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Artist Interview
Exposing his own body as a platform for art -- A look at the mixed-media performance art of Takao Kawaguchi
自らの肉体をさらけ出し、ミクストメディア・アートに挑む川口隆夫の歩み
夜色
夜色
夜色
夜色
夜色
川口隆夫『夜色(ヨルイロ)』
撮影:小原大貴









































*『ヴォヤージュ』(2002年/フランス初演)
2001年の米国同時多発テロ事件の影響下でつくられた作品。通常の制作過程とは異なり、小さなユニットに分かれて行った作業から「旅」というモチーフが生まれた。床をメタルでつくり、そこに映像を反射させることで次々に空間が変化。ダンサーが無重力空間に浮いているように見えるなど、これまでにない体感型の作品。
──川口さんの今の活動を理解するには、スペイン留学時代のことを抜きにしては語れないですね。その1年間の経験が血となり肉となっている感じですね。
しかし、その時点では、僕のパフォーマー人生はまだ始まっていないのですが(笑)。帰国してすぐに、舞踏家の徳田ガンさんに大晦日の年越しパフォーマンスを「何かやってみない?」と誘われたんです。それで黒沢さんのところで踊っていた吉福敦子さんともう一人の女性ダンサーと3人でパフォーマンスをしました。そのときも、言葉はあるけど演劇でもなく、ダンスでもなく、パフォーマンスというのかもわからない作品でしたが、それはそれで面白かったので、彼女たちとATADANCEというカンパニーを結成しました。当時、日曜になると表参道は歩行者天国になっていていろんなライブが行なわれていたので、僕たちも定期的にストリートダンス・パフォーマンスをやりました。スペインで観たピナ・バウシュの『1980』という作品にラインになって行進しながら華麗に踊る振付があったので、それを真似て表参道を行進したり。僕の中ではすごくファッショナブルに踊っていたつもりでしたが、通行人にはどういうふうに見えていたのでしょうね(笑)。

──表参道でのストリートパフォーマンスは3年もやったそうですね。
はい。それでいよいよ劇場空間でやろうということになり、91年に横浜のSTスポットで『mata-R』をやりました。この年が僕にとってすごく重要なターニングポイントになるのですが、ちょうど『mata-R』の稽古をやっていたときにウィリアム・フォーサイスが来日し、彼の『Impressing the Czar』の公演を観に行きました。それでドイツ文化センターで行われたワークショップの見学にも行ったのですが、フォーサイスの言葉と彼のカンパニーのダンサーの身体の動きにすっかり魅了されてしまった。「点と点があって線ができる、線と線がつながって面ができる」といった言葉を彼が放つたびに、ダンサーが次から次に魔法のように動きにしていくのを目の当たりにして、思わず「フォーサイスさん、僕も同じような作品をつくりたい!」と彼に話しかけていました。「どんどん盗みなさい、いくらでも真似しなさい」と彼も言ってくれて。そうして僕の意識が変わって生まれたのが『mata-R』であり、僕が振付・演出・出演した初めての作品になりました。
その勢いで、バニョレ国際振付コンクールの第1回東京プラットフォームに参加しましたが、審査員には、「アンビシャスな作品ですね」と言われました(笑)

──バニョレに応募した時には、この分野でこれから表現者としてやっていこうと思っていたのですか。
僕はあまり、こういうふうにしようといった決意を固めるタイプではなくて、面白そうだな、という感じでずっと続けてきました。ATADANCEもそういう感じで続けていたのですが、とうとう壁に突き当たってしまった。ダンスカンパニーとして助成金ももらえるようになったのですが、逆に“ダンス作品”をつくらなければならない、そういう枠組みに自分を嵌めなければいけないと思い始めたら、行き詰まってしまいました。「ダンス作品をつくる」ということが、自分の身体に引き寄せる行為ではなく、自分と離れたところにあるものを追いかけているだけなのかもしれないと思えてきて、それで95年にATADANCEを解散しました。

