The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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Artist Interview
The view from an energy void  Playwright Shiro Maeda's Sense of Wonder
「脱力」から見えてくるもの 劇作家 前田司郎のセンス・オブ・ワンダー
五反田団『さようなら僕の小さな名声』
(2006年10月27−11月5日/こまばアゴラ劇場)
あらすじ:
劇作家の「僕」は彼女から二つもらった岸田戯曲賞の一つを寄付しに貧しい国に出かける。いっぽう、「僕」の部屋に住みつく蛇は、彼女はもちろん世界全体を、ひいてはこの劇作品そのものをまで飲み込もうと膨れあがっていく。シンボリックな二つのエピソードを併走させつつ、夢幻的でとりとめのない物語が恣意的に綴られていく。著者自身が岸田國士戯曲賞に二度ノミネートされながら受賞できなかった経験もモチーフとなっている。
さようなら僕の小さな名声
さようなら僕の小さな名声
Play of the Month



ふたりいる景色
五反田団『ふたりいる景色』(2006年)のチラシ(前田直筆のプロダクションノート)
──2005年に『愛でもない青春でもない旅立たない』で小説家デビューをされてから、いろいろな文学賞にノミネートされるなど、小説家としても注目されています。
 小説に関しては本当に無知なので、前に誰か他の小説家が書いているんじゃないかとか、そういう縛りがかからないからアホみたいに書けるんです。戯曲も最初はそうだったのに、だんだんこの台詞はひどいなとか、そういうことがわかるようになって、自分で無意識に言語の検閲をするようになってきた。破天荒な台詞の並び方を避けるようになるとつまらなくなるし、洗練されていくと作品が似てくると思うのですが。たとえば、韓国では整形する人が多いそうですが、整形して洗練させていくと、顔がみんな似てきちゃうみたいな感じです。
 昔は洗練させても、それぞれがもっている異なった情報の中で洗練させていくので似てくることはなかったと思いますが、僕らの時代は手にもっている情報のカードに差がないので、それを洗練させていくと似てしまう。それに対抗するためには、情報を遮断するか、洗練させないかのどちらかだと思います。それで言うと、オタクが尊敬されるのは、情報を遮断して、偏った情報で個性を出しているからですよね。

──演出家としてはどのようなタイプなのですか? 俳優を追い込む演出家もいますが。
 演出家としては、まず戯曲を信じなくちゃいけない、俳優も信じなくちゃいけない、精一杯やってこうなんだと信じなくちゃいけないと思ってやっています。たとえ俳優ができないとしても、精一杯やった結果がそうなのだからそれを受け入れる。俳優を追い込む演出家は、追い込んで超人的な力を出させるんだと思いますが、僕の芝居で超人をみたいという欲求を満たしたい人はいない。俳優にはある瞬間に超越をみせてほしいとは思いますが、基本的にそこらへんにいる何でもない人がそのまま舞台にいる手触りが出るのが望ましいと思っています。

──俳優としても出演されています。
 演出家としての自分をひきずっている部分があり、舞台に出ていてベストなときにはお客さんのことも、他の俳優のこともわかるので意識がそちらに移り、双方向になって影響を受けてしまうんです。だから、俳優としてはすごく繊細で扱いにくい(笑)。ときに良い芝居をするけどすぐに崩れる。ひとりぐらいならこういう繊細なタイプがいてもいいかもしれませんが、愚鈍な俳優のほうがタフでいいと思います。

