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Artist Interview
Playwright Hisashi Inoue puts a prayer for peace in his play Chichi to Kuraseba (The Face of Jizo), now translated into seven languages
世界8カ国語に翻訳された『父と暮せば』に込める国民作家・井上ひさしの平和への祈り
父と暮せば
父と暮せば
こまつ座第73回公演『父と暮せば』
(2004年7月27日〜8月1日/紀伊國屋サザンシアター)
演出:鵜山仁
撮影:谷古宇正彦
→今月の戯曲
夢の裂け目
夢の裂け目
『夢の裂け目』
(2001年5月8日〜31日/新国立劇場小劇場The Pit)
演出:栗山民也
撮影:谷古宇正彦
→今月の戯曲
夢の泪
夢の泪
『夢の泪』
(2003年10月9日〜11月3日/新国立劇場小劇場The Pit)
演出:栗山民也
撮影:谷古宇正彦
→今月の戯曲
夢の痂
夢の痂
『夢の痂』
(2006年6月28日〜7月23日/新国立劇場小劇場The Pit)
演出:栗山民也
撮影:谷古宇正彦
→今月の戯曲
──そうした世界に対して、演劇で何ができるのでしょう。
 私は、演劇にはとてつもない大きな力があると思っています。小説も書くので分かるんですが、小説はとてもまどろっこしいんです。舞台だったら、男と女がいて微笑み合う、これだけで伝わることを、小説は細かく細かく描写しなければならない。それに対して演劇には俳優の身体があって、仕草や表情や声などで一瞬のうちに伝わる。それに人間の身体を使う演劇にはかるがると国境を越える力があります。
 私はよく『リア王』のたとえ話をするのですが。たとえばその客席におばあさん、そしてその隣に青年実業家、その後ろに学者が座っていたとします。おばあさんは、娘にチケットを押し付けられてやって来た。娘は夫と『リア王』を見るつもりだったけれど、突然サッカーのチケットが取れたとかで二人でそっちに行くことにしてしまった。昔からこの娘はわがままだったんです。母親であるおばあさんに、「一枚は払い戻せばお金にもなるし、そのお金で帰りにうなぎでもたべてらっしゃい」なんて言って、2枚のチケットを押し付けた。おばあさんは芝居になんてまったく興味もないし、娘にもうんざりしているんだけど、特にすることもないから来てみた。でも愚痴を言いたい気分だからまったく楽しくない。
 青年実業家は実は借金取りに追われている。もう逃げ場がなくて、偶然通りかかった劇場に逃げ込むことにした。「ちょうど今払い戻しがあった」というチケットを買って、ふらふらと椅子に座った。彼は夢も希望もなくて、疲れ果てているわけです。その後ろの学者は演劇評論家です。親が金持ちで苦労らしい苦労はしたことがない。海外留学も当然のようにさせてもらっていて、今の唯一の悩みは大学教授になれないこと。若い頃、教授の娘との縁談もあったのに研究室の美人とつい結婚してしまった。そのことをくよくよと悔やんでいます。彼はこの芝居については隅から隅まで知っているつもりだし、大した期待もなく席に着いた。
 しかし、幕が上がってみたらこの『リア王』が素晴らしい出来映えだったわけです。おばあさんは途中から『リア王』は自分だ、と思いはじめます。自分なりに娘を大切にしていたのに、まったくその心は無視され今や邪魔者扱い。彼の虚しさが手に取るように分かる。おばあさんは席に座ってはいるけれど、心はもうそこにはなくてステージにある。「あそこにいるじいさんの悲しみは、あたしの悲しみだ」と心の中で叫んでいる。
