The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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Artist Interview
A glimpse of the
現代に呼吸する狂言師野村萬斎が挑む 新たなトータル・シアターの現在
鏡冠者
狂言劇場 その弐「鏡冠者」
撮影:上牧佑
茸
狂言劇場 その参「茸(くさびら)」
© 世田谷パブリックシアター
月見座頭
狂言劇場 その参「月見座頭」
© 世田谷パブリックシアター
悪太郎
狂言劇場 その参「悪太郎」
© 世田谷パブリックシアター
──古典の世界では「一期一会」という、演じることの一回性がとても大きな意味を持ちます。こうした新作は古典の一期一会とは異なり、毎日決まった時間に同じキャラクターを演じることになるわけですが、ご自身の中ではどのように整理していらっしゃいますか。
古典には洗練された一つの型というものがあり、その型に技を用いて自分を集中させていくことによって、そのキャラクターができ上がってきます。しかし、新作の場合は、これから洗練していくわけですから、ある程度時間を要するものだと思います。新作を演じていると、型がないのである意味で何でもありになり、Aの演じ方、Bの演じ方、Cの演じ方と、どこに中心をおいて演じればいいのか、どこに着地すればいいのか、違和感をもつことがあります。今はまさに試行錯誤をしながら演じているという感じです。

──同時に、新作も洗練(成熟)ということを目指していくことになります。
そうですね。ですから徐々に私が目指す方向に向けて本当の囲いをつくっていかなければいけないわけです。でも最初から私の思い込みだけで囲いをつくって、そこに役者をはめ込もうとすると役者は息苦しくなる。広がりを感じない芝居はそこに陥りがちです。だけれど、囲いが緩すぎると、相手の囲いとの接点が見つけられないのでそれでは役者として楽しめない。今は、門戸は開いておかないといけないと思うのですが、徐々にその囲いを固めるために、どこが緩いかチェックしながら臨んでいます。

──伝統芸能と現代演劇の融合を通じて新たな日本の舞台芸術を創造したいと言われています。いまの段階で萬斎さんの中で見えている新たな日本の舞台芸術とはどのようなものですか。
これまでもトータルな意味でのジャパニーズ・シアターを標榜しておりました。今回の『国盗人』で、まだ駆け出しではありますが、ひとつの形が提示できたのではないかと思っています。
日本の古典芸能のもつ知識や方法論だけに拘らず、面にしても日本の能面や狂言面だけがマスクではないので、コメディア・デラルテなどにも学びながら新しいマスクを創造するような、醤油とマヨネーズを混ぜて新しい味を出すようなアプローチをしていきたいと思っています。

──日本の古典に学んだトータル・シアターと言うと、例えば、フランスの太陽劇団やピーター・ブルックなどの先人たちが海外にいます。
友人が、地元には太陽劇団のことを「フェイク・ジャポン」だと批判する人がいると話していましたが(笑)、それは批判するようなことではないと思っています。事実、僕自身も太陽劇団やピーター・ブルックに相当影響を受けています。今ならサイモン・マクバーニーやロベール・ルパージュのような人たちに『国盗人』を見てもらいたいし、実際に、今名前を挙げた人たちの前でやれる作品をつくりたいと思っていますが、とにかくフェイクであろうが何であろうが、生かせるアイディアをどん欲に取り入れた者が勝ちだと思っています。逆に言うと、あれだけのアーティストに影響を与える宝の山が日本の舞台芸術にはあるわけです。それを海外のアーティストに使っていただくことはとてもすばらしいことですが、それならなぜ日本人がそれを生かして世界に出ていかないのでしょうか。
歌舞伎の中村勘三郎さんのように仮設劇場まで持ち出して海外で歌舞伎公演をするというアプローチもありますし、私も古典の海外公演をやっていますが、それだけではなくて、シェイクスピアという共有できる土俵の上で能狂言のもっている力を試してみたいと思っています。

──新作は必ず海外が視野に入っているということですね。
そうです。『敦』という作品は、漢字という文字・字体をたくさん使って遊んでいますので、漢字圏の国に持って行ければと思っていますし、アルファベットでは絶対にあり得ない漢字文化から生まれたこの作品を、西欧の方々にもぜひ見てもらいたいと思います。

──ブルックや太陽劇団などがやっているトータル・シアターと狂言師である萬斎さんが目指すトータル・シアターは同じなのでしょうか。それともどこか違っているのでしょうか。
精神性で言うと、日本人の私たちは、大きな器よりも小さい器の世界を表現するのに向いているように思います。小さいけれど、深いというような。ですから、演劇の百貨店のようなシェイクスピアという大きな器よりも、前作の『敦』や、現代演劇での私の初演出作品である芥川龍之介の『薮の中』のような小さな緊密な世界を扱う方が合っている。しかし、そうした作品では精神的な比重が大きくなりすぎて、エンターテイメントにはなりにくい。ですから、私が目指すトータル・シアターでは、大きな器と小さな器の両方の世界を表現していきたいと思っています。
それと、付け加えるなら、私の発想の基点には、この現代に狂言師の家に生まれたという自分のアイデンティティの問題があります。なぜこの時代に狂言をやらなければならないんだ、というところから出発して、なぜ自分が生きているのかを問い続けているわけです。例えば、『まちがいの狂言』には双子が出てきますが、「自分が二人いたらどうなっちゃうの?」というのが発想の原点です。そういう意味では、今回の『国盗人』は、初めてその問いかけから少し離れた作品かもしれません。
先ほどの話とまったく逆転してしまいますが、「近代的自我」とはかけ離れた狂言を方法論として使うことが、最終的に自分の自我を考える機会になっているのです。例えば私たちがわざわざ劇場に行って芝居を観る意味はどこにあるのでしょうか。それはつまり、パブリックに提示されているものを共有して最終的には自分自身に持ち返る──そういうパブリックから入って、プライベート、そしてアイデンティティへと思考を循環させる場が劇場なのではないかと思います。だからこそ、最初から独り善がりになるのではなく、みんなが共有できる入り口をつくることが必要になります。
私はイデオロギー世代ではないので、思想的なテーマを掲げて社会にもの申すというような作品をつくることはないと思いますが、自分に向き合って自己をどう捉えるかを考え、個人の心の中に何かをズドンと突きつけるような作品ができればと考えています。
 
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