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Artist Interview
Looking to the future of Noh with Hirotada Kamei, an Otsuzumi (Okawa) artist who calls himself a Noh actor
自らをNoh Actorと称す大鼓方・亀井広忠が見つめる未来の能楽とは?
第3回「広忠の会」
(2004年12月/宝生能楽堂)
広忠の会
撮影:前島写真店
──リハーサルの時に、自分の中で組み立てていたイメージとシテ方のイメージがずれているということもあると思います。どうなさるんですか。
 その場によります。力のある、みんなに認められている役者なら、そのシテの意向をくむ。あくまでシテが言葉を発さないコンダクターですから、その意向を聞くのが大前提ですが、納得がいかない場合には、こちらから注文をつけることもあります。でも、実際の舞台を動かすのは、曲を仕切る大鼓と地頭です。
 能のリズムの取り方は8拍子で、洋楽でいえば4分の4拍子か4分の8拍子ですが、大鼓は奇数拍を担い、小鼓は偶数拍を担っています。ということは、大鼓は出だしを担当しているわけです。5拍、8拍というお尻の拍は小鼓が担当している。出だしは大鼓、受け止めるのは小鼓なので、出だしの「よーっ」という声でも、音でも、その質、打ち込みの音、声と音の間の“間”もすべて大鼓がきっかけをつくるわけです。だからやっていて面白い。
 四拍子の中で、小鼓は音に肉付けする役。太鼓は表拍、裏拍を倍速で打っていて、リズムを支配する役で、言ってみれば心臓みたいなものです。笛は、小鼓が肉付けをするのに対して音を彩る。そして、大鼓がすべてのきっかけとそれぞれの役割の間の骨組みをつくる。ですから、大鼓がしっかりしていないと、その1曲は成り立たちません。

──掛け声はとてもノイジーで打楽器音に近い。亀井さんは工夫をして掛け方を変えたりしていますか。
 私が一番工夫しているのは、実は、音よりも掛け声のほうなんです。掛け声は、謡と同化しなければならない部分が非常に多い。たとえば、音には、上音、中音、下音、日本古来の言い方をすると「呂中干」がありますが、次に上音が来る謡のフレーズが来る前には、私のほうから上音を発して、「はい、次は上音の謡だよ」と知らせるような掛け声を掛ける。出だしを担当する大鼓として、掛け声でもその役割を意識してやっています。謡が上音であろうが、こちらは下音で掛けような、引っ張り合いをすることもあります。謡に関係なく、抽象的にフラフラさまようような掛け声を出すこともあります。どう掛けるか、実は試行錯誤でやっています。
 昔の師匠方には「お前の掛け声の使い方はあざとい」「そんなにクッキリ音を何色も使い分けなくて1つの音でいい」と言われることもある。私に言わせれば、師匠方も若い頃に通って来た道だと思います。亀井忠雄の若い頃の録音を聴いていたら、場面によって声音を変えたりしているわけです。年を取ってくると試行錯誤でやってきたものが、いい意味で削ぎ落とされる。まあ、40半ばまでは肉付けじゃないですかね、舞台の世界は。50を過ぎてから削ぎ落とされてようやく光ってくる。教えられたものをそのままやるのは、10代のレベルですよ。

──能や歌舞伎の方は幼少から修業がはじまるので、亀井さんの年齢でもう四半世紀以上のキャリアがあります。
 そうですね、稽古を初めてからもう30年ですから。スポーツ選手は私の年齢あたりがピークで、あとはどんどん下がる。ところが我々はこれから歳をとればとるほど上がっていくのですから、楽しみです。死ぬまで自分がどういう役者だったかわからない、そういう一生のスパンで修業できるものに出会えたことは本当に幸せだと思います。
 それだけではなくて、老いの美学というものもあります。世阿弥は「老木(おいき)に花の咲くが如し」、つまり、枯れた木にも花が咲いたらいいなあ、と言っています。70を過ぎても花が咲くとは、昔ほど声も出ない、動けないけれど、なんて抑制された、削ぎ落とされた仕舞を舞うのだろうと感動できる。能はそういう見方が出来る世界です。世阿弥は『風姿花伝』の「年来稽古條々」で言っています。34、5歳までに、ある程度の名声、技術、人格を伴っていなければ後は落ちるだけ、アンタはそこでだから諦めなさいと。私はこの第一の目標を目指して修業してきましたが、今は次の40半ばを目標に肉付けをしていきたいと思っています。

