The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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Artist Interview
The unending quest of Minoru Betsuyaku, the playwright who has laid the foundation of Japanese drama of the absurd
日本の不条理劇の礎を築く 劇作家・別役実の果てしなき冒険
『やってきたゴドー』
初演2007年
サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」の設定を借りた後日譚。ウラジーミルとエストラゴンの待っていたゴドーが、ある日とうとうやってくる。しかしふたりには、ゴドーのやってきたのを「認識すること」はできるのだが、内実のある出来事として「体験すること」ができない。
やってきたゴドー
やってきたゴドー
やってきたゴドー
木山事務所公演『やってきたゴドー』
(2007年3月24日〜31日/俳優座劇場)
作:別役実
演出:末木利文
撮影:鶴田照夫


『犬が西むきゃ尾は東〜「にしむくさむらい」後日譚』
初演2007年
とめどもなく続く電信柱。そこに五人の老いた男女が、つかず離れず流れてゆく。何故かはわからないまま、どうしてもそちらへ行かなければならないのである。それぞれ、病気か故障を持っており、道中はままならない。しかもその五人は、或る過去を共有しているようなのであるが、思い出は錯綜し、それに従って関係も混乱する……。『にしむくさむらい』の続編ともいえる作品。
犬が西むきゃ尾は東
犬が西むきゃ尾は東
犬が西むきゃ尾は東
文学座アトリエの会「別役実のいる宇宙─新旧書下ろし連続上演」
『犬が西むきゃ尾は東〜「にしむくさむらい」後日譚』
(2007年6月15日〜7月5日/文学座アトリエ)
演出:藤原新平
撮影:飯田研紀
──先ほど言われていたように「個」が「孤」になり、日本の根幹たる実体も空洞化しているとすると、それこそ待ちこがれたゴドーがやってきても体験として受け止めることのできない滑稽な状況になる。別役さんは今年、「不条理ドタバタ喜劇」という副題を付けた最新作『やってきたゴドー』で、そうした現代の状況をテーマにされました。もしかしたら別役さんは、そもそもベケットの『ゴドーを待ちながら』も、笑って読むべき作品だと思われているのではないですか。
そう思っていますね。いまだに演劇界全体に、「悲劇」が演劇の正道であるという考え方がはびこっているけど、僕は「喜劇」こそ現代を写し取るために最も有効な手法であると考えている。むしろ正道は喜劇のほうにあるのであって、悲劇というのは極端ないい方をすれば、「神と人間との対話」みたいな古い器の中で人間を計るスタイルだと思います。今では我々の日常感覚は喜劇のほうがはっきりと主流になってきているわけで、喜劇的行動パターンというものがきわめて有効な時代に入ってきていると感じます。もし『ゴドーを待ちながら』を重要な作品だと考えるなら喜劇として読み込まれるべきであるし、どうすれば『ゴドー』が喜劇として成立するかを突き詰めて書いたのが『やってきたゴドー』でした。
喜劇は、世の中全般からくだらないものだとおとしめられる傾向があるでしょ。唯一許されるのは、社会風刺が入っている場合。だけど僕のいう喜劇は、そうではなくて、社会風刺も何もない「ナンセンス喜劇」。ナンセンス喜劇こそ喜劇のなかのもっとも純粋なものであり、もっといえば、「不条理劇の究極の形はナンセンス喜劇だ」と感じる。イヨネスコの『授業』とか『椅子』なんかもナンセンス喜劇の極北だと思います。

──別役さんの作品では、笑いがただその場かぎりで消費されてしまわずに、作品全体からある感動のようなものがちゃんとこちらに伝わってきます。それは戯曲を書くときに、別役さんの頭の中に、劇空間と対比する何か超越的なものが想定されていて、そことの緊張関係によって演劇が普遍化されるからだという気がするのですが……。
ありますね、超越的なものへの感触。西欧でいう「神」とは違うもので、仏教用語の「空」に通じるもの、虚空とか、虚無という言葉であらわせる何者かなんですけど。カフカがこう言っています、「神の前で常に人間は間違っている。神が間違っている場合でも、間違っているのは人間のほうである」と。間違っているのが人間のほうだけならこれは悲劇ですが、それに対して、神が間違っている場合でも、にもかかわらず間違っているのは人間の方だと言ったとき、それは喜劇になる──これが不条理喜劇の究極の姿だろうと思います。崇めるためにではなく、人間が間違っていることを確かめるために、超越的な存在に関心を持たなければいけないということはあると思います

