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青木豪
青木豪(Go Aoki)
1967年神奈川県横須賀市生まれ。明治大学文学部文学科演劇学専攻卒。 演劇集団 円 演劇研究所 卒。97年に旗揚げした劇団グリングの作品すべての作・演出を務める。舞台にとどまらず、『中学生日記』(NHK脚本)や、『IKKA:一和』(第11回PFFスカラシップ作品)の共同脚本、ラジオドラマの脚本も手がける。

近年の主な舞台脚本・演出作品(外部公演のみ)
2005年・2006年 劇団銅鑼『流星ワゴン』脚色(原作 重松清)
2005年演劇集団 円『東風』作・演出(鶴屋南北戯曲 賞ノミネート作品)
2005年東京グローブ座『エデンの東』脚本
2006年文学座アトリエ公演『エスペラント 〜教師たちの修学旅行の夜』脚本
2006年9月シス・カンパニー公演『獏のゆりかご』作・演出

グリング
http://www.gring.info/index.html
虹
虹
虹
虹
グリング第13回公演『虹』
(2006年12月20日〜24日/紀伊國屋ホール)
作・演出:青木豪
撮影:鏡田伸幸
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an overview
Play of the Month
Artist Interview
2007.1.22
Portraying the places where people with grudges come and go. The world of Go Aoki, a playwright shining light on the creases of the soul  
わだかまりを抱えた人々が通り過ぎる「場」を描き 心の襞を照らし出す青木豪の世界  
新劇の養成所を経て、自らが作・演出するプロデュースユニット「グリング」を立ち上げた青木豪。塾の隣の空き地や、つぶれかかった動物園の広場、ストリップ劇場の楽屋などを舞台に、そこに集う人々の心の襞を丁寧に描き、現代社会における人々の生き方を見つめる彼の作劇術とは?
(インタビュー:岡野宏文)



──青木さんは、演劇集団「円」の研究所のご出身です。小劇場系の劇団は学生時代に仲間を集めて結成することが多いですが、円のような新劇の劇団の研究所に籍をおいたことがあるというのはユニークだと思います。
そもそもからお話すると、演劇をはじめたのは高校生の時からです。ただ男子校の演劇部だったので、演劇が好きで在籍しているのは僕だけで、残りのメンバーは鍵の掛かる部室が持てるから入ったとか、そういう不純な動機の連中ばっかりでした。大学の附属高校だったのでそのまま大学まで行けたのですが、その大学は演劇があまり盛んではなかったため、演劇をやるには早稲田大学か、明治大学だろうと受験して、明治に入りました。
ところが、明治大学の学生劇団として生まれた第三エロチカが独り立ちしたばかりの時期で、いい俳優は全部そっちに持っていかれて人材が乏しかった。仕方なく先輩に誘われて映画研究部に入ったのですが、芝居をやりたがってるやつがいるからお前役者で出てみないかと誘われ――その演出家がいま文学座で活躍している松本佑子さんだったんですけど――その時知り合ったメンバーと、その後、僕が作・演出して1本上演しました。
そしたらこれが非常に稚拙というか、全然ダメで。同年代の人間と組んでやったのでは限界が見える気がして、さまざまな年齢層の人がいる劇団に入って、どうやって舞台を作るのかを一から勉強し直そうと考え、大学3年の時に入団試験を受けました。

──入団試験を受けたのは円だけですか?
実は、演出家の蜷川幸雄さんが若い俳優と立ち上げた「ニナガワスタジオ」も受けたんですが、落ちたんです。もの凄く緊張しちゃって、あらかじめ渡された戯曲の抜粋を、自分なりの仕方で組み立てて喋るテストでしたが、セリフが全部飛んじゃった。必死で思い出して演ったらすごくゆっくりになり、蜷川さんに「そんなゆっくりやってたら、みんな寝るんだよ、バカ。帰れ」って言われて(笑)。
円の入団試験の時は、あれほど緊張することはもう二度とないだろうというニナガワスタジオでの経験のおかげで、まるで緊張することなくうまくいきました。

──なぜ「円」を選ばれたのですか。
劇団内にいろいろなタイプの演出家がいたし、やっている作品の傾向もバラバラだったんですね、ちょうど僕が受験を考えていた年は、小劇場出身の人気作家だったつかこうへいもやれば、無言劇の太田省吾やシェイクスピアもやる、ラシーヌもある、これだけメチャクチャだと僕の付け入る隙もあるだろうと思いました。
既成の小劇場に入ろうと思わなかったのは、日本の小劇場は作家が演出家を兼ねて劇団を主宰するという独特のスタイルがあるじゃないですか。入団して、僕も作・演出やりたいですって言ってもやらせてもらえないだろうと思ったものですから。

──新劇団のような職業劇団には文芸部・演出部というのがあると思いますが、その研究所ではどのような勉強をしているのですか?
他の劇団のことは知らないですが、円の研究所には、特別なカリキュラムや勉強はなかったですよ。最初半年間は、俳優たちと一緒に声を出すトレーニングなどをしましたが、その後はもうすぐに本公演の舞台監督助手のような形で大道具・小道具の制作を手伝いました。研究生が行う公演のスタッフもやっていたので、道具を叩いて(つくって)、稽古につきあって、また叩いて、仲間と飲みに行って、気がついたら午前3時。朝の7時半には自主練習をやる研究生のために稽古場の鍵を開けに行く‥‥。もう稽古場に住んでいるようなものです(笑)。
ですから、劇作も演出もほとんど独学なんですが、ただ、円に佐久間崇というチェーホフに造詣の深い演出家の方がいらっしゃって、佐久間さんには教えられたところがたくさんあります。例えば、「舞台に出ていない人物が、舞台の外で何をしているかということを絶えず考えろ」って仰っていたことは、今でもずいぶん役に立っています。

──職業劇団の研究所にも演出家養成のカリキュラムがないとしたら、日本の演出家はどんなふうに育っているのでしょうね。
それがかなり問題だと、僕は思っています。学ぶことがないわけですから、自分が勝手にこれは新しいと創案したことが、たまたま他人にも新しいと思われて頭角を表すしかない。下手したらその時代の社会現象と偶然に一致してヒットしたとか、そんなことから出てくることになるわけですから。

──グリング旗揚げの経緯は?
もともと作・演出家志望だったのですが、円の研究所に入って2年目に役者になりたくて俳優部に転部しちゃったんです。4年目の劇団に残れるかどうかの査定で撥ねられた時には、役者になりたい気持ちでいっぱいになっていたので行き場を失って、誘われるままに、しばらくはあちこちの公演に出演させてもらっていました。
でも、もともと作・演出家志望ですから、どこへ行っても生意気なことを言うわけです。演出家にむかって「その動きは違うよね」とか(笑)。僕の劇団にこういう役者がいたらまず最初に一緒にやりたくないって思うタイプ(笑)。だんだん誰も使ってくれなくなって、円の先輩で演出家の宋英徳さんにも「そんなにあれこれいうなら自分でやれば」とか言われ、それじゃあと思って劇場を借りることにしてしまった。その辺まででボヤボヤと30歳になっていました。

──先に劇場を押さえてから、グリングを作ったんですか?
そうなんです。グリングは初め円の時の同期などに声をかけて、スケジュールがあいている人を集めて公演をやるというセルフプロデュースのスタイルでしたから。お金がなくて、3回公演までは僕が塾の講師などで必死に稼いで続けました。お客さんの受けもそれなりによかったので、「もしこのまま続ける気があるなら、みんなで公演資金の積み立てをしよう」と申し出て、今に至ります。
 
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