──前田さんは、日頃から、商業劇場に進出したいという野心はないと言われています。
 メジャーになってもお金が手に入るだけなら、家に経済的なゆとりもありますからお金にこだわる必要はないですし、そもそもメジャーの作品に興味がないんです。
 大きな音やきれいな明かりをみると心は揺れるし、太鼓が同じリズムで鳴っているだけで気分は高揚します。襟をつかんでゆすられるようなことでも心は簡単に動きますが、それを突き詰めると、注射を1本打てば涙が出てカタルシスが得られるような方向に行ってしまう。そうなると芸術はいらなくなります。僕がやっている芝居も最終的にたどりつくところは同じなのかもしれないけど、たとえ出口が同じでもそっちのほうを向いてやってはいけないと思います。
 よくできたストーリーやプロットというのはそんなに複雑なものではなくて、パターンでできるので、突き詰めればコンピューターでもつくれると思います。それはそれで面白いものになると思いますが、そこで勝負をするということは、計算の速さをコンピューターと競い合うようなものです。それじゃあコンピューターに勝てるはずがない。コンピューターに勝つには、人間のもつ無意識で戦うしかないんじゃないかと思っています。
 『偉大なる生活の冒険』では、恋人かどうかわからない女の人の横で主人公は寝ているわけです。どういう気持ちなのか、言葉にしづらいけど、そこには人間に特有の何かがあると思う。メジャーだとこういう世界は表現しづらくて、8割の人に訴えることをやらなくちゃいけない。でも僕がやりたいのはそこではなくて、残り2割の人を対象にしたような芝居だと思います。
 テレビドラマもメジャーな演劇のように見る人を気持ちよくさせなければいけないから、不快な部分は現実にまかせて、愉快なところだけやっているところがあります。でも、生きるとか死ぬとかいうことを描くなら、不快なことも、イライラすることもやらなければならない。そのことを直感的に感じさせてくれたのが、原一男監督のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』でした。この映画を見たとき、ここまで不愉快にさせられることはもうないんじゃないか、凄いなと思いました。芸術というのは、辛いことも悲しいことも含めて、生きるということと相似をなしていなければならない、ということを直感的にわからせてもらった映画でした。

──海外公演とか、海外のアーティストとの共同制作に興味はありますか。
 単純に海外旅行に行けるのがいいですよね(笑)。字幕の付け方とか難しいことはありますが、台詞が2割ぐらいでそれ以外の要素で伝える部分の多い『偉大なる生活の冒険』か、『ながく吐息』のような同じ人間として直感的に面白がれるような下ネタ作品なら海外公演ができるような気がします。下ネタはみんなの共通意識をつくりやすくて、僕のワークショプでもおしっこを我慢するというシチュエーションを使うものがあります。観覧車に乗っておしっこを我慢しながら1周するまでにプロポーズするという設定でエチュードをやってもらうんですが、すぐにシチュエーションが共有できます。
 何年か前ですが、『おやすまなさい』(早く眠りたい人とさみしくなるのでその人を眠らせたくない人のおしゃべり)を英語がしゃべれる日本人の俳優にやってもらうと面白いかな、と考えたこともあります。共同制作は尊敬できるアーティストと出会えない限り難しいですよね。

──最後に今年の公演についてお伺いしたいのですが、6月に新国立劇場で前田さんの書き下ろし『混じりあうこと、消えること』を白井晃さんが演出することになっています。また、9月には前田さんの演出で三島由紀夫の『近代能楽集―綾の鼓』が予定されています。他の人に演出をまかせるのも、三島を演出するのもはじめての試みだと思います。いかがですか。
 前者については、他の人が演出するということを意識しないで書くつもりだったのですが、だんだん気になり始めて……。僕はスキをつくる書き方をしているので、普通の会話も整合性がなくてどんどん逸れていくし、思っていたところとは別のところに流れるから、戯曲だけ読むと整合性がとれていない感じがする。戯曲のコミュニケーションではわからない整合性をそれ以外でとっていくのが演出の作業なので、果たして書いた僕以外の人が演出できるのか。そう思いはじめたら、足がすくんでしまって。僕は草稿を上げてから改稿していくタイプなんですが、いつもなら15稿ぐらいで終わるところがそこを越えたのに、まだ完成していません。
 「綾の鼓」は劇場から提案された企画です。これまで三島作品はあまり読んだことがなかったのですが、三島の戦略的な──僕はそう思っていますが──戦略的なナルシシズムの出し方に興味があります。この作品には恋心をニヒルに笑っているようなところがあるので、そこが出せればと思っています。ただ、知らない俳優さんが多いので、稽古がはじまってみないとどうなるかわからないですね。俳優が伸びたいほうにしか伸びないから、それによっては僕がやろうとしていることも変わってくるかもしれせん。
 
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