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串田和美
串田和美(Kazuyoshi Kushida)
1942年東京生まれ。俳優、演出家。俳優座養成所を経て65年に「文学座」入団。翌年、佐藤信、斎藤憐、吉田日出子らと劇団「自由劇場」を結成し、「アンダーグラウンドシアター自由劇場」を拠点に活動。75年に劇団名を「オンシアター自由劇場」に改め、『幻の水族館』(76年)『もっと泣いてよフラッパー』(77年)の作・演出、斎藤憐作の『上海バンスキング』(79年)『クスコ』(82年)などの演出を手がけ、数々の人気作品を生む。85年の開業準備室期にBunkamuraシアターコクーンの初代芸術監督に就任し、設計段階から同劇場立ち上げに関わる。89年の劇場オープンと同時に、主宰するオンシアター自由劇場はフランチャイズ契約を結び、劇場レパートリー制の導入、毎年異なる演出家による『夏の夜の夢』の連続上演、中村勘三郎と組んだ「コクーン歌舞伎」など、精力的な劇場運営を行う。「コクーン歌舞伎」は現在も同劇場の人気シリーズ企画として続いている。96年シアターコクーン芸術監督任期満了と同時にオンシアター自由劇場を解散。2000年から日本大学芸術学部教授、03年4月からまつもと市民芸術館館長兼芸術監督を務める。06年コクーン歌舞伎・第7弾「東海道四谷怪談 北番」の演出で、第14回読売演劇大賞最優秀演出家賞受賞。

「串田戯場―歌舞伎を演出する」
ブロンズ新社
2,100円(税込)
ISBN:4-89309-418-1


コクーン歌舞伎
十八代目中村勘三郎が、若者の街・渋谷から歌舞伎を発信したいと、串田和美らとともに東京・渋谷のBunkamuraシアターコクーンで1994年から行っている歌舞伎公演。勘三郎率いる歌舞伎役者・歌舞伎囃子のほか、現代劇の俳優・笹野高史、電子音楽パフォーマンスの朝比奈尚行らが演目ごとに加わり、自由で斬新なアイデアに満ちた新演出で話題を呼んでいる。これまでに上演した演目は『東海道四谷怪談』『夏祭浪花鑑』『盟三五大切』『三人吉三』『桜姫』。同シリーズは回を重ねるごとに新たな歌舞伎ファンを増やしている。

平成中村座
十八代目中村勘三郎が、江戸時代(17世紀)に実在した芝居小屋「中村座」のような古き良き歌舞伎の雰囲気を平成(今の日本の元号)の現代に再現したいと、野外に仮設小屋をつくり、2000年から取り組んできたプロジェクト。これまで『義経千本桜』『加賀見山再岩藤』『弁天娘女男白浪』『本朝廿四孝』『人情噺文七元結』『法界坊』などの古典演目を現代演劇の演出家・串田和美による新演出で上演。2004年には初の海外公演をニューヨークで行い、リンカーンセンター前の広場に東京・浅草隅田川沿いに設置した芝居小屋をそのまま移設して話題となった。2007年夏にニューヨーク、08年にヨーロッパ公演が予定されている。

Bunkamura
東急グループが運営する民間の複合文化施設。1989年オープン。東京の中心地の一つである渋谷に立地し、2150席のホール(オーチャードホール)、747席の劇場(シアターコクーン)、美術館、映画館などがあり、舞台芸術の発信源の一つとなっている。初代芸術監督は串田和美(89年〜96年)。現在は蜷川幸雄が芸術監督を務めており、蜷川作品の東京公演の拠点となっているほか、小劇場出身の気鋭の劇作家・演出家を登用し、テレビや映画でも活躍する俳優をキャスティングした話題作を発表している。
http://www.bunkamura.co.jp/

松竹
映画配給と、歌舞伎を中心に新派、松竹新喜劇など演劇の製作・興行を行う民間企業。1895年創業。本社は東京都中央区にある。歌舞伎座、新橋演舞場、大阪松竹座などを運営する。

状況劇場
1963年に唐十郎らが旗揚げ。67年から、「紅テント」公演として新宿花園神社を皮切りに全国各地で野外のテント公演を行う。小劇場演劇の第1世代としてアンダーグラウンド演劇の先頭を走る。88年に解散し、現在は劇団「唐組」として活動。
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an overview
Artist Interview
2007.6.30
Directing through the worlds of Brecht and Kabuki Exploring the world of director Kazuyoshi Kushida  
ブレヒトと歌舞伎を股にかける 演出家、串田和美の劇場世界とは?  
中村勘三郎と組んだ「コクーン歌舞伎」「平成中村座」の演出で脚光を浴びる串田和美。オンシアター自由劇場を率い、小劇場演劇第一世代のリーダーとして30年にわたり活躍。そこで培われた劇場観と観客との一体感をつくりだす卓抜したセンスで時代をリードしてきたトップランナーに迫る。
(聞き手:扇田昭彦)



