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Artist Interview
The world of director, Osamu Matsumoto − Staging Kafka with his unique style with workshops and composition cards
ワークショップとカード式演出術でカフカ劇に挑む、松本修の世界
城
城
『城』の構成表
──松本さんの舞台では、演技の合間合間にでてくるダンスや、あるいは『アメリカ』で使った映画『アンダーグラウンド』のブラスのような音楽が非常に効果を発揮しています。そのアイデアの源をお聞かせください。
 ダンスで言うと、『審判』では、ラストでヨーゼフが処刑される前の夢のシーンや、街の人々の中をバケツを持った女がゆっくり横切るシーンなどは自分で振付しました。踊りの振付というのではなく、舞台の空間にこう在ってほしいということを色々なやり方で試すんです。
 音楽は、MODE時代から一曲残らず僕が選曲しています。だから音響のスタッフには嫌がられましたよ、選曲させてもらえないわけですから(笑)。『アメリカ』では、ユダヤのクレズマーという音楽を使いました。海外でCDを50枚ぐらい買ってきてもらって、気になった曲をチェックした。ワークショップの中で試しに曲を流して、それに合わせて俳優にやってもらうこともあります。
 僕は、演出する時は必ず音響セットを側に置いて、取っ替え引っ替え音楽をかけながら、合うか合わないかその場で確かめます。音楽というものは、もともと構成が考えられていますから、前奏の時は空間を音と明かりで満たして、主旋律が流れだす時に役者がフワーっとでて、間奏の時に散って、エンディングでサーッと消えていく、というふうにイメージできる。それからそこにセリフを当てはめていくこともあります。
 シーンとマッチする音楽があればセリフのほうがいらなくなることもある。哀しみを表現するシーンで情感がイメージされる曲が流れると、役者は突っ立ったままでもいい。それが感じられる俳優はセリフがいらないことがわかります。そのほうが観客に想像力を与えることができる場合もある。逆に音楽によって役者にイメージを植え付けておいて、ある段階から音を使わないで黙って居させることもあります。音がなくなっても役者の中には音でつくられたイメージがあるから、ただ黙って椅子に座っているのとは違う身体が見えてくる。

──松本さんの中には、音楽も美術も、あるいは照明も、すべてのものが等価にあって、それを一つのイメージとしてつくっていく感じですね。観客の立場からすると、読者としてカフカを読む時とは全く違う、書かれていない深層心理が見えるシーンがあるということで、そういう“演劇的カフカ”になるのが面白いですよね。演劇としてこれだけやってみて、改めて演劇人としてカフカのどこがどう面白いと感じていらっしゃいますか。
 カフカの読者から、僕のやった舞台には「カフカにはないユーモアと、性的なものを付け加えた」と言われましたが、違うと思います。もともとカフカの中に性的なイメージやユーモアがたくさん書き込まれている。日本でのカフカの読まれ方では、そこが重要視されていなかったかもしれませんが、演劇的にはそこがとても面白いと思いました。若い頃に『城』を読んで面白く思えなかったのはそこが読み取れなくて、観念的に受け止めていたからだというのがわかりました。
 僕は、演劇には“ユーモア”の要素が必要だと思っています。恋愛経験や社会経験がないとカフカに書き込まれているユーモアをユーモアとして受けとれない。実にいいかげんな論理をもて遊ぶ役人や弁護士がでてきて、それがとても面白いと思いました。でも、そのナンセンスな描写はわれわれの生きている社会そっくりなんです。
 それからカフカの性的なものの描き方が面白いですね。愛を求めると言っても、精神的な愛と肉体的(生理的)な愛がズレたり、一致しないこともある。報われない恋、報われない性欲がいっぱいでてくる。実際に舞台でやると、女にのし掛かり、愛撫しながら「君のところの弁護士はさ」と言う。舞台でやるとそのズレが直接的に見えるわけです。

──俳優の肉体を通してみると、「なんだ、こういうことだったのか」というのがたくさんあったのでしょうね。
 カフカの舞台は、私たちの在り方の鏡として見ることできるかもしれません。赤裸々にとまでは言いませんが、自分たちのことがかなり如実に見える……。
 もちろん、文学的な主題にも惹かれます。『アメリカ』や『城』ではカフカの残したアフォリズムとでもいうような断片を字幕で挿入しました。「私」とは何なのか。それは独房の中で高い窓を見つめているような存在ではないのかといった、理由の判ったような、判らないような表現で孤独について書いてありますからね。
 あとは、視覚的に、人の容姿、服装、あるいは建物についてなど、物の外見についての描写がとても細かい。カフカがどういう絵をイメージしているのかを想像するのが面白かったです。そうか、そういうものの見方があるんだ、そういう気分のときには街がそう見えるのか、とか。ある演出家と話をしていたら、「アメリカは映画ならできるけど、芝居では難しいんじゃない?」と言われたのですが、僕はそれを芝居で見せることは可能だと思ったのです。
 カフカの小説には眠りのシーンがたくさんあって、朝起きたらこうなっていた、というのがよくありますね。有名なのが『変身』の書きだしで、朝目覚めたら巨大な虫になっていたというものです。けれど「夢ではなかった」と書いてある。「夢だった」はではなく「夢ではなかった」と書いてあるんです。そこが、カフカの面白いところなんだと思います。

──『変身』は松本さんも舞台化されています。松本演出は“虫”をかぶり物をしたりしないで、普通の生身の人間としてだしていました。それなのに、周りは普通の人間を虫として扱い始める。「お前は虫だ」と言われているうちに、本当に虫に見えてきてしまうという演劇的な怖さがありました。それは今日的な課題であるいじめの問題にも通じるところがあると思って拝見しました。本当にカフカ的です。説明してしまえば、ユダヤ人虐殺の問題に繋がっていく、差別とか虐殺という人間の異分子排除の捏造の構造が非常にリアルに描かれていました。
 僕は最初から、あのグレーゴル・ザムザはパジャマを着てベッドにいればいいんだと思っていました。フォーキン演出の舞台を映像で見ましたが、俳優が虫になってベッドの上で動かなくなった場面で、非常にイヤな気持ちがした。異形の形、つまり身体障害者のような演技をして最後には動けなくなって排除される。それこそ差別じゃないか。僕は絶対そういう表現は取りたくなかった。
 能や狂言の名乗りで「私はこのあたりに住む山伏でござる」といえば、それで山伏になるという、単純な演劇の構造のほうがやはりいいと思いました。「彼は虫になった」と言えばそれでいい。『変身』はカフカが生きている時に出版されましたが、彼は挿絵で虫を使わないでくれと執拗に言っているんです。結局、ドアを覗いて叫ぶ家族の版画が挿絵になった。どのような虫であるか色々と想像されますが、結局、どんな虫なのかは書いてありません。そもそも誰が変身したのでしょうか。変身したのはザムザではなく、家族たちだったのかもしれないのです。
 
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