコぐらいまで流れていくとか。よく知られているのは、丸太を200〜300本使ってビラミッドみたいな三角錐を作って、それで雷を捕まえるというプロジェクト。本人達は美術の延長としてやっているけど、ノンジャンルというか、周りからみたらそれがなんで美術やねんということばっかり。

──写真集が好きだそうですね。
どちらかと言えば、絵画より写真のほうが面白い。写真はやはり(その場)に行かないと映像が成立しないから、自分のアトリエだけに閉じこもって作品をつくるわけにはいかない。そんな、せまい空間だけの作家性でできてしまうものは、どんなに完成度が高くても面白くない。取材というかドキュメントというか、そういう外部に触れないとできないものに、興味がある。
ブラジルのセバスティアン・サルガードの労働者を撮った写真(『人間の大地 労働』)とか面白いと思う。以前は森山大道の『犬の記憶』や『光と影』などの写真集を見てイメージをふくらませて、脚本を書いたこともある。

──シュールレアリスムの思想に影響を受けていると聞きましたが。
学生の頃、みんなで「シュール」という考え方を結構突き詰めたことがある。いわゆる美術用語とは違う、自己流の勝手な説を立てる。普通は、まず世界という広い枠があって、その中にさまざまな部分があるという世界観があるが、僕らはシュールというのをその逆だと考えた。まず、どうしようもない個人個人がいて、どうしようもない事件があって、それらの集積がたまたま世界という不確かな概念を作っているんじゃないかと。だからすごく仏教的で、何があってもおかしくない。部分的悪、あるいは善を全て認めることで世界を組み立てていくと、どうしても世界像が壊れてしまう。そうなるのがシュールという考え方じゃないのかと……。ダリなんかのシュール像とは全然違うけどね。
だから、行為というのは決して俯瞰的な意味あいではなく、この世界において誰一人たりとも俯瞰する場所に立ったりはできない。世界を認識することはまず不可能で、偶発的な部分の集合が全体的な世界像として成立しているとしたら、世界像というのは常に風に揺られているようで、固定したイメージではない。自分のところに風が吹いて、丸太が飛んできたからそれを受け止めるぐらいのことしかできない。それが、肉体性と行為性と認識ということの三点がぶちあたる所だと考えた。
とにかく個人的な領域から始めていって、ちゃんと戦うべき奴と戦って、殺すべき奴を殺していったら世界に繋がっていくというのが、僕はシュールの考え方だと思う。だから、シュールの出発点は、すごく個人的なことを日常的に対処することなんやね。
そんな時に、ある演劇雑誌を読んでいて大笑いしてしまった。その時代、ブレヒトがどうのとか、「世界は演劇によって再現されるか」とか、そういうタイトルで対談するのが流行ったみたい。芝居の奴らはこんなことを考えているのかって(笑)。世界が認識できると思っているのかと。その辺がちょっと大上段というか大仰だなと。それが一部の層の一部の見方でしかないのに、世界が全てそういうふうな演劇像をみているような錯覚をしてたんだろうね。倒錯やね。そういう意味で芝居って遠いなと思った。
今はより個人的に部分的に囲い過ぎているから、逆に頭にくる。自分のことばかり書くな、たまには世界を語れとか言いたくなる時がある(笑)。

──いわゆるエコロジーとか反原発運動とか、そういうのがうさん臭いと、松本さんはいつも反発していますよね。
ああいう人はいつも世界像を持っていて、まるで世界があるようにしゃべる。前に舞踏家の麿赤兒と話をしていて、「アメリカまで続く橋ができたら、俺も世界がひとつやと思ったる」と。飛行機で外国へ行っていてその現実感があるのかなと。現実感をもった奴が誰かいるのか、物差しで測ったことがあるのかって(笑)。巨大な橋ができて、太平洋横断道路ができたら、世界がひとつになったと思ったる。飛行機に乗って世界をまたいでいる間は、世界大戦争や人種差別があっても当然かもしれない。
大阪港の天保山の竜宮温泉というところに風呂入りにいったら、そこにいる人たちが海運関係の人ばっかりで。みんな筋骨隆々。地域性がばっちり。大阪市内の風呂屋やと、サラリーマンも商売人も入っているという安心感があるけど、そこにいったら完璧にみんなたくましいし、親の血を引いているのか中学生くらいの子でも潮風にきたえられた顔をしてる。現代の逆地域性も見捨てたものじゃないなと思う。なんか人の体も物の考え方も平均化しているような気もするけど、ちゃんと見たら案外そうじゃない。科学的には平均化してるんだろうけど、実質はそんなに変ってない。一億総インターネットコミュニケーションになってもその辺は変わらないと思う。
 
BACK
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 |
NEXT
TOP