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Artist Interview
Inside the mind of Shigehiro Ide, a unique talent of the contemporary dance world
コンテンポラリーダンス界の異才 井手茂太の発想とは?

『イデビアン』(1995年)   ©days

『コッペリア』(1999年)   ©days

『不一致』(2000年)   ©days
──その2年間で振付は? どんな作品をつくりましたか?
月1回パフォーマンスをやっていましたので、とにかくいっぱいつくりました。そのカリビアン風の振りのイデビアン作品をやったとき、ちょっと変な振付だったので、すごくウケました。僕もあまりにもハマってしまったので、自分なりにもっとつくりたくなって。ある意味ここから「パクり」みたいなものを始めたんです。
例えば、ちょうどリレハンメル・オリンピックのころだったので『イデハンメル』というのをつくったり、ピナ・バウシュが流行っていた時だったから『イデ・バウシュ』をつくったり。『イデリアム・フォーサイス』とか、『イデ・キリアン』とか。イデをつけるだけ(笑)。でも、ただおちょくっていたのではなくて、みんなあまりそういうものを知らなかったので、あえて付けていたんです。ジャズダンスが好きな人たちばかりだから、ピナの公演とか、授業の一環で団体チケットをもらっても参加しない人が多くて。もったいないから僕は余分にチケットもらって観に行っていましたね。
その当時から僕は振付を主にやっていて、自分自身は作品に出ていませんでした。というか、自分が踊ること自体あまり興味がなかったんです。授業でバリバリ踊っていてバリバリ優秀だったし、体重は今より余裕で10キロは少なかった。だけど仕切り役でもあったので、いろいろなグループの構成をつくらなければならなかった。まあ正直言うと、自分が出るまでの余裕がなかったということもあります。

──どういうかたちであっても月に1本振付をするというのは、自分自身が踊るのと違って、空間的なことから音、コンセプトまでを全部決めるわけですから、すごいですね。
大きなスタジオで簡単な照明はありましたけど、実際は身内だけのスタジオパフォーマンスです。月毎に違う先生が教えに来る「パフォーミングアーツ」というクラスがあったのですが、その先生からメソッドを教えてもらって、じゃあ今度はあなたが振り付けてみなさい、といった授業や、パブリックではないけれど人を呼んでもよいというパフォーマンスもありました。
そういう運命だったのか、しまいには先生にも「この辺で井手ちゃんの変な振りが欲しいんだけど」と言われて、先生の相談役になっていたりしました。僕は学生なのかアドバイザーなのか、不思議な環境でした。最初からずっとダンサーに振り付けていましたから、振付というものには慣れていたと思います。演出というか、やっぱりそういうのが好きだったんですね。学校はちゃんと修了したわけですし、好きじゃなきゃ、これだけ毎日通って、いろいろなことはできないでしょう。

──卒業してからは? その時はダンスを続けていこうと?
親には「卒業したらどうするの!」と言われましたが、とりあえず東京にいることにして、アルバイトをしながらダンスを続けていました。卒業してからも母校に、ちょっと代行で授業をやってもらえないか、と頼まれることもありました。何を教えていたか覚えていませんが。
他には、小川麻子さんなど学校の先輩たちがスタジオでダンスレッスンをしていると聞くと、魅かれてレッスンを受けに行ったり、セッションハウスの企画ものに出たり。それで、ちょうど卒業の頃に近藤良平に出会いました。彼は早稲田のサークルでモダンダンスをやっていて、面白いらしいと聞いて一度遊びに行ったんです。それで友だちになり、早稲田のモダンダンス部で一緒に踊ろうということになりました。良平さんも早稲田の人ではなかったのですが。その頃ちょうど、ドイツで学生のダンス・フェスティバルみたいなものがあって、それにみんなで行くことになりました。良平さんと僕と7人ぐらいで行って、演出はゴルジ工房の林貞之さんがやりました。

