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Artist Interview
A glimpse of the
現代に呼吸する狂言師野村萬斎が挑む 新たなトータル・シアターの現在
『法螺侍』
作:高橋康也
演出:野村万作
1991年初演
シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』に題材に、狂言一門の「万作の会」が手掛けたシェイクスピア翻案の創作狂言第1弾。ロンドン、香港、アデレードなど海外でも上演され、好評を得た。

『まちがいの狂言』
作:高橋康也
演出:野村萬斎
2001年初演
シェイクスピア原作の『まちがいの喜劇』を狂言に翻案した作品。シェイクスピアの台詞を狂言独特の言い回しや身体表現に置き換え、男ばかりの狂言師(「万作の会」一門)が演じる。狂言の面(おもて)を駆使して二組の双子の取り違え騒動を面白おかしく描く。01年にはロンドンのグローブ座でも上演され、その後も再演、海外公演を重ねている人気レパートリー。
まちがいの狂言
まちがいの狂言
撮影:石川純

『敦─山月記・名人伝─』
原作:中島敦
演出:野村萬斎
2005年初演
中島敦(1909〜42年)の『山月記』と『名人伝』の2つの小説を構成し、野村萬斎が世田谷パブリックシアター芸術監督就任後初めて演出を手掛けた作品。中島敦の33年という短い人生をたどりながら、能や狂言で用いられる謡・囃子などの豊かな音楽を通して、漢文調の格調高い文体で描かれる中島の小説世界を現代の舞台作品としてよみがえらせた。邦楽界の若手ホープである大鼓の亀井広忠と尺八の藤原道山の生演奏による競演も話題となった。
敦
敦
敦
撮影:宮内勝
──この作品のキーパーソンの一人として、白石加代子さんが悪三郎(リチャード三世)に関わる女性の四役をすべて一人で演じています。このアイデアはどこからきたのでしょう。
『まちがいの狂言』の作者の故高橋康也先生が、将来『リチャード三世』をやるにあたっては「女」を工夫したいという言葉を遺されていて、それを河合さんとどうしたらよいか話し合いました。もともと私は、シェイクスピアに登場する女性の人物描写は男性に比べて弱々しく、一見、印象も薄いような気がしていました。例えば、夫を殺したリチャードの妻になるアンにしても無垢な役ということになっていますが、それは裏を返すとそうせずには生きられない社会背景と女性の弱さ、愚かさが現われているということですよね。だからこそ悪三郎の犠牲者として翻弄されるかわいそうな女たちということになるのかもしれませんが。
それで、シェイクスピア自身も示唆しているような、四人の女を合わせて一つの女性像とするという考えを逆転させて、一人の女性が四役をやる、女性という総体でもって悪三郎と対峙させるという構造にしました。その4役をこなせる女優は白石さんしかいないと思います。でも、リチャード役としては、非常にくたびれますよ。対戦する女性キャラクターが全て白石さんですから、少しも気を緩ませることができないんですから、口説くのにも相当に力がいる(笑)。

──悪三郎(リチャード三世)と杏(アン)が最初に出会うシーンはとても面白かったですね。
あそこであんなに観客が大笑いしたのは期待以上でした。私はあのシーンは、リチャードによって夫(エドワード)と義父(ヘンリー六世)を殺されたアンに、同情するところではないと思っていました。原作では、義父の棺が運ばれてきて、それに付き添ってきたアンが嘆き悲しみ、リチャードをなじるという設定になっています。それは恐らく、アンが地位を喪失したことに対する嘆きを表しているのだろうと思いますが、現代ではそれはちょっとわかりづらい。なので、夫の棺に変えて、夫の死に対して悲嘆にくれるという設定にしました。
杏は十代で嫁いで、まだ世の中も知らないし、自分はまだまだイケていると思っているのにもう未亡人になってしまったわけです。その時に、死んで口もきけなくなった夫と、目の前で自分を口説く悪三郎と、どちらかを選べと言われたら?というシチュエーションをつくりだしたかった。それであのような演出になったのですが、その意図が観客に伝わったのだと思います。

