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前田司郎
前田司郎(Shiro Maeda)
東京・五反田生まれ。和光大学卒業。1997年、19歳で「五反田団」旗揚げ。諧謔というより、脱力系の自然体なおかしみのある劇空間に魅力がある。五反田団は、2003年に平田オリザ率いる青年団と合併し、「青年団リンク」の若手劇団のひとつとして活動。こまばアゴラ劇場を中心に作品を発表。劇団の活動が軌道に乗り、05年に合併を解消。『いやむしろわすれて草』、『キャベツの類』、『さようなら僕の小さな名声』と3度の最終候補ノミネートを経て、2007年度『生きているものはいないのか』で岸田國士戯曲賞を受賞。オーディションによって選ばれた俳優17人とのワークショップを経て生まれた同作品は、理由が解らないまま登場人物全員が死んでいくという、リリカルかつユーモラスに「死」を描いた作品。すがすがしい気持ちになる正当な不条理演劇と評される。小説家としても数々の作品を文芸誌などに発表している。小説『愛でもない青春でもない旅立たない』で第27回野間文芸新人賞、『恋愛の解体と北区の滅亡』が第28回野間文芸新人賞・第19回三島由紀夫賞に、『グレート生活アドベンチャー』が第137回芥川龍之介賞にそれぞれノミネートされる。
http://www.uranus.dti.ne.jp/~gotannda/
*1 五反田団『ながく吐息』
(2003年2月19日−24日 / こまばアゴラ劇場)
あらすじ:
二人の若いサラリーマン。飲み会の帰りに、他愛のない話をしながら歩いている。そのうちのひとりは恋人に振られたばかりだという。その男は道ばたの塀に向かって立小便を始める。なぜか小便は、塀から地面(床)に流れ続け、まったく止まる気配がない。町の真ん中で小便をしながら不安に駆られる男を横目に、通行人は興味津々。偶然通りかかった会社の同僚はビデオカメラを持ち出す始末。そうするうちに振られた元恋人まで登場し……。
ながく吐息


*2 五反田団『キャベツの類』
(2005年3月8日−13日 / こまばアゴラ劇場)
あらすじ:
記憶を取り出し、キャベツに移した男。彼の妻は頭に虫がいてどんどん記憶を失っている。そこへ、半纏を着た神がやってくる。男は神に、妻という女の虫退治を頼むが、段取り悪く失敗。妻は世界と同じくらいに巨大化して、姿が見えなくなってしまう。妻の中に取り込まれた男に妻からの呼び声が。それは彼女の記憶を取り込んだ男の記憶、つまりキャベツの中にすむ青虫の声だ。妻からの別れの言葉に、男はただ泣きながら葉を剥くのだった。
キャベツの類


「シリーズ・同時代」若手劇作家とベテラン演出家とのコラボレーション
Vol. 2『混じりあうこと、消えること』

(2008年6月27日〜7月6日 / 新国立劇場小劇場)
[作]前田司郎
[演出]白井 晃
混じりあうこと、消えること
http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000040_play.html
pdf
an overview
Play of the Month
Artist Interview
2008.4.28
play
The view from an energy void  Playwright Shiro Maeda's Sense of Wonder  
「脱力」から見えてくるもの 劇作家 前田司郎のセンス・オブ・ワンダー  
第52回(2008年)岸田國士戯曲賞を受賞した前田司郎は1977年生まれ。ものが溢れた時代の寵児たちは、力むことなく、見るものを脱力させるパワーをもった表現(日本では“脱力系”と呼ばれている)により、既存の意味に捕われない生き方や価値観を提示してきた。前田もそうしたアーティストのひとりであり、失恋の悲しみでおしっこが止まらなくなった男や、記憶を捨てて自分であることを放棄した男、元恋人のところに転がり込んでその日暮らしをする男といった主人公たちの妄想と生きるための小さな冒険を描いて同世代の好感を呼んでいる。自宅工場を改装した劇団アトリエでインタビューを行ったが、劇中の主人公さながらの気負わない姿で現れた前田は、自らの生活から拾ったエピソードを交えながら、その劇世界について語り始めた。
(聞き手:扇田昭彦)



