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Artist Interview
The continuing expansion of the world of Saburo Teshigawara, an artist who has already left a big footprint in contemporary dance
世界のコンテンポラリーダンスを変えた 勅使川原の広がり続ける世界とは?
『LUMINOUS』(2001年)
撮影:Dominik Mentzos
LUMINOUS
──勅使川原さんは、1995年からイギリスで教育プロジェクト「S.T.E.P.(Saburo Teshigawara Education Project)」にも取り組まれています。最近、日本でもダンスの教育活動に注目が集まっていますが、その先駆けでもあります。
 ロンドン・インターナショナル・フェスティバル・オブ・シアター(LIFT)というところにさまざまなエデュケーション・プロジェクトがあり、そのなかではじめてこうしたプロジェクトに関わりました。最初にやったのが身障者の子どもたちとのプロジェクトで、次にロンドンの3つの区域の中高生とのプロジェクトをやり、ICA(Institute of Contemporary Arts)のスペースの壁も床も強烈な色に全部塗り替えて『Invisible Room』という公演をやりました。
 僕はダンスをすることによって何かを成し遂げることを彼らに知ってもらいたかった。そして、彼らがやりたいことに基づいて作品をつくってみたかった。ダンスすることは彼らにとってはそんなに必要ではなかったかもれしれないですが、集まって練習するうちにしだいに変わってきました。自殺願望をもった子もいたし、楽屋裏で殴り合いの喧嘩になることもあった。思春期の一番難しい世代で、家庭環境の悪い子どもたちもいて、彼らの個人的な問題と付き合わざるをえなかったのは、僕にとっても興味深いことでした。
 その次に関わったのが、盲目の人たちです。ロンドンのザ・プレイス(The Place)の企画でしたが、そのプロジェクトに盲目の人が参加していたんです。そこで、時間をかけてワークショップを行い、僕が行けない時はビデオを渡して指示をして『Flower Eyes』をつくりました。これはヘルシンキとの交流プロジェクトだったので、ヘルシンキのダンサー志望の人たちも加わっていました。

──そこで『LUMINOUS』(2000年)に出演した盲目の青年、スチュワート・ジャクソンに出会ったんですね。
 そうです。彼のケアテーカーをしている女性が、ダンスを経験させたほうがよいと考えて、連れて来ました。盲目の人にとって、見えないけど何かを見に行く=感じに行く、しかも誰かと一緒に何かをやるということはとても大事なことなんです。
 彼のほかにもうひとり、弱視の、盲学校の先生がいました。身体の各部分と呼吸との関係をワークショップでやりますが、スチュワートは男の子だからジャンプや回転といった強い表現、強い音楽に反応する。一方、彼女の動きは、とても滑らかで美しかった。ワークショップでそれぞれの個性がより強調され、純度の高さを感じました。僕は、彼らの姿を見て、僕らは僕らの能力をもっと高めることができるし、自分がもっているものをもっと生き生きと使うことができると強く感じました。
 スチュワートは、生来の全盲で全く見えないし、ひとりでは何もできないので、躊躇する気持ちとか、恐怖心が強い。だから日常生活では自分を押さえ込んでしまうことが多いのですが、それが取り払われるととても強い表現になる。彼がもっている、潜在的な、精神的な強さがストレートに出るんです。
2001年には、彼とイギリスの俳優エヴロイ・ディアに参加してらった『LUMINOUS』をシアタコクーンで発表し、その後、世界を回りました。今では、スチュワートは自分の作品をつくるまでになっています。

──それはどのような作品ですか?
 『Angel's Journey』というタイトルで、とても素晴らしい作品でした。テーマは彼が好きなエンジェル。ときどき、やっぱり激しい動きが出てくるのですが、彼にとっての激しさというのは、求めるものに近づく表現なんだと思います。彼は目が見えないだけではなくて、いわゆる学習困難児というか、記憶を順番に辿ることができない問題もありました。記憶はあるけど構築されていないので、話が支離滅裂になる。最初は、作品の稽古をしている時も、順番がわからなくなるし、言葉もほとんど出てこなかったんです。ところが身体運動をしていくうちに、次第にものごとが組み立てられるようになっていった。身体的な動作を記憶することが、言語情報を組み立てるきっかけになり、言葉を喋れるようになってきたんです。これには驚いたし、身体運動の可能性について改めて考えましたね。

──これまでとは全く違う感受性の人たちと作業をするのは、勅使川原さんの表現をやってもらうことではなく、相手の感受性を引き出して形にするということですか。
 そうです。僕が教育者じゃないと言っているのはそういうことです。他人の身体と関わる面白さ、僕の知らないことを発見する面白さがある。彼らに障害があるからということではなく、隠れていたことを引き出す、掘り下げていく。僕にとっては、自分の中を知りたいということと、他人を知るということは何か似ているんですね。
 だから、『空気のダンス』で中高生に対して僕が伝えたいのは、「自分自身で何を発見したいと思っているんだろう?」という疑問形。彼らの中にあることは彼らにとって大事であることは確かだし、何かをもっているに決まっている。ただ、彼らがどのようにそれを出せばいいのかわからないのなら、「こうしてみたら?」ということは伝えられる。技術はそのためにあるのだから、本当の基礎的な動きがどうやって出てくるのかだけ、そのことばかりをやるんです。
むしろ、中に何があるのか?ということは、大学生もそうですが、急いで表現させようとはしません。

──少し遡ってお話を伺いたいのですが、勅使川原さんがアーティストとして活動を始めた頃はどのようなことをされていたのですか。
 僕のキャリアの中ではバレエを習っていた期間が一番長いですね。その後、イベントに出たり、渋谷の「アンテナ21」というスペースで、3カ月に一度、ビデオのアーティストやロック系でノイズをやっている人とかと作品をつくったりしていました。1984年頃のことです。

──当時は「コンテンポラリーダンス」という言葉も存在しませんでしたが、何と称していましたか?
 「ムービング・ワーク」と言っていました。モダンダンスという言葉は嫌いでしたし、舞踏は違うと思っていたので。演劇も好きで、工場を劇場にした本当に小さな旧真空鑑劇場というところに出入りしていました。そこの裸電球が灯った土間で踊ったのが、僕の初舞台だったかもしれない。

──勅使川原さんが「僕の身体には内臓はない」とインタビューで答えていたのが印象に残っています。それは舞踏が提示した身体観でもなく、クラシックバレエやモダンダンスの身体観でもなかった。
 「肉体的」という言葉はいまだに嫌いです。当時は、自分の身体を発見し、それを表現にしていきたいというのでとにかく必死でした。「空気」「物質」「非物質」といった言葉を自分の身体で感じて表現していきたかった。僕にとっては「空気」という言葉にも、ある種の虚しさというか、何かと決裂する感覚がありました。なので、音楽も当然ノイズに向かい、スティーヴ・ライヒのようなポストモダンと言われているミニマルな発想ではなくて、「演奏していない音が音楽だ」と考えていました。

──それが、オリジナルな表現のために音楽も照明も美術も、全部自分でプランする勅使川原さんの個性に繋がっていった。
 僕のような感覚をもつ人は、舞台関係者やダンス関係者にはいなかったんです。むしろ映画やノイズをやっていた人のほうが自分の感覚に近かったかもしれない。僕はずっと、先生なんかいらない、僕は誰からも教わりたくない、と思っていた。けれども、実は何かは習っているし、身に付いている。なぜこんなことをやらなければいけないのか、絶対に自分の身体には合わないと思いながら、バレエをやっていた。その違和感から出発しています。とても重要な経験でした。
 
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