──串田さんは、1960年代からスタートし、数多の才能が開花した日本の小劇場演劇を牽引した自由劇場(後にオンシアター自由劇場と改名。1966年〜1996年)の主宰者であり、作家・演出家・俳優として活躍されてきました。また、東京・渋谷の真ん中に1989年にオープンした複合文化施設「Bunkamura」の開設準備から携わり、シアターコクーンの初代芸術監督に就任。2003年からは長野県松本市の公立文化施設、「まつもと市民芸術館」の芸術監督兼館長になられるなど、常に再前線で仕事をされています。
特に、1990年代以降の串田さんの仕事で重要なのが、現代演劇の演出家がはじめて歌舞伎の演出を行った「コクーン歌舞伎」「平成中村座」の活動だと思います。それは、歌舞伎を伝統的な形で上演するのではなく、現代の目で見て演出し直すという、非常に画期的な仕事でした。まず、そこからお話をうかがいたいと思います。コクーン歌舞伎は、歌舞伎の専用劇場ではないシアターコクーンで公演を行うものですが、どういった経緯で始まったのですか?

私が芸術監督をしていたので、松竹の大沼信之さんが、ここで歌舞伎をやらせていただけないかと相談にいらっしゃった。その時は、以前、渋谷のデパートにあった東横ホール(1943年〜1971年)で行われていた歌舞伎公演のようなことを考えているのかな、それならちょっと違うなと思いました。
実は、僕は、絵や資料で見て、昔の歌舞伎小屋は近代西洋の発想とは全然違う劇空間で面白いと若い頃から興味をもっていた。シアターコクーンはコンクリートでできた現代的な劇場ですが、設計するときに、こういう歌舞伎小屋にも通じる劇場のあり方について、建築家などと随分議論しました。
近代的な劇場は、舞台の上にある完成された芸術作品を客席で観客がおとなしく鑑賞する、そしてどの席からも均等に見えるというのが理想ですが、歌舞伎小屋のような劇場は客同士が一緒にいることがよく見える劇空間になっている。けんかになったり、「いい女がいるなあ」とお客さんがお客さんを見たり、休憩時間も楽しかったり。そういう劇場のあり方をもう一度思い出してみるのはどうですかと、設計会議で話しました。
そういうコクーンのもつ雰囲気が大沼さんに伝わったのかもしれない。もし、そういうものを追い求めているのなら一緒にやれるのではないか。それなら、中村勘九郎さん(現・勘三郎)に関わってもらいたいと直感して、江戸時代の古い芝居小屋である四国の金丸座で公演をやっていた彼を訪ねたんです。そしたら、うれしそうに小屋の裏側をいろいろと案内してくれて、勘九郎さんも僕たちがコクーンで「三文オペラ」を上演していたときにコクーンを見に来てくれた。ああこの人とならと、お互いが求めている精神の共通性を嗅ぎとったという感じで一緒にやることになりました。
ブレヒトと歌舞伎では全く違うもののようだけど、観客と一体になるとか、ただの心理的なものだけではなく、舞台と客席が行き来するような演劇のあり方とか、それがやりやすい小屋(劇空間)とか、そういう共通点があります。そこがお互いの出発になっていると思います。

──勘三郎さんは、70年代の終わり頃、高校生のときに状況劇場のテント公演を見て、凄く感動したと書いていらっしゃいました。猥雑でエネルギッシュで熱い空間があって、初期の歌舞伎はこういうものだったんじゃないか、そのうちこういうのを歌舞伎でもやってみたい。その気持ちがコクーン歌舞伎に結びついたと。そういう意味では、勘三郎さんにも現代演劇に歩みよろうという姿勢があり、串田さんも歌舞伎に現代の目から近づこうとしていた。その両方が非常にうまいところで手を結んだ感じがします。
そうですね。今はまだそういう言い方しかできませんが、勘三郎さんのような人も出てきたし、以前から歌舞伎俳優は現代演劇を演じているし、歌舞伎の中にも古典的なテクニックが絶対に必要な演出もあればそうでないものもあるのだから、上手くすればそのうちに古典と現代劇との境が混沌としてなくなってくるかもしれません。そう簡単ではありませんが。

