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Artist Interview
The continuing expansion of the world of Saburo Teshigawara, an artist who has already left a big footprint in contemporary dance
世界のコンテンポラリーダンスを変えた 勅使川原の広がり続ける世界とは?
『ガラスノ牙』
撮影:鹿摩隆司/新国立劇場/2006年
ガラスノ牙
──決まった形の中で表現することに収まりきらず、名付けがたいものを抱えていた勅使川原さんは、1986年、『風の尖端』という作品でバニョレ国際振付コンクールに参加し、世界から注目されます。あの作品は、崩れては起き上がるという動きをモチーフにしていて、衝撃的でした。というのも、バランスをとることが課題のダンスでは、クラシックにしてもモダンにしても、転んではいけなかった。私は、崩れては起き上がる動きを見て、それまで見たことがなかったもの、ダンスの新しい言語のようなものを感じました。あの動きはどのように生まれたのですか?
 やはり、宮田佳との出会いが大きかったと思います。僕らは、1つの動作を何時間もかけてやるようなワークショップを延々続けていました。宮田はダンスが嫌いで、その経験もない。でも身体表現をしたいという強い思いがある。けど技術がゼロで動けない。その時、身体を空っぽにして、「身体の中で感じる」ということを、動く前にやってみようと思った。身体の中でいろいろなものが動く。「呼吸」だとか、「空気の流れ」だとか。自分たちが感覚的に広がるために、「ある」と思わないで「ない」ところから出発しよう、そう思ったのが原点です。
 人は、元々自分が何かをもっていると思いたいし、外側からの視点や外圧から自分を守ろうとする自己防衛本能があります。だけど、表現者というのは、日常生活で当たり前である自己防衛本能をどうすればもたないでいられるかが勝負になる。それには自分がまず空っぽになり、そこから出発する。
 「すると、空っぽの身体は崩れてしまうでしょう?」そう言うと、宮田はすぐに感覚的に理解して、ファーっとなって、足からじゃなく、頭から崩れていくんです。それが何とも美しい。彼女の身体は実になめらかに美しく、まるで巨大なビルがスローモーションで崩れて、煙がわき起こるような質感が出る。それで僕は、「これは動きではなくて質感だ」と思ったんです。
 僕にとって、宮田はあらゆる想像力の源であり、僕らの表現の技術は、宮田と僕によって、宮田の身体を通してできたものです。「質感」という言葉や「呼吸」「空気」、それから「倒れる」「崩れる」、あるいは急に「凝固する」、それがまた「溶ける」、あるいは「粉末」になるように、「気体」になるように空間に溶けていく……。それは「動き」ではない。まず感覚が変わり、そうすると質感が変わった身体になって、それが動きになる。そしてある身体の線が出てくる。宮田が崩れたとき、そういうプロセスが…まあその過程というか旅というか、それがきちっと見えて、美しいと思ったんです。
 いわゆるモダンダンスやバレエは、ごく当たり前に動きます。ステップが次から次へと上手に出るように練習し、そのうちに、何も考えなくても、感覚をもたなくても動けるようになる。機械みたいに。でも僕は、それに疑問をもっています。動いちゃえば動けるのなら、何のために稽古の時間があるのか?
 作品を発表することが一番重要なら、作品の稽古だけをすればいい。ヨーロッパでもレパートリーの練習ばかりしているグループが多いですが、どういうふうに情報をもらうと動けるかということばかりが頭の中にこびりついているので、身体がそういう身体にしかなっていない。日本でモダンをやっていた人たちは、カニンガムかマーサ・グラハムの生徒でみんな同じことをやっていたし、80年代の後半、フランスのコンテンポラリーダンスを観たときにも、全部形でしかない、ああ、みんな同じだとわかってしまった。
 つまり、音に合わせる、建築に合わせる、舞台状況に合わせる、作曲家に合わせる…そういうカップリングでつくっている限り、やっぱりそれはある形式になっていく。形式になっていくことを僕は否定しませんし、好き嫌いの問題かもしれないけども、オリジナルとして成り立つためには、大量生産のようなダンスは必要ないでしょう? (ダンスは)情報を伝えるのではなくて、生きているか生きていないか、ということだ。80年代に宮田と会った時にそう感じて、僕は形をやりたくないと思いました。
 そういう稽古をいっぱいしている時に、バニョレに参加することを決めました。参加条件が3人以上のグループだったので、初めてグループ作品をつくった。それで上演してみたら、何か伝わった感じがしたんです。