──そしてダムタイプと出合うわけですね。
そうです。もちろん、ダムタイプが初めて東京で公演をした『Pleasure Life』も、89年の『pH』も観ていました。エイズで亡くなった古橋悌二のことも、黒沢美香&ダンサーズにいてその後ダムタイプに加わった砂山典子らも以前から知っていました。しかし、一緒に活動はしていなかった。95年10月に京都で古橋の最期を看取った後、僕はその年の年末にロベール・ルパージュ演出のマイケル・ナイマン・オペラ『テンペスト』にパフォーマーとして出演しました。そのころダムタイプはデンマークのパフォーマンス集団「ホテル・プロフォルマHOTEL PRO FORMA」とのコラボレーションで『モンキー・ビジネス・クラスMONKEY BUSINESS--SARU HODO NI』という大掛かりなパフォーマンス作品の計画を進めていたのですが、ちょうどデンマークのディレクターが『テンペスト』の神戸公演を観に来てくれて、僕を出演者の一人として誘ってくれたんです。
その作品で初めてダムタイプに関わるようになり、その後96年の年末に始まった『OR』の制作には自分から出たいと手を上げて、97年の3月の公演までフランスのモーブージュでレジデンスしながら創作をしました。その当時のダムタイプは、古橋が死んでから解散を噂されつつも、古橋亡き後何ができるのかという自分たちの活動の意味が改めて問われている状況でした。ただ、それぞれの思いを持ちながらもアーティスト集団「ダムタイプ」として活動していくという確信はありました。

──ダムタイプは1984年に結成され、80年代末から90年代前半の段階で、日本のアーティスト集団のなかでもすでに特異な存在になっていました。海外でも頻繁に作品を発表し、高い評価を得ていました。彼らの作品はテクノロジーと身体というミクストメディアのあり方を、批判とアイロニーの精神をもって追求したばかりでなく、代表作『S/N』では、エイズやセクシュアリティ、国籍といった政治的な問題にまで踏み込みました。ダムタイプは、もともと日本の劇団によくあるようなヒエラルキーをつくらずに、映像、音楽、美術、ダンスなどのアーティストたちがそれぞれのアイデアと技術を持ち寄りながら作品を共同制作してきた新しい集団です。とはいえ、中心的な存在であった古橋さんの果たしてきた役割が大きかったのは言うまでもありません。彼が亡くなった後、ダムタイプは、音楽に池田亮司が初めて参加して、生か(or)死かをテーマにした大作の『OR』を発表し、その後、『メモランダム』『ヴォヤージュ』と続きます。
僕としては、99年の『メモランダム』が創作過程として一番面白い作品だと思っています。舞台に出ている時間も長いし、創作した達成感という意味でも思い入れがあります。

──『メモランダム』は、記憶をコンセプトにした作品で、男が記憶の断片をメモし、そのメモを映像で見せていくというパフォーマンスがあり、記憶の堆積と喪失のイメージが多様なパフォーマンスとして波打つように押し寄せてきます。身体の外側に見えるものと内側にあるものがリンクしながら展開してゆく感じがしましたが、そのぶん作品のスケール感が後退している感じがしました。それに対して、次作の『ヴォヤージュ』は、スケール感を前面に出した作品でした。特に航空撮影した遠く広大な自然の映像に対してダンサーの身体が対置されていたという印象が強く残っています。私が観た日本での初演の時にはまだ全体がまとまってなかったと思いますが、部分的には音と映像と身体が非常に高いレベルで融合していて、これはダムタイプの一つの到達点だと思いました。巨大な空間の中でダンサーの体を小さく捉え、空中にあるような浮遊感を出すなど、テクノロジー、自然、身体がアーティスティックに舞台で共存する美しい瞬間は、稀有なものだったと思います。
『ヴォヤージュ』(*)はフランスのドゥルーズで滞在創製作をしました。遠くにあるイメージというのはその通りで、すごくスタティックな作品です。海外の評論家には「パフォーミングアーツとして身体を終わらせようとしている作品だが、ただ終わらせるなら、身体でもって身体を終わらせてほしい」と言われていて、ある意味、それを目指して上演のたびに改良しながら作品を完成させてきています。
 
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