──そもそも歌舞伎では演出家という役割はなくて、必要なことは座頭がやっています。たまに新作歌舞伎をやる場合などに演出が入ることはありますが、基本的に歌舞伎の伝統的なスタイルを変えるものではありません。ですから、串田さんが歌舞伎の演出をしたというのは本当に画期的なことなのですが、役者さんに抵抗感はなかったのでしょうか。
そこは勘三郎さんが防波堤になってくださっていて、みなさん「彼が言うんだから」と。もちろん、いまだに戸惑いや葛藤はあると思います。だって、物心ついた時からずっと見ているものを変えるというのはそんなに簡単なことではなくて、お箸を急に左手で使えと言われても、面白いけど手が動かないよ、みたいな(笑)。そのぐらい身体に染み付いてしまってることなんです。
だから、例えば『桜姫』や『盟三五大切』のようなあまり上演しない演目は割と演出しやすいのですが、『三人吉三』のようにいつもやっている演目は、もう、だまっていても口は動くし、足も必ずこうなるという型が身に付いている。それを変えるわけだから、本当に大変なことだと思います。

──串田さんは歌舞伎を演出する場合、どのようなアプローチをされますか?
まずは、原作を読み込んで、その後ろに流れる空気のようなものを想像して、自分流の解釈をすることからはじめます。それで、ひとつは、物語の中の役柄の心理についてこうじゃないかという提案をする。例えば、『三人吉三』では、お坊吉三は立派な侍の息子で、さんざん悪ぶっているけど、実はまだ人を殺したことがなくて、内心すごく怖がっているかもしれないと提案した。それで、お坊吉三から百両を取り戻そうと、伝吉が「昔俺は悪だったんだ」と啖呵を切って迫ってくる場面で、お坊吉三がギクッと後ずさりして壁にガンとぶつかる演出にした。それから、お坊吉三が伝吉を斬り殺した後に、ハアハアと荒い息をつかせた。すごくみっともないし、カッコ悪い。歌舞伎ではそういうみっともないことは二枚目の役者にやらせちゃいけないらしい。どんな芝居でも二枚目はすっとしているのが歌舞伎で、ハアハアするとは何事だって(笑)。でも、僕はハアハアした方がカッコいいと思うし、生まれて初めて人を斬ったかもしれないんだから、ハアハアした方が共感できますよね。
もうひとつは、もし江戸時代に僕みたいな人(演出家)がいたら、こんな仕掛けをして、作家の黙阿弥だろうが南北だろうがお客さんだろうが、大喜びしたに違いないというような仕掛けも提案します。例えば、証拠の証文を燃やす場面で、棒の先に付けた絵に描いた炎を証文に近づけると、証文がひっくりかえって火がついた絵に替わるとか。「どうですか?歌舞伎的でしょ」というと「うん歌舞伎的だねえ」と勘三郎さんは面白がってくれるのですが、江戸時代からやっていてもおかしくない仕掛けなので、お客さんは新しい演出だとなかなか気づかない(笑)。
『東海道四谷怪談〜北番』では、堀の水を水色の衣装を着た20人ぐらいの役者が身体を波打たせたりしてやった。これなんかも歌舞伎座ではやらないんだけど、江戸の人がやりそうなことでしょ。マスゲームみたいな立ち回りをしているのだから、堀の水を人間がやってもおかしくないですよ。
結局、僕が歌舞伎の演出でやろうとしているのは、文献を読んで、歌舞伎オタクになってやることではなく、これまで自分の芝居で実践してきた楽しい部分というのを提案していくということなのだと思います。

──登場人物に人間的なリアリティを与えるなど、歌舞伎に新しい息吹を吹き込んだ串田さんの演出が、初期の頃は、歌舞伎を見慣れた人たち、特に劇評家に不評だったのは意外でした。私は歌舞伎には不案内ですが、新しいことをやっているんだからプラスの面を評価すればいいのに、マイナス面を咎めるような論調に、随分偏狭だと思いましたね。
新しい試みをするのに、不案内であるというのはものすごく大切なことです。僕は、知識は否応無しに入ってくるけど、自分のアイデアを実現するのに必要じゃない知識はもつまい、知らないままでいようと心がけています。そうしないと、知っていることをひけらかすために芝居をしているみたいになってしまう。僕らはものつくる人間だから、知らない方がつくれることもあるし、知っていても隠すことのほうが表現できることもありますから。
それと、歌舞伎を見慣れた人たちは型ということをよく口にしますが、当初からそれほど様式的だったかというと、本当はそうでもなかったんじゃないかと。特に、江戸末期、黙阿弥と一緒にやった四代目市川小団次などの芝居はかなりリアルだったのではないでしょうか。だって新作だと型もないし、自分の心しか表しようがないですからね。悔しいと思ったから手ぬぐいや袖を噛んでグーっと引っ張ったんだけど、それがひ孫の代の役者になると、何で噛んでいたかではなく、ひいおじいちゃんは袖のここを噛んでいたという型が伝わる。だから、僕が役柄の心理について提案するというのは、必ずしも新しいことをやろうとしているのではなく、この間に忘れてしまったものを読み解くという気持ちなんですね。
 
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