 そうすると、なぜかおばあさんの心が同じ客席にいる人たちに伝わり始めるんです。『リア王』は自分だ、と思う気持ちが。おばあさんのその気持ちに感心した学者はふと自分の年老いた親を思い出します。今まで何度も『リア王』を見ていたけれどなかったことです。彼は今までの両親の苦労について思いを馳せるんです。当然のようにいい学校に行き、留学もした。好きな研究を続けている。これは全部自分の手柄だと思っていたけれど、果たしてそうだろうか。劇場から出たら両親にちょっと電話してみようとまでチラッと思ったりします。すると前にいた青年実業家にも変化が起こる。もう疲労困憊で思考する能力もないはずなのに、自分がここにいるのは親がいてくれたからだ、なんて考える。やさしい親もいたし、いろいろな形で彼を支えてくれた人がたくさんいた。孤立無援だというのは、単なる思いこみだったのかもしれない。彼もまた身を乗り出して俳優の演技に見入り、もう何一つ見逃すまいとしている。
 今や舞台と客席はひとつになり、劇場は特別な空気に支配されています。劇場に集まった人全員の過去が、知恵が、集結して演技しているようなものです。いい舞台はひととき我を忘れさせ、そのことで人を素直にさせる、生まれ変わりの儀式なのかもしれません。
 そして幕が降りる。お客さんは、もう二度とこの並びで芝居を見ることはない。同じステージももちろん二度とできない。宇宙で一度のイベントが終わったわけです。するとなんだか名残惜しいものなんですね。芝居がいい出来のときは決まってお客さんが席をたつのがとてもゆっくりになります。おばあさんの顔はやわらかくなる。青年実業家はもう逃げないぞと思う。学者はロビーでいそいそと両親に電話をする。そんな奇跡ともいえることを、演劇は起こせるんです。仮にこの人たちに説教しても、何も変わらなかったでしょう。「おばあちゃん、どんな性格でも娘は娘なんだから」とか、「希望を持って働けばいい日も来るよ」とか、どんなお説教も現実では役に立ちませんが、でも一つのいい芝居で人間の精神の根幹を変えられるんです。
 それだけ影響力のあることをやっているのだから、演劇人には本当にいいものをつくる責任があると思っています。人はとにかくずっと時間に支配されているわけです。死ぬ瞬間までそうでしょう。でも劇場で我を忘れるひとときだけ、その時間の支配から逃れられる。支配から逃れてこそ、堂々と時間(人生や世界)と向き合えるんです。劇場はそんな、特別な場所だと思っています。

──井上さんは以前、劇場はユートピアだとおっしゃっていましたが、井上さんの芝居が、笑い・歌・言葉遊び・劇中劇・どんでん返しなど、さまざまな趣向に富んでいるのもそういう芝居や劇場についての特別な思いがあるからですか。
 舞台の時間が日常と同じなら劇場に来る意味はありません。たとえば評伝劇だと、宮澤賢治なら37年の生涯、樋口一葉なら24年の生涯を数時間にしてしまう。つまり劇作家の仕事は、どのように時間を捕まえるかという時間論として展開しなければなりません。どんでん返しは時間の転換だし、笑いは時間の隙間を埋めていく作業です。面白く時間を短縮したり、太田省吾さんの無言劇のように引き延ばしたりしながら、我を忘れられる時間をつくりだしたいと思っています。
 そのためには、細心の注意を払います。言葉を選ぶときも、私は主に大和言葉を使っています。日本語では、「洗う」「洗濯する」「クリーニングする」と同じことを表現するのにも大和言葉か漢語かカタカナ英語か、どれかを選ばないといけない。たとえばこの場合、漢語の「洗濯する」を選ぶと、観客は一瞬考えてしまい、この一瞬で現実に引き戻されてしまいます。「決まり」「規則」「ルール」、この場合も「規則」は「決まり」より分かりにくい。どの言葉を使えば一瞬で分からせることができるかは、劇作家の腕の見せ所です。
 ちなみにカタカナ英語をたくさん使うのもどうかと思います。カタカナ英語は、新しいようですがそのほとんどはたいしたことは言ってない。電車にのって暇なときによくやるのですが、吊り広告の横文字を全部日本語に直してみると分かる(笑)。こういう言葉をずっと使っていると、日本語が疲弊してくるし、使っている人間も知らず知らずのうちにくたびれてくる。だから、自分の皮膚感覚に訴えてくる大和言葉で話し、考えたほうがいいと思います。
 劇作家として、日本語でこれを聞けてよかった、自分が日本語を話せて良かったと思うような「日本語で生きることのしあわせ」を観客に伝えたいですね。もっといえば、「言葉で生きることのしあわせ」を観客と共有したいのです。
 
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