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鄭義信
鄭義信(Chong Wishing)
1957年生まれ。作家、演出家。同志社大学文学部を中退、横浜放送映画専門学校(現・日本映画学校)美術科に学ぶ。松竹の美術助手を経て演劇に転向。劇団「黒テント」を経て、87年に「新宿梁山泊」旗揚げに参加。座付き作家として、エネルギッシュでスペクタクルな作品を発表。国内はもとより、アジア各地で公演を行う。96年に新宿梁山泊退団。現在は、映画やテレビの脚本書き下ろしも多く、人気シナリオ作家として活躍する傍ら、92年に立ち上げた、自ら作・演出を務めるプロデュース集団「海のサーカス」で人生の機微を描いた哀しくもコミカルな作品を発表している。94年、『ザ・寺山』で岸田國士戯曲賞受賞。崔洋一監督と組んだ映画『月はどっちに出ている』『血と骨』でキネマ旬報脚本賞受賞。
『焼肉ドラゴン』
日韓合同公演/新国立劇場プロデュース
作:鄭 義信
演出:梁 正雄/鄭 義信
東京:2008年4月17日〜4月27日/新国立劇場
ソウル:2008年5月/芸術の殿堂
日本と韓国からスタッフ・キャストを混合で編成し、2008年4月に東京、5月にソウルで上演する新作。
高度成長と呼ばれた昭和30年代〜40年代。関西地方都市の線路ガード下にある小さな店「焼肉ドラゴン」。店主の金龍吉と先妻との間にもうけた2人の娘、後妻・英順とその連れ子。そして英順との間にやっと授かった一人息子。それぞれが時代に翻弄されながらも、必死で生きる普遍的な家族の物語。
http://www.nntt.jac.go.jp/season/
updata/20000036.html
『たとえば野に咲く花のように』
初演年:2007年
新国立劇場公演
ギリシア悲劇の「アンドロマケ」を、トロイア戦争を太平洋戦争に置き換えた形で翻案した作品。朝鮮半島を捨ててきたダンスホールの女給満喜は、日本兵として死んだ婚約者が忘れられない。そんな彼女に、ライバル店のオーナー康夫は一目惚れしてしまう。康夫の婚約者あかねはあきらめきれず、彼女を慕う直也に康夫を殺せと迫る。朝鮮戦争の影が落ちる日本を背景に、複雑で激しい四角関係が描かれる。
たとえば野に咲く花のように
たとえば野に咲く花のように
たとえば野に咲く花のように
たとえば野に咲く花のように
撮影:谷古宇正彦
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Play of the Month
Artist Interview
2007.12.19
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Portraying the tough but humor-filled lives of an ethnic minority   An interview with the Japan-resident Korean writer Chong Wishing  
マイノリティたちのタフでコミカルな生き様を描く在日コリアンの人気作家・鄭義信  
舞台と映画の領域をまたにかけた旺盛な創作活動で注目される鄭義信(チョン・ウィシン)。彼は、朝鮮半島から日本に渡った移民を祖父母にもつ日本生まれの「在日コリアン」三世であり、その群像劇には自らの人生に裏打ちされた、たくましく生きる人々の笑いや記憶が満ちている。
「在日コリアン」には、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)籍をもつ人、韓国(大韓民国)籍をもつ人、日本に帰化し、日本国籍を取得した人がいるが、外国籍をもつ人は2002年現在で約62万人を数える。日本の現代文化の一角を担う人も多く、劇作家では、鄭義信以外に、つかこうへい、柳美里(現在は小説家に転身)がいる。
日本は戦前の帝国主義時代、朝鮮を植民地として支配した時期があり、多くの朝鮮人が徴用、徴兵として日本に強制連行され、労働力として搾取され、戦争に駆り出された。そうした人たちに加え、日本に新天地を求めて多くの人々が移住し、現在の「在日コリアン」のルーツとなっている。彼らは、「日本名」に改名させられるなど、日本人による差別が厳然とある中、日本で暮らしつづけてきた。
戦後から60年以上がたち、現在は差別が全くなくなったわけではないが、植民地を支配していた日本の帝国主義時代を知らない若い世代も多くなった。それに伴い「歴史的事実」が忘れられ、またそれを曲解する反動的な動きも日本国内にはある。一方、2002年の日韓共催によるサッカーのワールドカップ以降、文化交流は加速度的に進み、近年は韓国のテレビドラマが日本の主婦層を中心に大人気となる“韓流ブーム”を巻き起こすなど、新たな関係が築かれつつある。また、日本のメディアも韓国・朝鮮人の人たちの表記を「日本語読み」ではなく、「朝鮮語読み」とするのが当たり前になってきた。
こうした新時代の人気作家として、今年は4作もの新作を書き下ろした鄭義信。来年5月には「ソウル芸術の殿堂」と「新国立劇場」の共同制作により、時代に翻弄されながらも日本で焼き肉屋を営む在日コリアン一家のタフな生き様を描く『焼肉ドラゴン』(演出:梁正雄・鄭義信)の公演も決まっている。そんな彼の原点に遡って話を聞いた。

(聞き手:小堀純)



原風景を持つ劇作家

──鄭さん一家は昔、姫路城の中に住んでいたと聞きましたが。
中ではないのですが、お城の外堀の石垣の上に住んでいました。そこは、戦後、土地を持たない人たちが勝手にバラックを建てて住んでいたところで、在日朝鮮人や日本人の貧しい人たちが多かったですね。父はそこに家を建てて、石垣を崩して庭にしていました。父はその土地を買ったというんですけどね、どう考えても国有地(笑)。姫路城は国宝で世界遺産にも登録されていますから、私たち一家は世界遺産に住んでいたということになりますね(笑)。

