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Artist Interview
Meet set creator Yuichiro Kanai, 4th-generation president of a Kabuki set production company and set designer for contemporary theater and new Kabuki
歌舞伎大道具会社四代目社長に就任 現代劇と新作歌舞伎を股にかける舞台美術家金井勇一郎
──それで金井大道具に戻り、そこからいろいろな活動を始められるわけですが、まずは金井大道具について教えてください。
 金井大道具は、大正13年に、震災から復興して開場した市村座の劇場付きの大道具会社として出発しました。その後、明治座、新橋演舞場などで行われる歌舞伎、新派、新国劇、松竹新喜劇といった伝統的な舞台装置を用いる大道具会社として基盤をつくりました。
 今から50年ぐらい前、日本でテレビ局が開局し始めたのと時を同じくして、父親の代からイベントやテレビの大道具の仕事をやるようになりました。もともと大道具という仕事は劇場にしかありませんでしたから、テレビ局が開局するときに、俳優座さんや東宝舞台さんなど、劇場の大道具さんが誘われてテレビのセットの仕事をやるようになったわけです。今もうちはTBSの仕事を多く手掛けています。
 組織としては、国立劇場、新橋演舞場、三越劇場などの劇場関係の大道具製作を手がける劇場部門、ファッションショー、展示会、テーマパーク、現代演劇などのイベント部門と、テレビ関係の3本柱です。今はそれぞれの部門にデザイナーがいます。イベント部門については会社の売上の50%のシェアがあり、例えば蜷川さんの新作歌舞伎『NINAGAWA 十二夜』の仕事もこの部門に含まれます。歌舞伎や伝統芸能とはつくり方も表現方法も違うので、現代演劇は劇場部門と分けて、こちらで担当しています。父が存命の頃は、父が劇場部門のデザイナー、私がイベント部門のデザイナーという役割分担でした。歌舞伎オンリーの父と同じように、もし私も歌舞伎を専門にしていたら、会社のもうひとつの柱の方が疎かになってしまい、企業として生き残っていけなかったかもしれません。ですから、私は、歌舞伎に関しては海外公演を専ら担当し、これまで15回ぐらい同行しました。

──老舗の大道具会社といえども、伝統的な舞台美術だけではなく、テレビも現代演劇もやって新しいものを取り入れていかなければ生き残れなかったわけですね。
 今でこそ歌舞伎もお客さんがたくさん入っていますが、厳しい時代もありましたから。流行すたりがあって、何年か周期で変わっていきますし、同じことばかりやっていたのでは共倒れになってしまいます。

──勇一郎さんご自身は、そこで具体的にどういう仕事をされてきたのですか。
 アメリカから帰国して最初に手がけた大きな舞台が市川猿之助さんの「スーパー歌舞伎」(三代目市川猿之助が、オペラ、京劇、小劇場など他の演劇スタイルを積極的に取り入れ自ら演出を手がけた現代版歌舞伎。1986年の『ヤマトタケル』以来シリーズ9作品)シリーズ第3作『オグリ』(1991年)です。猿之助さんには若い人を育てようという考えがあり、私はまだ30代そこそこでしたが、装置製作を任されました。
 猿之助さんの「スーパー歌舞伎」の美術コンセプトは、とにかくお客さんが驚くものにしたいということでした。観客の目が最も大事ですから、まずはビジュアルありきだと。ですから『オグリ』の時は、それまで歌舞伎では使ったことのない「ミラーでやりたい」とおっしゃって、そのアイデアをもとに話し合いました。仕掛けについては、猿之助さんがこれまでやった舞台を基準に、さまざまなリクエストがありました。
 「スーパー歌舞伎」では、上演の1年前に台本の第1稿が出来上がります。これは通常考えられないことで、その分、時間を掛けてじっくりディテールに当たっていくことができました。翌年の3月公演のために、8月には道具やプランが出来ていて、そこから本番の稽古に入ります。実寸のセットを入れて稽古をしますから、役者さんもじっくり取り組むことができる。プロダクションの予算規模も今からは考えられないほど大きいものでした。

