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野村萬斎
野村萬斎(Mansai Nomura)
1966年生まれ。狂言師。重要無形文化財総合指定。人間国宝・狂言師野村万作の長男。70年『靭猿』で初舞台。「万作の会」での公演活動のほか、87年より狂言「ござる乃座」を主宰し、年2回でより親しみやすい狂言演目を上演。ホールでの狂言上演や国内外のフェスティバル参加などで狂言の普及に努める傍ら、日本伝統芸能と現代劇との融合を目指して『藪の中』『RASHOMON』『まちがいの狂言』『敦─山月記・名人伝─』『国盗人』などを演出し、多大な評価を得ている。94年文化庁芸術家在外研修制度でイギリスに留学。俳優としてテレビドラマ、映画、ジョナサン・ケント演出『ハムレット』や蜷川幸雄演出『オイディプス王』など舞台などでも活躍。02年より世田谷パブリックシアター芸術監督。05年『敦─山月記・名人伝─』の演出・構成で紀伊国屋演劇賞、朝日舞台芸術賞を受賞。


『国盗人』
作:河合祥一郎
演出:野村萬斎
シェイクスピア『リチャード三世』の物語を題材に翻案。国王の座を得るために奸計をめぐらし殺人を繰り返す悪名高き「悪三郎(=リチャード三世)」を主人公(野村萬斎)に、赤薔薇一族と白薔薇一族の権力争いの時代を描く。狂言の手法から一歩踏み出し、現代劇の俳優ほか狂言師以外のキャスティングを試み、現代劇としての可能性を追求した作品。
国盗人
国盗人
国盗人
撮影:宮内勝
an overview
Artist Interview
2007.7.30
A glimpse of the  
現代に呼吸する狂言師野村萬斎が挑む 新たなトータル・シアターの現在  
狂言の家に生まれ、幼い頃から古典の修業をする一方、海外留学を経験するなど、新世代の狂言師として古典の知恵や発想を現代に生かそうとさまざまな試みに挑む野村萬斎。2002年には公立劇場「世田谷パブリックシアター」の芸術監督に就任し、「伝統演劇と現代演劇の融合」を掲げて5年。「リチャード三世」を翻案した「国盗人」で新たなスタートラインに立った彼のトータル・シアターの世界とは?
(聞き手:奈良部和美 インタビュー:2007年7月8日)



──萬斎さんは古典芸能の世界から公立劇場の芸術監督に就任されたはじめての方ですが、周囲の反応はいかがでしたか?
世田谷パブリックシアターとの関係で言えば、劇場の開場当初より、狂言の公演やワークショップなどを通して、身近な存在としてありましたし、上演している演目にも共感するものが多かったので、それぞれに親しみ感はあったと思います。異なる世界の者への不安もあったとは思いますが、それ以上に大きな期待を感じました。

──芸術監督に就任されて5年目になります。当初の芸術方針として、「地域性、同時代性、普遍性」「伝統演劇と現代演劇の融合」「総合的な舞台芸術“トータル・シアター”を指向する」という3原則を掲げられています(→P4「芸術監督就任あいさつ」参照)。この5年間でこうした方針に何か変更はありましたか。
これは世田谷パブリックシアターの方針であると同時に、私自身の理念でもあるので、今も変わりはありません。古典芸能の家に生まれた人間の宿命として、「伝統演劇と現代演劇の融合」は常に考えていることですし、同時に公共劇場の芸術監督として「公共性」とは何かを考えたときにも通じることだと思っています。つまり公共性とは時代を反映した視点と、時代を超越する普遍的な視点、その両方を念頭に入れて考えていくことであり、まさしく古典芸能のあり方と同じなのではないでしょうか。
私自身の狂言以外の活動も同じ方針でやっていて、シェイクスピアの『間違いの喜劇』を翻案した『まちがいの狂言』は、日本だけでなく、アメリカ、ロンドンなどでも上演しました。イギリスでは狂言風のシェイクスピアに観客・メディアは驚いたようですが、大勝利(triumph !)と賛辞をくれましたし、アメリカの観客は手放しに喜んでくれましたね。
それから、芸術監督に就任してからですが、中島敦の小説を題材にして、その作品世界と作家の生涯を照らして再構成した『敦─山月記・名人伝─』を狂言師だけで上演しました。現在、上演中の『国盗人』は、『リチャード三世』を翻案したもので、狂言師だけでなく、白石加代子さんを始め、新劇の俳優などさまざまな身体性をもった俳優・パフォーマーが出演しています。
実は幕を開けてからもずっと手直しを続けています。自分がリチャード=悪三郎役で出演して演出もしているので、作品を客観視するのに時間が必要だということもありますが、狂言には演出という役割があるわけではなく、観客を前にして演じ、観客とコミュニケーションをとりながらつくっているので、今回もそのように作品を練っていきたいという思いがあるからです。作品づくりは一つの直情的な発想でつくる勢いも大切ですが、客席とやりとりしながら熟成させる時間も必要なのではないかと思います。