──伝わった以上に、熱く迎え入れられましたね。
 反響はものすごかった。「振付コンクール」だったので、即興が多すぎるという声はありましたが。でも、今では、振り付けられている、いないというコレオグラフについての考え方も、その捉え方も大きく変化している。僕があの時に壊したのかもしれません。

──バニョレの後、1位になったカンパニーよりも勅使川原さんのほうにいくつもオファーがきた。それで、ボルドーのシグマ・フェスティバル(Le Festival Sigma De Bordeaux)で『星座』という作品を上演しました。私が、その時に軽くショックを受けたのは、舞台を半分に仕切ってしまったことです。舞台というのは全体を思い切り使うものだと思い込んでいたら、勅使川原さんはそれをブリキの塀で仕切り、ブリキという質感の中で踊った。
 そうでしたね。鉄の箱をみんなで叩きながら行進したり、わけのわかんないことをやりました。
 バニョレに出たことで、7〜8カ月先のスケジュールがあっという間に埋まってしまった。新作、新作で、帰ったらすぐ次の作品を準備するという状態でした。ボルドーの後、池袋西武のスタジオ200でやり、その後ウィーンにワークショップの講師として行きましたが、あれが実はすごく大きな経験でした。受講生が世界中から来ていて、1カ月毎日朝から夕方までみっちりワークショップをする。そのなかで、自分が何を考えているのか、何を言いたいのか、僕にとっての表現というものが明確になりました。

──その後、パリのポンピドゥー・センターでやり、青山のスパイラルホールで公演をしました。そこでは針金やガラスなど、質感として硬質なものを舞台装置として使いました。
 この頃ようやくグループとしての方向性が定まってきたのではという気がします。日本とヨーロッパで公演をするようになり、ある時期からヨーロッパでの上演回数のほうが多くなっていった。最初はフランスを拠点にしていましたが、僕はフランスのコンテンポラリーダンスが好きじゃなかったのと、フランクフルトのテアター・アム・トゥルムで公演したのが決定的になって、それからはフランクフルトを拠点にしました。

──ちょうどヨーロッパのフェスティバルに活気があり、ディレクターたちの新作制作意欲も高くて、非常に良い時代でしたね。個性的なフェスティバルがたくさんありました。
 劇場もきちんとした考え方をもっていて、ディレクターもしっかりしていました。最初にTATに呼ばれた時、彼らが言ったのは、短い付き合い方はしない、僕らが呼ぶと決めたら6、7年、最低でもそのぐらいは続けてお願いする。つまみ食いみたいなことはしたくないと。素晴らしいと思いましたね。それなら安心して挑戦できる、力をぶつけられると思いました。

──勅使川原さんはパリ・オペラ座付属バレエ団の振付を依頼されるなど、その方法論は普遍的なものとしてヨーロッパで認識されているように思います。
 空気のこと、重力と浮力の感覚、身体を崩すとか組み立てるとかいうことを、僕らは延々と研究していますが、そうしたものの普遍性を感じてくれているのかなと思っています。その普遍的なものを、実際の身体の使い方として、常に発見し、技術として身につけ、継続していくことが必要なのですが、海外でやることによって自分たちのやっていることが間違いないことをより強く感じることができました。
 カナダの「フェスティバル・インターナショナル・ド・ヌーベルダンス・モントリオール」でも、シャイヨー劇場でも、観客のはっきりした反応がありました。面白かったのは、シャイヨーの人が「ここで何年も働いているけども、これが一番自分に感じました」と言ったこと。ダンスとして今これが良いのか? ということではなくて、自分が「感じた」ことが基準になる。それが、僕が最初から目指している、ダンスという表現にある「力」です。
 
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