──前田さんは、和光大学在学中の1997年に劇団五反田団を旗揚げされて、劇作家、演出家、俳優として活動されてきました。どうして芝居をされるようになったのか、そこからお聞かせください。
 中学・高校が本当に退屈で、そんな時に2000円で見られる小劇場の芝居があるのを情報誌で知り、学校帰りに見に行ったんです。そうしたら、大の大人がくだらないことを真剣にやっていて、こんな面白い世界があるんだと。小学生のころから小説家になりたかったのですが、なかなか作品にならなかったし、みんなでつくることをやりたいとも思っていたので、演劇を教えてくれるところを探して高校の近くにあった舞台芸術学院に習いに行ったのがはじまりです。

──私は2003年の『ながく吐息』(*1)から拝見していますが、前田さんの舞台は、音楽も使わなければ、凝った照明もなく、装置も布団や少しの家具だけでほとんど何もない、ミニマリズムの芝居だと思います。演技も、小劇場演劇でよくあるような声を張ったり、身体性を強調した誇張したものではなく、自然体です。こうしたスタイルは芝居をはじめた当初からのものですか。
 最初から今のようなスタイルでした。芝居をはじめた頃は、自分の部屋で稽古をして、学校の教室の片隅で上演していたので、立って走り回ると空間が崩れてしまう。そういう制約もあって、あまり動かないような芝居になったところがあります。それに自分のイメージ通りの舞台を本当に創ろうとすると何億というお金が必要になる。中途半端なことをやるぐらいなら、お金をかけないでやろうと自分で縛りをつくりました。だからといって芸術的な面が制約されるわけじゃないので。
 例えば、ラーメンを豪華などんぶりに入れたら美味しそうに見えるかもしれませんが、スープと麺がおいしくなくちゃ意味がない。器やトッピングは後から考えればいいんであって、まずはスープと麺。以前、ラーメンの上にかにが丸ごと一匹のっている「かにラーメン」を食べたことがあるんですが、あれじゃあラーメンだか、かにだかわからない(笑)。こういう芝居ってあるなあ、有名な芸能人をトッピンングしたみたいだなと思いました。でもそれは本質からズレてる。500円でもおいしいラーメンはあるし、まずはそっちじゃないかと。芝居で言うと戯曲と俳優、それが納得できるものになってからトッピングを考えればいい。今はまだ、戯曲を書いて、演出して、それを俳優に表に出してもらう過程でやらなければならないことがたくさんあると思っています。

──創作の原点になっているモチーフや体験はありますか。
 実は、これまで見たり聞いたりしたものでもっとも感動したのは、自分の見た“夢”なんです。
 高校生までは、毎日決まった時間に起きて学校に行かなくちゃいけなくて、学校という狭い社会のルールにいやでも組み込まれている。それが大学生になって、朝起きなくてもいい、行きたくなければ行かなくてもいいとなってから、夢を見るようになったんです。それまで縛りつけられていた夢を見る能力、妄想する力が自由になったような感じで、2度寝、3度寝を繰り返していろいろな夢を見ました。メモしなかったので内容は忘れましたが、ストーリーとかぐちゃぐちゃなんだけど現実より生々しくて、それがとても面白かった。
 目が覚めているときは現実を知っているのでそこから逃れられないけど、夢の中ではタガが外れて普段の発想から自由になれる。演劇だけではなくて、小説もマンガもそうですが、芸術(創作)の存在価値はそのタガがはずれたところの思索にあるんじゃないかと思っています。僕がものを書いたり、演劇をやったりする出発点はここで、そういう夢をそのまま舞台にもっていくことを今でも追い続けているところがあります。
 でも10年やっていくうちに、戯曲を書く作業が夢をみるような無意識的な思索であるのに対して、演出する作業はそれを論理的な言語に翻訳して俳優に伝える作業、俳優はそれをまた無意識に戻す作業だというのが見えてきた。それがわかってから戯曲の書き方も変わってきました。

