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松本修
松本修(Osamu Matsumoto)
MODE主宰/演出家。1955年、札幌市生まれ。俳優として10年間、文学座に在籍後、1989年に演劇集団MODEを設立。チェーホフ、ベケット、ワイルダーなどの海外の戯曲を、現代日本の劇として再構成・演出して高い評価を得る。また、柳美里や坂手洋二、平田オリザ、松田正隆、宮沢章夫など現代日本の劇作家との共同作業も積極的に行ってきた。1996年〜1998年、北海道演劇財団常任演出家。1997年より2001年までの5年間、世田谷パブリックシアターのアソシエイトディレクターをつとめ、同劇場で2001年に1年間にわたるオーディションとワークショップを費やして創作されたカフカの『アメリカ』は好評を博し、03年の再演時には読売演劇大賞優秀作品賞、同優秀演出家賞、毎日芸術賞・千田是也賞を受賞した。05 年に新国立劇場で上演された『城』(カフカ作)は、読売演劇大賞作品賞、優秀演出家賞を受賞。カフカの連作ほか、『わたしが子どもだったころ』(読売演劇大賞優秀作品賞、同優秀演出家賞)、『プラトーノフ』(湯浅芳子賞)、『ガリレオの生涯』などを手がける。近畿大学文芸学部芸術学科准教授。
審判
審判
審判
世田谷パブリックシアター制作
カフカ2作交互上演『審判』

(2007年11月15日〜12月8日/世田谷パブリックシアター)
原作:フランツ・カフカ
構成・演出:松本修
撮影:宮内勝
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Artist Interview
2008.3.31
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The world of director, Osamu Matsumoto − Staging Kafka with his unique style with workshops and composition cards  
ワークショップとカード式演出術でカフカ劇に挑む、松本修の世界  
演出家の松本修は伝統ある新劇の劇団「文学座」の俳優を振りだしに、1989年には自らの主宰により劇団MODEを旗揚げ。チェーホフやベケットの戯曲などを素材に、即興的な演技でつくりあげた断片的なシーンを構成する手法で小劇場演劇を発表し、注目を集める。1997年、世田谷パブリックシアターのアソシエイトディレクターとなったのをきかっけに、公共劇場でのワークショップによる創作に力を入れ、中でも2001年の『アメリカ』(2001年、03年再演 世田谷パブリックシアター+MODE公演)に始まり、『城』(05年 新国立劇場公演)、『変身』(07年 MODE公演)、『審判』『失踪者』交互上演(08年 世田谷パブリックシアター+MODE公演)と続いたカフカを原作とする連作は高い評価を受けている。カフカ劇に至る松本の歩みと、その独特の演出手法について聞いた。
(聞き手:内田洋一)



──そもそもどうしてカフカを取り上げるようになったのか、そのきっかけからお聞きしたいと思います。
 1997年にオープンした世田谷パブリックシアターの劇場監督だった佐藤信さんに劇場のアソシエイトディレクターとして呼ばれたのがきっかけです。僕はワークショップを用いて舞台を作ってきて、また全国のあちこちで演劇ワークショップを開いていたので、佐藤さんはそれに注目されたようです。
 演出を始めたとき、台本をそのままなぞるのではなく、稽古場で小さな習作、フランス語でいうエチュードをいくつも作り、どのようにテキストを舞台化すれば面白いかを探っていました。ソーントン・ワイルダーの『わが町』を原作にした『わたしが子どもだったころ』という作品を作ったときは、地方公演を行う際に自治体の公共ホールと連携し、公演前に市民を対象にしたワークショップをやり、市民の参加者の中から十数人を選抜して群衆役で舞台にだす試みもしていました。佐藤さんはそうした活動や創作方法を新しい劇場に取り入れたいと考えていたようです。
 それで世田谷パブリックシアターで高校生のためのワークショップなどに関わるようになりました。同時にレパートリーの選定に際して、どんな舞台をやりたいかレポートを書いてだして欲しいと言われた。劇場では、自分のカンパニーではできない、試みたことのないものができそうだと思ったので、ブレヒトやカフカを提案しました。実現したのはブレヒトの『ガリレオの生涯』が先でした。
 カフカの『審判』や『城』は海外では戯曲にもなっていますが、『アメリカ』は戯曲化されておらず、いわゆる「不条理」というレッテルも貼られていない。教養小説的なストーリーの面白さがあり、それでいてやはりまぎれもなくカフカ独自の世界がある。俳優としてこの小説をどう読むのか、人物の行動、関係性をワークショップで時間をかけて作り上げたいと思いました。ディレクターになって4年目にようやく企画が通って『アメリカ』公演が実現したのです。