──バブルの時代だからできたとはいえ、それは演劇の正しい取り組み方ですね。
 そうです。ですから私はアメリカで学んだことを活かし、大掛かりな装置製作をじっくりやらせていただきました。「スーパー歌舞伎」で、実に理想的なチームプレイと手順を経験しました。普通の歌舞伎公演に比べて破格の予算があったので、ものすごい量の本水や、宙乗り、特殊効果など、「これまでに見たことのない舞台」というにふさわしいものでした。衣裳も豪華でしたし。

──「スーパー歌舞伎」の表現の手法は、実際の歌舞伎の舞台とはどこが違うのでしょうか。
 演技法、音楽が歌舞伎の伝統という以外は、歌舞伎でなく現代演劇と言えますね。猿之助さんは、歌舞伎役者として自分がもし江戸時代に生きていたらこういうことをやるだろうという発想で取り組まれていました。江戸時代の人も当時は常に新しいことをやっていたわけですから、技術が進化した今だったらミラーやムービングライトを使ってもおかしくない。意識、思想は江戸時代の歌舞伎と同じだから、これは歌舞伎だ──。当時、歌舞伎界やそれ以外からも「あれは歌舞伎ではない」と批判があったそうですが、猿之助さんの信念は揺るぎないものがありました。そんな志の高い歌舞伎役者、演出家である猿之助さんとの出会いは本当に大きい。彼は私の育ての父です。
 余談ですが、なぜブロードウェイの演劇があれほど進化したのかというと、ほとんどの劇場にはソデがないからだと私は思っています。ソデがない中で、みんな舞台美術や装置を工夫する。広ければ一概にいい劇場だということではなくて、そんな制約のなかでアイデアが生まれることが進歩なんです。「スーパー歌舞伎」も同じで、それほど広くない新橋演舞場で、試行錯誤を繰り返しながら、みんなでいろいろと工夫し合った現場でした。こういう新しい取り組みで歌舞伎界に風穴をあけた市川猿之助さんの功績は、とても大きなものです。今、勘三郎さんや菊之助さんたちが積極的に新しい試みをされているのは、「スーパー歌舞伎」があったればこそだと思います。

──当時はお客さんもたくさん入っていたから予算もかけられたし、バブルは問題があった時代ですが、逆に言うと失敗が許された貴重な時代でもあったわけですね。猿之助さんとの作業を通じて、舞台美術ということについて特に学ばれたことがありますか。
 もともと、舞台美術というのはただ美しいデザインをすればいいいというわけではなく、演出家とのコミュニケーション、大道具同士のコミュニケーション、照明さんや他のスタッフとのコミュニケーションなど、相手との関わり方が重要です。「スーパー歌舞伎」という巨大な組織、プロダクションのなかで、コミュニケーションなくしては舞台装置も、デザインも成立しないことを身をもって学びました。
 さらに、舞台は実際にお客さんに見ていただいて初めて成立するわけですから、決して道具帳の上だけの作業ではない。歌舞伎の批判になってしまうけれど、道具帳は精巧なスケッチとしてあるだけなのに、今でも歌舞伎の大道具の打ち合わせは道具帳だけでやっています。「スーパー歌舞伎」では、現代演劇では当たり前に用いられている装置の模型をつくって話をしました。猿之助さんも当時初めて模型を見たそうですが、やはりそこからあれこれアイデアが生まれてくる。「これからは(歌舞伎でも)模型だね」とよくおっしゃっていました。

──色をつけるかどうかは別として、少なくともホワイト模型は必ずつくります。本当に今でも歌舞伎は道具帳だけでつくっているのですか。
 そうです。道具帳だけでは、どっちが前か後ろか位置関係もわからない。だから、歌舞伎の現場では結構もめたりしています。昔の道具帳は大道具をつくるための画で、舞台美術ではないんですね。今でいう施工図というか。大道具さんは、道具帳だけでアタリをとって、一つ一つ長さの見当をつけながら装置をつくっていたわけですが、道具帳だけではどれが立体でどれが半丸かも分からない。道具帳をつけている側と製作する側に共通認識があったからできたことです。
 
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