──ユニークな人たちもいっぱい住んでいたそうですね。
廃車に住んでいる「ネズミ男」」とか、「ギチュー」と呼ばれている居候とかですね。僕が書く芝居に出てくるような、ボケてて、ヘンな人たち。そういう人たちがまわりにいっぱいいました。貧しくてズルくて。子どもの頃はそういう人たちが好きじゃなかったけど、今は、けったいでオモロイ人たちだな、彼らは彼らなりに一生懸命生きてきた愛すべき人たちだと思っています。
家の目の前に幼稚園、小学校、中学校があって、そこに通っていました。僕は男ばかり五人兄弟の四男ですが、なぜか僕だけ小学校の低学年の頃から両親と離れて祖母と暮らしていました。祖母の家があったのは朝鮮人ばかりの集落でしたが、実家のある石垣よりもちょっと小高い丘にあって。そこから日赤病院の白い壁と火葬場の煙突と刑務所の赤いレンガの壁がみえるんです。「生」と「死」と「罪」と「罰」が揃っているというか……。

──「世界」そのものが凝縮されているような……。
ええ。素晴らしい集落でした。祖母と一緒にその集落で暮らしていたことで人生観が狂って、他の兄弟はみんな理系なのに僕だけ文系に進んでしまった(笑)。祖母のところから実家の石垣集落へ祖母と一緒に戻りました。僕はおばあちゃん子だったから中学生になるまで祖母と一緒に寝ていたんですけど、いつも寝物語で故郷の朝鮮の話をするんです。それで「死にたい、死にたい」と繰り返す。おかげで子どもの頃から「人生ってこんなもんなんだ……」「人生って無常なものなんだ……」って思ってました……。
父は15歳の時に日本に来ました。父は勉学で身をたてようと広島高等師範学校(現・広島大学)へ入学しました。だけど2回生のときに学徒動員で徴兵にとられるんですが、成績が良かったので陸軍中野学校に行くんです。子どもの頃、家にサーベルがあって、どうして父がサーベルを持っているのか不思議だったのですが、後に聞いたら、憲兵だったと言うんです。この間の芝居、『たとえば野に咲く花のように』にも在日朝鮮人で憲兵だった男の話が出てきますが、あれは父のエピソードから取ったものです。

──終戦後はどうされたのですか?
戦後、いったん祖母や叔母と一緒に船で韓国へ帰ろうとするんですが、先に送った荷物をのせた船が沈んでしまって全財産を失ってしまって、もう韓国へは帰れないというので、父は姫路で廃品回収業を始めました。
廃品回収で集められた8ミリの映写機や、本や雑誌など、いろいろなものが家にいっぱいありました。そういう本をよく読んでいましたね。思い出に残っているのは、小学校低学年の時に読んだ『クオレの日記』というイタリア児童文学です。寄宿舎に入っている少年たちの話で、大好きでしたね。
映画館の空き缶やダンボールを廃品回収でひきとっていたので、月に1回、父が映画館にその支払いに行くんですが、そのとき家族でついて行って、映画館の2階からみんなで映画をみていました。お弁当広げてね。映画の選択権は母にあったので、見たのはもっぱら日活の青春映画でした。子どもの頃のそうした体験があるので古びた映画館への想い入れが強いです。最新作の『僕と彼と娘のいる場所』で舞台にした映画館は、実際に姫路にあった古い映画館をモデルにしています。残念ながら、もう取り壊しになってしまいましたが。

──高校まで姫路で、大学は京都の同志社大学に進まれます。学部はどちらだったのですか。
文学部文化学科美学及芸術学専攻です。同志社は入試から専攻を選ばせるんですよ。小説家の筒井康隆さんも同じ美学及芸術学専攻で、まわりの学生は筒井ファンばっかり。でも僕はロシア文学や柴田翔や高橋和巳ばかり読んでいて、筒井さんは読んでいなかったので浮いていました。親は大反対しましたが、大学も結局2年で中退してしまいました。

──その頃、小説家になろうと思っていなかったのですか。
いやあ、流されるままに生きてきたという感じですから、小説家や脚本家になりたいという強い想いがあったわけではありません。僕は恥ずかしながら、野望とか、夢というものがない(笑)。

──大学を中退してからどうされていたのですか。
バイトしながら映画ばかりみていました。休みの週末には、京都で3本立て、それから大阪へ行ってまた3本立て。その後、京都へ戻ってオールナイト5本立て。翌日は大阪でまた3本立てとか。話がごっちゃになるくらい映画をみていた。そのときは、自分の人生を持て余していて、ぽっかりあいた自分の中の空白を一生懸命、映画で埋めようとしていたんでしょうね、きっと。ヴィスコンティの『若者のすべて』は五人兄弟の話で僕と一緒だから、思い入れが強いです。『人魚伝説』(「ウチウミ」という小さな町に海を越えてやってきた6人兄弟の一家とそこに流れ着いた金魚という女の因縁の物語※)を書いたときには『若者のすべて』へのオマージュのような気持ちもありました。ちなみに僕には幼い頃に亡くなった姉が二人いるそうで、両親はだから女の子が欲しくてね、でも生まれたのは男ばっかりだった(笑)。
 
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