──亀井さんはご自分のことを演奏家ではなく「役者」と言われていますが、なぜですか。
 囃子方という意識を捨てたいんです。舞台に上がっている以上は、大鼓という楽器を借りて曲を表現している役者だと思いたい。お客様に見えている所で演奏している以上、目線、手の出し方、姿勢、顔の表情といったものすべてで表現している。大鼓ってお客様から見て一番目立つ所に座っていますから、所作ひとつとっても美しくなければダメなんです。所作をする、動くということは、もう役者なんだと思います。

──亀井さんのご家族はみなさん囃子方ですが、3歳で習い始めたのはご自分の意思ですか。
 両親に「前に座れ」と言われて、そこからです。なんせ母の胎内にいる頃から能を聞き、歌舞伎を聞き、ですからね。その頃の母は国立劇場養成課の歌舞伎の鳴り物研修の講師をし、自分の素人弟子、田中流の一門の稽古をしていた。さらに自分の旦那の能を見に行き、自分の親父の歌舞伎を見に行き、下座音楽も打っていましたから、もの凄い胎教だったと思います。
 その上、母は、私たち兄弟が小さい頃から歌舞伎や能を度々見に連れて行ってくれました。すぐ下の弟を背負い、一番下の弟を抱き、私の手を引いて。歌舞伎のオーケストラボックスにあたる黒御簾の中や客席の一番後ろから、「静かにするんですよ」と言われて舞台を見ました。かけらでもいいから記憶に残ればと、母が選んだ舞台だったのだろうと思います。4歳の頃に歌舞伎座二階席の中から中村歌右衛門の「道成寺」を見た時は、本当にいつまでも見続けていたかった。小さいながらもオーラを感じたんでしょうね。そうして見た歌舞伎の二代目尾上松緑、市川猿之助、能の先代観世寿夫から知らず知らずのうちにいろいろなことを学んだと思います。
 母が歌舞伎囃子の家元だったので、そちらの道に進んでもよかったのですが、能を選んだのは、父の大鼓を打っている姿が格好良かったから。小さい頃は大人用の楽器しかありませんから抱えて打ったり、左手を大鼓に見立てて右手で打つ真似をしたりしていました。同時に、3人兄弟で、先代の観世銕之丞先生のところに入門しました。私が3歳で、真ん中の田中傳左衛門が2歳、田中傳次郎は0歳の時です。銕之亟先生には謡と仕舞を学びました。私の能の基本はここで培われたものです。
 先ほど私の稽古は謡だと言いましたが、謡が9割、掛け声が1割。まず能の基本である謡の言葉、メロディー、そして所作を、自分が意識する前から身体に刷り込ませることが大事で、これが出来ているかいないかで、能楽師として一人前になれるかどうか決まります。潜在意識の中にあるもので動くことが出来ないと、能の世界では生きていけないんじゃないでしょうか。

──まさに英才教育ですね。遊びたい盛りでしょうに。
 部活動はやっておりましたが、小学校、中学校と遊んだ記憶はないですね。長男は親父に何かあれば家を支えていかなければならない、という思いが小学校の頃からずっとありました。だから早く上手くなって舞台に出て稼ぎたかった。
 父は26歳で人間国宝だった自分の父を亡くしています。お祖父さんは舞台で倒れて亡くなったのですが、曲の前半で倒れたから、父が後半から代わって大鼓を打ちました。そんな話を幼稚園の頃から聞かされ、小学生の時には母に「ヒロ、お父さんに何かあったら、アンタが代わらなくちゃいけないんだよ」と言われていましたから。そういう意識で稽古もするし、舞台に臨んでいました。
 父、つまり私の大鼓の師匠のお供で鞄持ちをして、楽屋に行って着物を着せたり畳んだり、楽器の準備をしたり。我々の世界では「働き」と言いますが、小学3年生ぐらいの頃からずーっと土日は「働き」に行っていました。行けるときは平日の夜も。どこに控えていればいいのかといった楽屋の作法や、大鼓の皮をどう焙じればいいかなど、楽屋働きをしながら身につけました。
 楽屋では漠然と働きをやっているのではなく、そこで色々な曲を見聞きするわけです。自分の師匠が出ている間は、その後ろに座って舞台を聞く。これが「後見」というやつですね。あの頃は、父が例えば月に十何番能を打つのであれば、せめて1番か2番は暗記して、後ろに座ってやろうと思っていました。そうすると1年で12曲覚えられるでしょ。学校が終わって家に帰ると、晩ご飯の前に父に「30分稽古だ!」と言われるわけです。その30分の間、必死でした。礼儀や能に向き合う時の態度は母親から、能の技術は父親から、先代銕之亟先生には能の厳しさ、難しさ、楽しさを教わった感じですね。
 
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