──無意識的な作業を続けていった結果、意識的にならざるを得ないというのは皮肉ですよね。
 台詞を書くのもだんだんうまくなっているんです。本当は無駄な部分に無意識が隠されているのに、台詞がうまくなることによってそこが削られていく‥‥。僕がやろうとしていることは洗練を嫌うのですが、そことどう戦えばいいのかはまだ解決していません。

──そういう意識の変化以外にこの10年で変わってきたところはありますか。
 僕はずっと“生と死”をモチーフにしてきたのですが、5年ぐらい前まではそういうことをすごくニヒルに見ていました。人は生まれながらに死に続けていて、生きるということは死に近づくことなのに、実感としては、今日も24時間死に近づいたと感じるのはなく、24時間生きたと感じる。馬鹿みたいにポジティブですよね。はじめはそれを滑稽に感じていたんですが、今はすごく素晴らしいことだと思っています。僕は思考のツールとして戯曲を書いているところがあるので、そういうふうに考え方が流れていった過程が作品になっています。

──前田さんの代表作のひとつが『キャベツの類』(2005年/*2)です。この作品は、自分の記憶を頭から取り出し、キャベツを抱えている男が主人公です。青虫に食べられて記憶が断片的になっている妻らしき女もでてきます。夢のような不条理感のなかに笑いがあり、観客の創造力を最大限にかきたてる作品でした。
 『キャベツの類』は(同じところから出発しても違うところに辿りつくような)神話的なことを考えて書いた作品です。僕はよく写真を撮影するのですが、後になって写真を見返してみても、何に興味をもって撮ったのかわからない。明らかに過去の自分と今の自分の間に差があるのに、それでも自分は自分として過去から今まで流れて連なっている。数珠玉みたいなその時々の自分を貫いて繋いでいるのが記憶なんじゃないかと思いました。
 では、記憶をとりだすと後に何が残るのか、過去の連なりがあってはじめて人間になれるのか、過去がなくて刹那刹那の存在でも人間なのか。キャベツの葉のように重なっている記憶を1枚、1枚剥がしていくとキャベツの芯のような男の無意識が現れるのではないか。結局、人間もキャベツの類と変わらないのかもしれない──そういうところから発想がふくらんでいきました。

──私は、おしっこの止まらなくなった男たちが主人公の『ながく吐息』が好きなのですが、本物の水を使っていたので舞台は水浸しでした。
 人が“突き抜ける”というのはどういうことなんだろう、と考えたことがあって。普段、僕は全く怒らないんですが、これなら誰だって絶対に怒るよという状況に直面したので、突き抜けてみたくて、試しに怒ってみたんです。自分としては格好よく怒っているつもりだったんですが、全然イメージと違っていて、思わず笑っちゃいました。
 怒るのはうまくできなかったけど、それがおしっこだったらどうなるだろう? 失恋した主人公が悲しくて泣くんですが、それを(表現するのに、涙を流すのではなく)おしっこにしたらどうなるだろう? おしっこが止まらなくなって、死ぬかもしれないところまで追い詰められる。そんなふうに死に近づいたとき人は突き抜けるんじゃないか、超越するんじゃないかと思った。そして“おしっこが止まらなくて死にそうなオレって格好いい”と思う。つまり、突き抜けて死を実感として感じられたときにナルシシズムも働くんじゃないかと。その辺のことを考えてみたくて『ながく吐息』をつくりました。
 失恋しておしっこが止まらなくなった男だけじゃなく、子どもを亡くしておしっこが止まらなくなった父親も出てきます。彼女に振られた悲しみと子どもを亡くした悲しみ……。比べようもないですが、表出するものにそんなに差がないように思えるところが面白い。ふたつの悲しみがそんなに違うのなら、表出するものにも深い差異があってしかるべきなのに、そうではないということは、ふたつの悲しみはそんなに遠くないところにあるのかもしれません。
 
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