──ところで、2003年に兵庫県にあるピッコロシアター(兵庫県立尼崎青少年創造劇場)の代表に就任されましたが、いかがですか。
僕は、おそらくもう60年代にやっていたような、状況全体に対して「これが現代である」と、大向こうを唸らせる大きなドラマは成立しないんじゃないかと思っています。ただひとつ救いがあるとすると「地域」で、地域特有のドラマというのは成立するという感じがします。その意味で、僕は地域にある地元の劇団が、「方言」で芝居をやり始めているのはかなり重要なことだと思っています。
方言に対して、NHK共通語といいますか、標準語といいますか、そういう言葉には「演劇的な力」というものがもうほとんどなくなっている。「言葉としての力」がなくなり、単なる意味として、記号としての作用しかなくなっていると感じます。しかし、方言には、まだ「肉感的な要素」があります。意味としてだけでなく、匂いとか響きとか、そういうものを伴った実体のある言葉として、ドラマを巻き起こすだけの力をまだもっている。かつて方言は普遍性がないものとして排除されていたけど、普遍性がないことがかえって地域のコミュニケーションの内密性みたいなものを養い、補償する手だてとなっている。地域に依拠して、地域の言葉で、ある演劇性みたいなものをつくり出す地域での活動には可能性があると感じています。

──言語という意味で見ると、たとえば平田オリザさんが「現代口語演劇」と名づけた過剰に日常的なセリフで舞台をつくり、片方では三浦大輔さんが言葉になる前のナマな若者の姿をそのまま舞台上に晒すような芝居をやり、また岡田利規さんみたいに若者のスラングをそのまま使ったような若い演劇人たちの取り組みもあります。
それは、なかなか正しいあがきであるという気はします。僕は若い人たちの芝居をあまり見ませんが、それぞれがそれぞれの形で活性化された仕事をしているという感じがあるので、演劇の未来をあまり悲観してはいません。地域から新しいものが出てくるだろうし、東京でも標準語じゃないところから新しい芝居が出てくるだろうという予感があります。

──非常に素朴な質問で恐縮ですが、映画でもテレビでも音楽でもなく、演劇というメディアだけが観客に手渡すことができる体験みたいなものがあると思うのですが。
ありますねぇ。やっぱり等身大の人間から等身大の人間に対して、具体的にドラマとして投げかけることができるのは、演劇という装置を通じてだけだろうと。劇場という閉鎖的な場所をくぎって、そこに集まった少数の観客にだけしか通用しないという、演劇の古さというか、不便さというか、それが結果的に幸いしたという感じがします。グローバリズムになって、日本語で喋ったらすぐ英語に転換されて、ボーダレスでどこにでも通用するものは拡散して、極端にいえば文化そのものが消費されると思います。文化が蓄積され、再生産させるための素材になるような、創造の手がかりとなるためには、むしろ演劇のような閉鎖された環境が重要だという気がする。
僕は「肉声」と言っているんだけど、世の中から「肉声」がなくなってきていると思います。「肉声」には、記号化されるとこぼれ落ちてしまう部分がそのまま残っている。西洋医学の薬と漢方薬の違いみたいなもので、必要な部分だけを抽出したものではなく、必要以外の部分も生で抽出されないまま使われる。その必要以外の部分がどう作用するのかははっきりとは分からないけど、副作用がなかったり人間に優しいといわれたり、何か重要かもしれないよというものを伝統的に持っている。演劇も、何か得体の知れないものを伝統的に持っていて、まだ抽出、抽象化されていない、その部分が重要なのだと思いますね。
 
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