──舞台美術は能舞台の空間に似た形になっていましたが、それは萬斎さんの拘りですか。
いいえ、舞台美術家のアイデアです。『法螺侍』『まちがいの狂言』と能舞台の構造を使ったので、できれば変えたかった(笑)。でもこの芝居は、場面ごとにつくると書割のセットみたいなものがたくさん必要になるので、私からは抽象的でシンプルな空間にして欲しいということをお願いしました。
シェイクスピアの作品はそもそもグローブ座(円形の広場に張り出した裸の四角い舞台)で上演していたわけで、そういう流れからすれば抽象的な場所でやるべきものだと思います。シェイクスピアと能狂言が合うのは、グローブ座と能舞台がもともと非常に近い空間構造をしているということもあるのではないでしょか。『まちがいの狂言』をロンドン・グローブ座で上演したときにも、劇場のイギリス人スタッフよりも、能舞台の使い方を知り尽くしている私たちの方が構造を理解していて、ああいう裸舞台で演じるときには自分たちの方法が有利なのではないかと思いました。

──今回の舞台を見ていると、古典の手法を取り入れた部分がかなりあります。古典と言っても、萬斎さんのフィールドである狂言だけでなく、例えば、初めに軍旗が登場するシーンは京劇のようにも見えましたし、出入りの仕方はイタリアの古典仮面喜劇のコメディア・デラルテにちょっと似ている気がしました。御簾の向こうで首を落とすシーンがありましたが、あからさまに出てくるのではなく、どこか人形振りのようで文楽に近いのかなとも思いました。
そういうふうに見ていただけたのはとても嬉しいです。音楽にも歌舞伎のお囃子や雅楽の要素を取り入れたところがありますし、影法師の役は歌舞伎の黒子にコメディア・デラルテのマスクを着けました。今回はそれほどでもありませんが、私は演出に影絵を使うことも多くて、それはワヤン・クリのように見えるかもしれません。

──つまり、萬斎さんが「伝統演劇と現代演劇の融合」という場合、伝統演劇というのは能狂言だけを指しているわけではないということですか。
91年の『法螺侍』(『ウィンザーの陽気な女房たち』」が題材)と2001年の『まちがいの狂言』は、まさに「狂言とシェイクスピアの融合」に立脚し、狂言がいかにシェイクスピアに近づけるかということを試行錯誤していました。
しかし、『国盗人』は、立ち位置がまったく違います。狂言だけでなく、日本の古典だけでもなく、様々な舞台芸術のエッセンスを盛り込んでいます。『リチャード三世』のような複雑な題材になると、それを狂言の世界だけでやるよりももっと効果的な方法を考えねばなりません。扇ひとつまで意識しながら、使えるものは何でも使って、日本の古典でも例えば横笛を尺八のように使ったり、雅楽風に奏でてみたり、今、私たちが持ち得る限りの広がりの中で表現しなければならない。それこそモダン・ジャパンという感じでしょうか。

──音楽については、初めはなぜ能の四拍子を使わないのかなと疑問に思いました。
高橋康也先生もおっしゃっていたことですが、シェイクスピアという大樹を剪定して、狂言という小さな器に盆栽のようにきれいに盛れば、狂言的美として成り立つと思います。『まちがいの狂言』ではどちらかというと、それが上手くはまりました。
しかし、今回の『リチャード三世』は原文を読んでもわからなくなってしまうような複雑な作品ですし、例えば薔薇戦争を知らない人には、それをどう剪定してもそもそも器に収まらない。もし台本を刈り込んで、四拍子に当てはめて、無理矢理小さく収めて象徴的にやってしまったら、きっとこの煩雑な、ある種猥雑な味のある作品の面白さがなくなってしまう。
つまり、「新作能リチャード三世」というやり方だと、リチャード三世の亡霊が出てきて、俺は誰を殺した、やつは誰を殺した、と語って地獄の業火に焼かれておしまい、となってしまうわけです。それでは『リチャード三世』を料理したとはとても言えません。それで、あえて能狂言という枠を外して、多く人が共通認識をもてる歌舞伎的なもの、コメディア・デラルテ的なもの、京劇的なものなどたくさんの調味料を使って、今までにない味付けに仕上げたのです。それぐらいシェイクスピアは大きく、饒舌であり、いろいろな味を持っていると思います。

──今までの経験や蓄積を総動員したという感じですね(笑)。
そうですね。はじめの頃は、良い意味で、おもちゃ箱をひっくり返したみたいだという感想をいただきましたが(笑)、公演を重ねるうちにひっくり返した感は薄くなりまとまってきています。
 
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