──松本さんは、はじめ文学座という新劇の劇団にいらっしゃいました。1980年代初めの当時は、小劇場運動が最後期に入っており、東京の演劇界には非常に多種多様な演劇形態がバラバラに存在していました。松本さんは、その中でMODEを立ち上げ、ワークショップ形式で作品づくりをはじめられたわけですが、ワークショップという方法をどのようにして発見されたのでしょうか。
 日本の演技は、作家と演出家と劇団によってさまざまに異なるやり方があります。が、大きく分ければ、僕が属していた文学座をはじめとする新劇の自然な演技と、それを批判していたアンダーグラウンド演劇の演技に分けられる。僕が弘前大学にいたころ、学生劇団をやっていた先輩が新劇はもうダメなんて言っていましたが、僕はその新劇を見たことさえなかった。スクリーンで活躍していた松田優作、桃井かおり、原田芳雄といった魅力的な俳優は新劇出身だし、まずはちょっと知ってみたいと思って、冷やかし半分で文学座に入りました。でも、学生劇団のアングラ風の演技が体に染み付いていて、文学座研究生の頃は腰を下げて大声をだしていましたが(笑)。

──腰を下げて大声をだせば、いわゆるアングラ風の絶叫型の演技になる。それをとがめられた?
 そうです。もうちょっと自然に喋りなさいと。文学座には代表的な女優だった杉村春子以下、太地喜和子、北村和夫らの洗練された演技がある。間近に見ていてやっぱり上手いなあと思いました。

──つまり、ナチュラルな演技を再認識し、再評価したという経験があるわけですね。
 そうですね。実際自分はなかなか上手にできないわけです。文学座の中でも上手い人とそうでない人がいて、僕は後者でしたが、自然な演技の上手下手の違いはとても面白い発見でした。あくまで自然に演じていながら、例えばある瞬間に太地喜和子の集中力のギアが入ると、違う演技の次元にいって、全然ナチュラルじゃない。ギアが入った時の演技、方法論はアングラの優れた女優だった李麗仙や白石加代子と変わらないのではないかと思いました。
 新劇女優の最高峰だった杉村春子さんにしてからが「あなたたち自然じゃないわよ」と若手に注意しながら、自分の演技は自然を超えていた。当時70歳を超えていたのに『女の一生』という芝居で17歳の少女を演じていたわけで、それは決して自然なことではない。

──87歳で少女を演じましたからね。
 舞踏の大野一雄がバレリーナのような乙女になるのに近いとさえ思いました。杉村さんは70代までは、作り声で少女をやっていたんですが、最後から2回目の『女の一生』の時から低い地声でやったんです。僕は東横劇場で観て、ゾクッとしました。その頃、僕は杉村さんの相手役をやったこともあって、聞いてみたら「声をつくらなくてもいいということに何十年もやっていて今気付いたのよ」と言われた。凄いなあと思いました。
 新劇にもそういう凄い俳優がいるし、たとえば、新劇のナチュラリズムを批判していた鈴木忠志さんのカンパニーで育った人たちの中にも逆に型にはまった演技をする人もいる。ならばもはやアングラの演技も疑っていいのではないか、と考えるようになった。それで、僕は稽古に入る前の段階でお互いの演技を検証しあう必要性を感じ、それがワークショップの発想につながっていったのだと思います。

──杉村春子さんの凄さにふれたことで、演技の始原、魔の時間とでも言うのでしょうか、そういうものに体で気が付いたということになるのでしょうか。
 そうですね。俳優の卵だった僕はそういうことばかりに興味があって、そこから次第に演出に関心が向いていきました。魅力的な演技はどうやったら作られるものなのか、メソッドによってなのか。俳優の側からすると、演技の再検証、再点検ということに関心が向いていきました。
 MODEを結成したころ、東京では即興で舞台を創る手法が他の集団でも試みられていたのですが、そうした集団の一つから女優が公演に参加してくれたことがあった。でも、自分の集団の演出家とつくり方が全く違うというので途中でノイローゼ気味になって。「セリフと演技をいつ決めるんですか?」と聞かれ、「決めないんだよ。君らはどうしてるの?」と言うと、私たちは即興で作るのはある段階までで、それをテープに採ったり演出を記録したりして、最終的にセリフも演技も決めるというんです。「僕は舞台の楽日までずっと決めずにやり続けたいんだ」と言ったら、冗談じゃない、私は辞めると(笑)。
 
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