──6年前に初演した『まちがいの狂言』と今回の『国盗人』は、いずれもシェイクスピアを題材にしています。萬斎さんの中ではシェイクスピアに近づいていっているのか、それともシェイクスピアを狂言に引き寄せているのか、どちらでしょう。また、6年前と今ではアプローチの仕方に違いがありますか?
気持ちとしては、シェイクスピアに近づいていっている感じです。『まちがいの狂言』のときは、最初はシェイクスピアと狂言がこれだけがっぷり四つに組めるとは思わずに試行錯誤しました。狂言師だけで演じていたので、狂言の表現としてはこうだというやり方でつくっていったわけですが、シェイクスピアの側からするとそれで成り立っているのかどうかわからず、手探りで、シェイクスピアに近づいていった感じでした。
『国盗人』の場合は、そういう意味で言うと、狂言だけではないさまざまなフィルターを通しているので、どちら寄りとは言えないほどのオリジナリティが生まれていると思います。狂言師である私がつくるという意味では、狂言の発想から立ち上げるシェイクスピア作品ということではあるのですが、そこに先ほども申しましたが、白石さんを始め、新劇、小劇場のベテランから若い役者、そしてパフォーマーまで、あらゆる出自の役者が加わり、音楽も歌舞伎囃子を使うなど、これまでの枠組みを超えた見たことのない新しい作品になっていると思います。
しかし、その分、どこに座標軸をおけばいいかわからない状況になっているので、それは私の中にあると信じてやるしかないと(笑)。もちろん、狂言の手法で演出すると言えば、みんな「狂言をやらなきゃいけないんだ」という覚悟を持ってくれたとは思いますが、今回は、そうではなくて、あらゆる方向にベクトルを出してみて、ようやくみんなで共有すべき座標軸が定まったという感じです。

──座標軸を共有するために何に一番力点を置きましたか。
『リチャード三世』は残酷な悲劇だと言われていますが、読んでみるとそんな風には思えない。今回、『国盗人』として翻案してくださったシェイクスピア研究家の河合祥一郎さんによると、中世の劇の流れで出来ているが、最後の独白のみルネサンス期以降の「近代的自我」を意識した台詞になっているそうです。その最後の独白から発想してしまうために冒頭の中世劇的な所も近代的リアリズムのせいで残酷な悲劇になってしまう。そういう解釈やイギリス演劇のリアリズム、更にナチュラリズムが障壁になっているのではないかと思いました。
それで「リチャード三世」は可笑しい、ということを日本のシチュエーション・コメディーである狂言の手法でアプローチしていきました。
ただし、「可笑しさ」ばかりを強調してしまうと、観客の心に残るのはただ何となく「ああ、面白かった」という印象だけになってしまいます。ですから現代の人間が上演するからには、登場人物の内面(心理描写)にも深く迫ることも必要になりますが、こちらの自我でまとめ過ぎてしまうと、逆に「ああ暗い、重い、残酷」で終わってしまい、作品に入り込む余地もなくなって、ちっとも面白くない。ですからまず観客とのやりとりができる場をつくって、それで満たせない近代的な自我というものを持ち込んでいくと、程良いものになるのではないかと思っています。
 
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