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Artist Interview
Kim Itoh, the cross-over dancer who redefined butoh and contemporary dance in the 90s, looks to the future
舞踏とコンテンポラリーの90年代を築いた越境のダンサー 伊藤キムのこれから


『禁色』
撮影:上牧 佑
――キムさんの活動の一つの節目となる作品が、2005年に発表した『禁色』です。これは、白井剛とのデュオで、これまでのキムさんの活動を凝縮したような大変密度の高い作品でした。『禁色』は言うまでもなく三島由紀夫の小説であり、同時に土方巽が舞踏を創始したと言われる伝説の舞台のタイトルでもあります。他のダンサーは、わざわざこのタイトルを、自分の作品に付けるなんていう、恐れ多いことはしません。このタイトルを使っただけでも、ある種の覚悟と意気込み、それに挑戦が窺えます。あえてこの題材を取り上げたのはなぜですか。
僕はこう見えてもかなり戦闘派なんです(笑)。この作品は、世田谷パブリックシアターに委嘱されて、最初は、男性ばかり7〜8人の演劇的な作品をやりたいという案を出しました。カンパニー企画ではないから、カンパニーではできないことをやりたかったんです。でもよく考えたら、大勢の作品はカンパニーでやっているんですよね。でもソロをやるつもりはなかったし、じゃあデュオかなと。デュオだったらもう一人は白井剛だ。それでインパクトのある作品となると、『禁色』しかないかなと思いました。

――その時思い浮かべたのは土方巽の舞踏の『禁色』ですか、それともその原作者である三島由紀夫の小説の方ですか。
両方です。

――それは確かに戦闘的ですね(笑)。舞踏界における土方巽や『禁色』の位置づけを知っていれば、センセーショナルすぎて、普通は誰もやろうとはしないですね。
中学生のときに見た『Uボート』というドイツの潜水艦を舞台にした戦争映画が好きで、変な話ですがああいう非常事態のなかにある緊迫感にあこがれていました。ヘラーっといるよりも何かを仕掛けて世の中を煽って、洗脳もするし扇動もする、そういうのに飢えていた。それでこの際、『禁色』をやるのもいいかなと思いました。
まあ、それがとりもなおさず自分のルーツを見つめるいい機会になったわけです。俺はやっぱり舞踏家なのかな、と。実は、その数年ぐらい前から踊りに対する情熱がなくなりつつあって、昨年ちょうど40歳になり過去を振り返ることも多かった。ある種曲がり角に立っていたことも影響していると思います。

――『禁色』は舞踏とコンテンポラリーの境界を異化してゆくような、刺激的な作品でした。9月にやったリヨン・ビエンナーレ、デュッセルドルフでの公演の評判はいかがでしたか?
反応はとても良かったです。でも、これは『禁色』だけではなく海外に行くといつもそうですが、「舞踏家・伊藤キム」として紹介されるし、作品が『禁色』だから余計にそうですが、「舞踏とは一体なんぞや?」という話があちこちから出てきてちょっと不思議な感じがしました。
去年日本でやったときも、作品そのものに対する評価はいろいろと聞きましたが、『禁色』をやったということに対する意見はあまり耳にしなかった。自分のやったことが、意味があったのか、なかったのか、見た人たちの捉え方は一体どうだったのか、今回海外でやってあらためて気になりました。

――昨年、日本で『禁色』を初演してから、半年間、活動を休止して世界一周旅行に出かけたそうですね。キムさんは、もっとも期待されている舞踊家の一人で、いちばん活躍できる時期に、ダンスの仕事をすべて休んでそんなに大きな休暇をとったのはどうしてですか。
とにかく休暇がほしかった。95年にカンパニーを作ってからはカンパニー活動を軌道に乗せることに集中してきました。しかし、3年ぐらい前から作品がマンネリになってきたという自覚もありましたし、創作意欲も落ちていました。これじゃあダメだ、本当に休もうと考えていた時に、世界一周を思い立ちました。ですから、セゾン文化財団のサバティカル休暇制度が新設されたのは、いいタイミングでした。

