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Artist Interview
Leaders of Japan's avant-garde theater, The World of Yukichi Matsumoto and Ishinha
日本の前衛を代表する 維新派・松本雄吉の世界
水街
維新派『水街』(2000年)
photo: FUKUNAGA, Kohji (Studio epoque)
──今の「ヂャンヂャン☆オペラ」の維新派とそれ以前の劇団日本維新派の違うところは何でしょうか。
結局一番違うところは、以前は僕自身が出演して、自分の体というのを基本に作っていて、主役意識でやっていたし、全て自分の体に開きながらやっていた。あくまでも松本雄吉という個人の体を軸に考えていたから、たまたま集団を組んでいただけで一舞踏家というか、演出家ではなかった。

──転機は1985年の『オシリス』のあたりですか。
そうやね。役者との年齢の差みたいなものもでてきたし。時代も面白くなくて、そういう時期ってその行為すべてが本当に試行錯誤してしまって、空回りした時代だったと思う。やっとなんか社会に関係がつけられるような感じで、自分で作品を作りやすくなったというか、雑音がなくなって、突き詰めた作品が作れるようになったのは90年に入ってからやね。

──松本さんが考える体というのは?
僕は肉体という言い方ではなく、体という言い方を意識的にしている。僕はこういう虚弱な体だから、人間の体って不細工でたよりないイメージしかない。レントゲンを撮られている時の形とか、体というのはものすごく不細工なものだという意識がまずあった。そこからちょっとした距離で格好よくなってくる。そのちょっとした距離のステップというか、それが好きなんだよね。
だから舞台で表現すべき肉体美とかそういう考え方ではなくて、トイレでしゃがんでいる時の格好悪い姿を5センチ上げたら格好よくなるんじゃないかなとか。農作業をやっている婆さんから鍬取り上げて、田圃の畝を体だけでパントマイムみたいに後ろ歩きさせたら面白いとか。俺らのやる仕事はその辺から取材して、自分に引き寄せる作業だと思っている。
銭湯に行ったら、俺の体なんかいわゆる世間の男の体と違うのがよく分かる。そんな体の「世間とのズレ」を気にしていたけど、今思えばそのズレを踊りにしていたように思う。例えば、俺らみたいな細いのが喧嘩したら絶対最終的には負けるから、大きく見せる格好がうまい。自分の体と世間との距離を測って、それなりの努力をしてきた体かどうか。そういうことをガキの頃からやっているタイプと、全然やらずに暮らしているタイプとでは体のでき方が違う。
人間の体って、考え方から、生き方まで全部見えてくるから、一日中そいつの体を見ていたら分かる。人はどれだけ人の体を見て育ってきたのか、そういうことだと思う。人の体を見ながら育ってきた歴史は重い。親の食事作っている後ろ姿や、親の労働している体を見て、それに近くなろうとしてきたのか、否定してきたのか…。

──維新派が一貫して変わっていないところ、その核は何でしょうか。
僕らは表現における化学変化みたいなものを、一番楽しくやっているつもり。具体的にいうと、丸太が金の柱に見えてくる瞬間とか、うんこが黄金に見えるとか、一種の魔術やね。
昔絵を描いていた時のテーマが「全てを等質にもっていく」こと。肉というブヨブヨしたものと硬質なものとを、分け隔てしないというか、命あるものと命ないものとの差をなくしていく──今「ヂャンヂャン☆オペラ」でやっているのはイメージとしてその等質感を追求するということ。宇宙的な視点で言えば、あらゆるものが物質であるという言い方もできる。有機物と無機物の差がないという世界観。
雨上がりですべての物が濡れている等質な風景、あるいは乾ききった砂だけしかない砂漠の風景。ありとあらゆるものが、その存在の個別性を主張しているというのが日常なら、一旦その主張を引っ込めて、均一で等質な風景、そういった非日常に憧れる。ついでに自分もそこに埋没してしまいたいと願う。
そういった考え方が、維新派には一貫してあると思うよ。

──「悟る」というのは全部平等に見るということでもありますね。
差異を主張するのではなく、殻を破って色を落として、もっと大きなものに抱えられる宇宙的存在のホコリのような、否定するところからもっと深い自己が生まれるというか。「悟る」というのはそういうことやね。
 
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