──それが学校の外で踊った作品としては初めて?
そうです。自分が出た記念碑的なものですが、そういうことを学校を卒業する時にやったので、なんだかもう、こんな感じで踊りを続けていければいいかなと思ってしまった(笑)。
これまであえて言っていませんが、卒業して3年ぐらいはダンサーとしてもたくさん踊っていました。何かのイベントの時にちょっと出演させてもらったり、そうするうちに小作品がたまってきていたんです。
そんな時、東京・神楽坂のセッションハウスで「ダンスシアター21」という、夜9時から公演すると会場を安く借りられるという良心的な企画があったんです。そこで、これまでの作品の総集編みたいな感じで公演をしようということになりました。95年1月13日の金曜日、「イデビアン・クルー」と名前を変え、『イデビアン』という作品で旗揚げ公演をやりました。

──『イデビアン』はまさに、その後の井手さんのスタイルを集約したような作品でした。デビュー作なのに、けっこうたくさんの人が出ていましたね。
学生時代のメンバーを中心に25、6人でやりました。実は、この作品をやろうと思ったのは、それでダンスをやめるつもりもありました。学生時代から続いていた「イデビアン」(結成91年)自体の卒業公演みたいな意識で、最後の記念に1回、大きくやらせてもらってやめようかなと。そうしたらすぐにドイツ・エアランゲンのARENA FES 95でこの作品をやってみないかと言われて、自腹を切って旅行がてら公演に行きました。そして帰ってきたら、パークタワーから「ネクストダンス・フェスティバル」で3年間やってみないか、と誘われて。あら、どんどんやめられなくなっちゃったノノみたいな感じです(笑)。

──それ以来、年に2本のペースで新作を発表し、「イデビアン・クルー」の結成4年後には、世田谷パブリックシアターで『コッペリア』(99年)という大作をやることになった。
『コッペリア』を選んだのは、バレエ作品をそれまでずっとやりたかったというのがあります。パークタワーは劇場というよりもホールですが、世田谷パブリックシアターはプロセニアムの劇場ですから、クラシック公演という感じの、なにかでかいことをやりたかったんです。僕自身学生時代にバレエを習っていましたし、卒業後もよくバレエレッスンを受けに行っていて、チャイコフスキーも好きでした。
『コッペリア』自体、物語は単純ですが、曲がいい。僕あまりストーリーをくっつけるのは得意ではないので、ただ音に合わせて動きたいと思いました。あのリピートしているような曲を聴くと段々怖くなってきますから、「あ、ここに岩下徹さんが出るとおもしろいな」とか。単純とはいえ、『コッペリア』をやるからには話の筋を通さなければならない。それで、あらすじだけ通しておけば、あとはダンスに集中して遊んでもいいかな、といったイメージでした。体育会系ではないのですが、群舞の振付はきちんとそろっていたと思います。あの時にカンパニーに新人を3人入れて、それまでとまったく違うところからつくりはじめましたが、振りや構成自体は、そんなに時間はかかりませんでした。むしろ曲の使い方、曲の並び替えなどの踊り以外の構成には時間をかけました。

──あのダンス的な動きは、井手さん自身が編み出した動きで、ダンサーたちの出や入りのフォーメーションなど、かなり緻密にやっていましたね。それで、井手さんのいいところは、一つの作品の評判が良くても、それを引きずらずに次の作品ではまったく違うことをやる。2000年にパークタワーでやった『不一致』は、がらりと変わりました。
ノストラダムスの大予言で99年に地球は滅びるという噂を信じていて、そのとき自分は絶対死んでしまうんだと思っていました。メモリアルで自分の葬式をしたくて、『不一致』をつくりました。でも、99年をすぎて「何ともなかったね」ということになりますが、やっぱり葬式はやろうと。それと、畳の上で踊りたいという希望がずっとあって、あの作品では、リノリウムではなく、床全面を畳にしました。背景には葬式で使う白と黒の横断幕を張り、登場人物は喪服を着て踊りました。あれは自分の葬式だったので、僕もダンサーとして出ました。もうこれで終わりにしよう、と。あと言葉の上で「性格の不一致」という響きが何となくずっと気になっていて、そのタイトルで作品をやりたいなと思い、最初からこのタイトルを決めていました。
葬式の風景ではありますが、音楽はラテンミュージックを使うことにこだわりました。そもそもラテンミュージックが好きなんです。やっぱり好きな音楽は全部聞きたいし、自分が演じるんだったら全編通してやろうかなと。でも、さすがに全部はキツかったので、2曲ぐらいは現代音楽、その他にアストル・ピアソラのタンゴの曲を使いました。
 
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