僕には、踊りをやっているのは仮の姿で、自分はもっと社会のいろいろなものを吸収して、他のジャンルでも何かをやってみたいという漠然とした興味がありました。社会学専攻ですから(笑)。大学生のときはマスコミ志望だったのですが、たまたま出合った踊りに魅入られて、結局20年近くつづけてきたわけで、そのこと自体あまり本意ではなかったかもしれません。後悔しているということではなく、自分が本来求めていたものの根っこは同じだけれども、表現の仕方やスタイルが違っていてすべては偶然の巡り会わせで今の自分がある。そういうことを、旅行しながら考えていました。つまり、旅をしてみて僕はこんな狭い世界で20年も生きて来たのかと実感しました。それなりに世の中のことを知っていたつもりだったし、自分なりの世の中の見方や知識があると思っていたんですけど、とんでもない。むちゃくちゃ井の中の蛙だな、と改めて思いました。

――キムさんは、ダンスの世界にいる人たちの中では、外側の社会に目が向いている数少ない振付家だと思いますが、そういう人だからこそ世界を回って余計にふだん見えてこない世界がヴィヴィッドに見えたのかもしれません。自分の中で以前と明確に変わった部分はありますか。
性格がオープンになったことかな(笑)。僕は人付き合いが苦手で、どちらかというと家に閉じこもってじっとしているタイプで、あまり社交的じゃなかった。しかし今は、自分であちこちに顔を出すようになったし、人と気軽にお茶を飲んだりするようにもなった。フィールドを広げつつあるというか、自分から動くようになってきたという感じです。よく考えてみると踊りを始めた頃は、そうやって動いていたんですよね。カンパニーの実績ができて、ちょっと天狗になっていたのかもしれません。それを6カ月の旅でリセットしてきたんだと思います。

――半年間、まったくダンスから離れて、世界各地の貧困とか、われわれの尺度では推し量れない宗教観や価値観のなかで生活をしている人たちと出会って新たな気持ちになれたのは意義深いことだと思います。『禁色』というエポックになる作品を発表し、長い旅から帰り、今後はどのような活動を考えていますか。
それでもまだ、踊りから離れたいという気持ちがあるのは事実なんです。ただし、離れるといってもそこで培ってきたものや人間関係などは大事にしつつ、別のこともやっていきたいということ。具体的に今後踊りとどう関わっていくかは、まだ整理できていませんが、来年からカンパニーのスタイルを変えようとは思っています。カンパニー名から「伊藤キム」を取って「輝く未来」だけにして、僕は主宰者ではあるけど作品はつくらず、他のメンバーがつくった作品でダンサーとして踊るだけ。この秋にワークショップをやって、その中から選んだメンバーと来年の春に再始動します。今は自分でつくりたいとは思わないけど、過去の作品を再演するためにもカンパニーはシステムとして残しておきたいし、次の世代をバックアップし、育てていきたいと思っています。

それと今、文章を書くことにとても興味をもっています。最近は俳句をやったり、雑誌や新聞に原稿を書いたりしていますが、本格的に活動していきたいと思っています。旅の途中で『身体国語辞典』というタイトルで書き始めたものがあるのですが、例えば「目が据わる」とか「首が回らない」とか「手が早い」という身体にまつわるフレーズを1つ1つ取り上げて、僕なりの解釈で短い文章を添えています。できればこれを雑誌で連載して、将来的に単行本にしたいと思っています。

――キムさんは言葉に対してしっかりとした意識をもっているし、いろいろなことを言語化するとき、言葉のチョイスが適格です。だからそちらでも面白い仕事ができるでしょう。 これからはずっと舞踊作品はつくらないのですか。
それはわかりません。ソロで即興をやることはあるかもしれませんが、でも今は本当に全くつくりたくない。新しいカンパニーもやってみないとわからない。ただ、ワークショップや審査員などの教育プログラムには興味があります。ずっと先のことになると思いますが、いずれは学校をつくりたいとも思っています。
踊りに情熱がなくなりつつあったから、それを打開するために長い休暇を取ったら、さらに離れてしまった。なにか古い自分に見切りを付けるための旅だったような気がします。ただし、それはそれで良かった。踊りそのものに情熱がなくなったというよりも、その分の情熱が他の分野に向いていて、そこからまた今までとは違った新しい活動がでてきそうな気がしています。とにかく、これからやってみないとわかりません。
 
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