The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
Artist Interview
Speaking with Oriza Hirata, a new opinion leader in the world of contemporary theater
現代演劇界のニューオピニオンリーダー 平田オリザに聞く
ソウル市民
『ソウル市民』
(2006年/吉祥寺シアター)
撮影:青木司
ソウル市民1919
『ソウル市民1919』
(2006年/吉祥寺シアター)
撮影:青木司
ソウル市民 昭和望郷編
『ソウル市民 昭和望郷編』
(2006年/吉祥寺シアター)
撮影:青木司
──平田さんの代表作である「ソウル市民3部作」について伺います。第1作『ソウル市民』が1989年初演、第2作『ソウル市民 1919』が2000年、第3作『ソウル市民 昭和望郷編』が2006年12月に初演されて三部作が完結し、昨年12月に一挙に連続上演されました。
 第1作は、1909年、日韓併合の前の年、2作目はちょうど10年後の「三・一独立運動」の時期、3作目が1929年10月、世界大恐慌が始まる直前と、ちょうど10年刻みの設定になっています。ソウルで文房具店を営んでいる篠崎家の繁栄から崩壊までが、韓国の政治情勢を非常にビビッドに映しながら描かれています。大変よくできた構成ですが、当初からこういう構想でスタートされたのですが?

 こんな三部作になるなんて想定もしていませんでした。本当に運がよかったと思います。第1作目は、植民地化する前の年ということで1909年を設定として選びました。篠崎家は日本人の家族だからソウル市民ではありませんが、あえてアイロニーを込めて『ソウル市民』という題名にしました。
 戦争や植民地についての文学や戯曲はどこかステレオタイプのものが多くて、悪役の軍人や財閥が登場して、庶民はいつも虐げられる側で、例えば韓国の人たちはいつも抵抗運動をしているとか。そういうイデオロギーに先導されたようなことを書いていたら、逆に権力者につけ込まれてしまうだけです。それで、漠然とですがもっと現実を直視しなければと思って書きました。
 僕にとって“市民”というのは、選挙権をもっていることを含めて、自由に選択できる余地の残っている人のことです。“ポイント・オブ・ノーリターン”という言い方がありますが、歴史にそんな地点はないと私は思っています。植民地支配からまだ引き返せた1909年という設定で、ソウルにいたもっともリベラルな日本人の家族が「ソウル市民」として植民地支配を支えた、という物語にしました。
 本当に間抜けな話ですが、7、8年経ってから、「あ、これ10年後は1919年だな」と気づいた。他の作品でも10年後の設定で連作を書いていますし、じゃあ『ソウル市民』も10年後が書けるなと(笑)。もちろん『1919』を書いた時点では、3作目は想定していました。
 
──当時の風潮の中ではインテリで良心的な方の日本人の家族を描いていますが、とはいうものの1作目では娘などが植民地意識丸出しの、韓国の文化をバカにしたような発言をします。普通はその流れの中で発言を咎めて丸く納めますが、庶民の責任を直視する『ソウル市民』では意図的に言いっぱなしになっています。韓国で公演された時の反応はいかがでしたか。
 93年の韓国公演はものすごく緊張しました。みんなで韓国語を修得して、韓国語で上演しましたが、当時は僕の劇団もあまり有名ではなかったし、“静かな演劇”という言葉もない頃だったので、何をやっているのか全く解らなかったようです。これは芝居なの?という感じで内容に言及されるところまでいかなかった。
 その後、『1919』は、イ・ユンテク率いる劇団コリペという有名な韓国の劇団が上演してくれました。本当に心配で、「三・一独立運動をこんなにちゃかしても大丈夫か?」と彼に聞いたのですが、「大丈夫だ。俺がもっと面白くしてやる」と。僕も見に行きましたが、この時は最初から最後まで若いお客さんが大爆笑していました。
 彼は、登場人物の半分ぐらいを韓国人、たとえば日本育ちの韓国人とか、どちらの国の人間にも見えるようにエクスキューズを入れながら演出していて、すごく巧いなと思いました。僕が行った時に会議があり、韓国の評論家などが集まっていたのですが、「この作品は韓国の劇作家によって書かれるべきだった」と言っていただいてとてもうれしかった。今度は、三部作ごと持って韓国公演ができればと思います。
 ソウル市民は日本の植民地支配を題材にしていますが、どこの国にも自国の過去の植民地支配を正当化したがる人々がいます。その時には必ず他の国の植民地支配よりましだったと、他国との比較になる。でも、そうではなくて、それは植民地支配の質が、収奪型から殖産型になったなど質が変わっただけの話で他国の領土を支配していることは同じです。日本の場合は、同化型という変な支配の仕方をしたために、朝鮮の方々との精神的な関係を強くゆがめてしまい、それを修復するのに戦後60年を越えてもまだ清算できない。そういう植民地支配の悲惨さをそれぞれの国の芸術家が記述していくことはとても重要な事だと思います。

