The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
Artist Interview
A look into the world of performer Noriyuki Sawa With the new form of puppetry known as figure theatre
人形劇の新しいムーブメント「フィギュア・シアター」で独自の世界を切り開くパフォーマー沢則行の感性とは?
──「バベルタワー」ですが、具体的にはどのようなワークショップだったのですか。
 「バベルの塔」は、ご存知のように、最初は同じ言葉を喋っていた人間が神に届こうと高い塔をつくって怒られ、バラバラの言葉になったという旧約聖書の話です。「バベルタワー」は、核戦争が勃発し、混乱した世界で、言葉の通じないもの同士がどうやってコミュニケーションを見つけるかという演劇的なワークショップで、確か15カ国から27人が参加していたと思いますが、自分の国の言葉だけ喋れと言われて、台詞が15カ国語だったんです。
 200個ぐらい積まれた段ボール箱が崩され、下敷きになった私たちがはい出すところからはじまります。芝居づくりは英語ですが、そもそも、その15種類の英語が訛っていて通じない。僕の英語もひどいし。
 ワークショップ2日目、全然コミュニケートできないから、とりあえずランチタイムを決めようということになって。フランス人が「僕の好きなレストランは2時から4時しか開いていない」からその時間でと言ったら、ドイツ人が「俺たちは働きに来ているんだから、昼休みは12時から12時45分でそれ以上必要ない」と。イギリス人は、「3時にお茶にしよう」、イタリア人は「私はいっぱい食べられればいつでもいいけど、その後お昼寝がしたい」と言う。とうとうクロフタさんが「うるさい!」って怒って、お昼は12時から1時になった。
 あまりにもティピカルな反応で笑っちゃうでしょ。でも自分も「ノリ!お前は何時に飯が食いたい?」と聞かれて、「いや、俺は何時でもいいですよ」と答えたら、「この日本人め!」と(笑)。そういう5週間でした。

──人形はつくらなかったのですか?
 ゴミ捨て場から好きなゴミを拾ってきて人形にしましたが、クロフタのメソッドの基本は、出す必要がなければ人形は出すなということ。それは徹底していて、「なんで人形がいるのか? 理由が説明できなければ自分で歩いたほうがいい」と言うんです。その考え方は私が知っている人形劇とは全く違うものでした。
 例えば、川から流れてきた段ボール箱の中に赤ん坊が入っているという設定で、それをボロボロの格好になった私たちが見つけて拾うんです。赤ん坊の人形が入っているわけではなくて、ガラガラの音だけしていて、私たちはみんなで段ボールの中に赤ん坊がいるように演技するんですが、最後に段ボールは空っぽだというのを観客に見せて終わる。
 クロフタは、俺たちは人形を操る人形劇家、パペッティアだから段ボール箱を上手く赤ん坊に見せることができるけど、それはただの空っぽの箱にすぎない。赤ん坊は未来や希望の象徴だけど、その希望はあなた方の側にあるべきだ、ということをこの作品で伝えたいと言っていました。この「バベルタワー」は、翌年、クロフタの劇団DRAKにより本編がつくられましたが、そこに参加したのは27人のワークショップ参加者の中で私だけでした。ツアーもやりましたし、プラハで約2カ月のロングラン上演もしました。

──バベルタワーのようなワークショップは、当時のヨーロッパでも画期的なものだったのですか?
 クロフタはこうしたワークショップをいろいろなところでやっていたと思います。ただ、私が参加したものは、15カ国から参加していたので、規模は大きかったのではないでしょうか。

──チェコの人形劇は世界的にも有名ですし、その中でもDRAKの存在は非常に大きいと思います。DRUKについてもう少し詳しく説明していただけますか。
 チェコには、政令指定都市のような大きな町には必ず公立の人形劇場があります。DRAK(チェコ語でドラゴンの意味)はフラデツ・クラーロヴェー市にある公立人形劇場で、50年ぐらいの歴史があります。
 60年代に、ヤナ・ドラジュヂャーコヴァーという女性プロデューサーが、クロフタ、美術家のペトル・マターセク、音楽家のイジー・ビショフリードをDRAKに引っ張ってきました。3人とも天才で、彼女の元で60年代〜90年代にこの3人が活躍し、チェコの人形劇は大きく変わりました。
 同じ時期にポーランドでも人形劇が改革されますが、それは社会主義がダメになっていった時代で、なんとかして観客を繋ぎとめないと劇場が潰れてしまうという危機感に端を発したものでした。それで、人形のほかに人間も出てくる芝居をつくり始めます。DRAKは90年代までその人形劇革新運動のトップランナーでした。今3人は60歳代半ばになり、マターセクは7、8年前にDRAKを辞めたし、世代交代が進んでいるので状況は違っていますが、それまでの30年間はおそらく世界のトップだったと思います。
 DRAKでは人間と人形の関わりでさまざまな作品がつくられています。例えば、イスラエルとのプロジェクトでは、ユダヤ収容所に向かう列車の中で人間が人形になってしまう作品とか……。社会主義時代には禁じられていたビートルズのナンバーをオムニバスにした作品もありました。『Nowhere Man』という曲は、真実を見ることもできない、話すことも聞くこともできない、誰かに似てないか、僕らに似てないか、というような歌詞だったと思いますが、それを歌いながら、人体模型をひとつひとつ解剖していくんです。「見えない」というところで目を取り、「話すことができない」というところで食道から内臓まで取ってボーンとバケツに放り込む。そうして骨だけになった人体模型を人形として動かすんです。それがすごく可笑しくて悲しくてグロテスクで。『Ob-La-Di, Ob-La-Da』では、男の子と女の子が、カンニングペーパーをクシャクシャにした人形でいちゃついて、それを燃やしちゃうとか……。

──沢さんはDRAKに入団されたのですか。
 DRAKとはコラボレーションはたくさんやっていますが、入団したわけではありません。私は、92年にクロフタが指導していたチェコ国立芸術アカデミーの演劇・人形劇学部に入学しました。正式名称はとても長くて「オルタナティブ、または形象と人形に関する表現芸術学科」と言うのですが、クロフタが命名したものです。一時期、「オルタナティブ」という言葉がヨーロッパを席巻していて、二者択一というか、要するに王道があるとすれば必ず別の道があって、そのどちらも自由なんだという思いを込められている。そういう芝居もできれば人形も遣える、歌も歌えれば踊りもできる、仮面劇もできればアクロバットもできる役者を育てるという学部のデザイン学科に入学しました。そこで指導教官になったのがマターセクでした。
 
BACK
| 1 | 2 | 3 | 4 |
NEXT
TOP