──平田さんは海外との共同制作も行なわれています。2002年に新国立劇場で上演された『その河をこえて、五月』は、平田さんと韓国の劇作家のキム・ミョンファさんの競作でした。平田さんとイ・ビョンフンさんとの共同演出で大変評判を呼び、朝日舞台芸術賞のグランプリを受賞されています。
 また、今年5月には、日本と中国との共同制作により『下周村(かしゅうそん)−花に嵐のたとえもあるさ−』が新国立劇場で上演される予定です。これは、香港で幕を開けた後、北京、東京に回られると聞いています。
 日本では、劇作家として海外との共同制作をこれだけ手がけている人はいないと思います。そもそものきっかけを聞かせてください。

 栗山民也さんが新国立劇場の芸術監督になられた時に、作品制作の依頼がありました。しかし、僕は国立劇場だけが国の支援を受けるのはおかしい、公立や民間の劇場にも助成が出ない限り、新国立劇場には協力しないというスタンスでした。でも2002年の日韓共催ワールドカップに合わせた日韓友情年の記念事業で上演して欲しいと言われ、特別に引き受けました。
 その代わり、今までにない枠組みでやりたいと、日韓両方で書いて、両方で演出して、俳優やスタッフも半々にしたいと提案しました。
 僕自身は、海外との共同制作に興味があるというよりも、作家・演出家として多言語の演劇に一番興味があります。舞台上に様々な言語が飛び交っていて、しかもそれがきちんと成立していることに興味がある。それは日韓でも日仏でも日中でも同じです。
 そのためには、戯曲を書く段階で相当に頑張らないとできませんが、今は字幕システムもよくなっているので、実験演劇のようなものではなく、来たお客さんに楽しんで帰ってもらえるようなものとしてつくりたいと思っています。

──今までも確かに多言語が飛び交う演劇はありましたが、確かに実験的なレベルに留まっていたように思います。しかし、『その河をこえて、五月』は、韓国語の先生と日本人の生徒といった設定にも必然性があり、日本語と韓国語のコミュニケーションとして成立していた。こういう仕掛けなど、ミョンファさんとの共同作業はどのようなものでしたか。
 戯曲を共同でつくるのはものすごく大変な作業でした。3日3晩話し合いを行ない、24ぐらいの綿密なプロットをつくり、僕が映画の絵コンテのようなものを書きました。それを、1番〜10番までは僕、11番〜20番はミョンファ、21番〜24番はまた僕、と二人で割り振って書きながら、石川樹里さんという優秀な翻訳家を介して何度もやりました。僕は韓国語を読むぐらいはできるので、両方を照らし合わせることはできますが、ミョンファさんは日本語がわかりませんから。
 こういうことはメールが発達したからできることだと思います。ある程度、まとまってきたところで、合宿して上演台本をつくりました。それから演出家のイ・ビョンフンさんと一緒に現場で直していきました。結局、共同台本をつくるのに1年ぐらいかかりましたね。
 ティヨンヴィル=ロレーヌ国立演劇センターとの共同プロジェクト『別れの唄』は、僕が全部書きましたが、翻訳してもらった後、僕と翻訳家と通訳と演出家の4人で、これも3日間ぐらい合宿しました。それで、フランス人が喋るセリフが彼らの感性としてどうかをチェックしました。
 『下周村』は僕が8割方書いて、李六乙が8割方演出するので、少し違いますが、いずれにしてもフランス人や中国人がしゃべる内容を予想して書く訳ですから、必ずパートナーがいてチェックしてもらうことが必要になります。
 
BACK
| 1 | 2 | 3 | 4 |
NEXT
TOP