The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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Artist Interview
A geeky world born of unique collaborations The dance performance of Yoko Higashino
異色コラボが生み出すgeekな世界 東野祥子のダンスパフォーマンス
──BABY-Qというカンパニー名の由来は?
 “バビロン・クエスト”という意味なんです。悪徳と美徳が同居するバビロニア王国の首都バビロンに住む人間は美しい部分とドロドロした部分をもっており、そういったものを同じ感覚で舞台に上げて、自分たちの表現の中で人間自体を掘り下げていって、何が心に響くのかを探していこうというイメージです。パッと見、かわいらしい子供服ブランドみたいな名前ですけど(笑)。名前を付けた時は「良い名前だ!」って思っていたのに、東京に来たら「名前変えたら?」と散々言われました(笑)。「海外じゃぜったいウケないよ」って(笑)。

──BABY-Qの作品づくりに関わる人々はダンサーではない人が多いですよね。
 ダンサーはあまり使いたくないと思っています。変にダンスが上手い人って個性がないから逆に面白くなかったりするでしょ。器用で、言ったことを忠実にやってくれるけど味がないというか、薄いというか。私自身の感覚だと、ダンスそのものよりも人自身がもっている魅力というものを、作品のイメージの中で舞台上にそのままもっていきたい。ダンスだけを観たい人には「BABY-Qって東野さん以外は踊れないんだよね?」ってよく言われますが、そうじゃない面白さを私は求めていました。最初の頃は特に。最近になって踊りの部分が増えてきて徐々に変わってきていますが、それにしてもやはりキャラクターの面白い人たちの方が絶対、踊りは面白い。はみ出てもらった方が面白い。

──そのような発想は、ダンス業界への反発からくるものなのですか?
 いや、自分がやりたいことがそうだっただけです。だから、受け皿を自分でつくっていくしかなかった。もちろん反発はしていたし、既存のシーンの中で安泰して公演をやっていくということに重きを置いていなかったから、できる場所を自分たちで探していこうという気持ちでした。教会でやった後、伊丹アイホールに「貸してください!」っていきなり直談判しに行ったこともあります。ほかには、「ロクソドンタ」という天王寺にある小さなハコだったり、「MUKOGAWA DANCE ON THE BANKS」という川沿いの気持ちのいい芝生の上でやる音楽とダンスのイベントなどでやっていました。

──現在は活動の拠点を東京・高円寺に移したBABY-Qですが、大阪時代の活動についてもう少し詳しくお聞きしたく思います。その頃のBABY-Qはどういう人たちと関わっていたのでしょうか?
 最初、BABY-Qを3人でやり始めた時に「デストロイド・ロボット」と一緒に作品の制作をしました。プリティーヘイトマシーンで知り合ったんですが、もうちょっと、ダンス寄りの作品でもやってみないかと誘いました。ダンサーには私が女優とか役者さんをスカウトしてお願いしました。「BusRatch」をやっているタカヒロ君やシロー・ザ・グッドマンに音楽で参加してもらったり、映像では「BetaLand」というVJチームとか。言ってしまえば、クラブで遊んでた人たちですね。そういう所で出会った面白い人たちを集めました。「やってみない?」って声を掛けたら、みんな面白がってくれて、凄い頑張ってくれた。まだ、ダンス表現でごちゃごちゃしたものがなかったから頃でしたから。

──参加した人たちひとりひとりがアイデアを出して来るのですか?
 そうですね、「白塗りでやってみていいかしら?」とか。「ポールダンスできるから」と言われてそういうシーンができたりとか。「女優だからこそ、ここでこういう風にしてみよう思う」とか。人のキャラクターでシーンができていく。今でも私のつくり方にはそういうところがあります。振り付けをするというよりも、「自分を出して」と言う方が多いですね。
 大阪は狭いから違うジャンルの人が繋がりやすいんです。東京のように音楽、演劇、ダンスとか色んな風に分かれていないしクロスしているから、ジャンル同士が近い。クラブが社交場のようになっていて、面白いことをやっている人たちはみんなそこに遊びに来ていました。
 そうこうしているうちに、自分たちの稽古場が欲しくなってきて、タイミングよく友達が「味園」という廃墟ビルを見つけてくれたんです。友達が1階にクラブをつくるというので、その上にあった鏡張りでバーカウンターのある、夜逃げするまでは水商売が営まれていたであろうという雰囲気の部屋を、ただ鏡張りだったという理由だけで借りた。鏡があるんで、後は天井抜いて、床にリノリウム貼って、それだけでスタジオにしました。DIYです(笑)。

──初めてもつことができた自分たちの場所ですよね。
 そう。しかも私たちがスタジオを使い出してから、レコード屋さんが出来たり、友達がバーやマッサージ屋さんをやり始め、味園というビル自体が盛り上がってきたんです。友達に「カフェやろう」と誘われて、レッスンが終わってから夜に「CafeQ」というお店をやり始めました。そこで色々な人にライブをやってもらっていたのが2003年頃ですね。

──遊び場で知り合った人たちが、自分たちの集まりやすい場所をつくってしまった。
 セッションもよくやっていました。即興音楽と一緒にやったり。「新世界BRIDGE」というライブスペースがあったのですが、そこでやっていたアーティストたちやDJたちが来てくれたりして。「じゃあ次一緒にやってみない」という感じで面白い人との出会いがあった。見たことないもの、聴いたことのない音楽が日常的に溢れていた。大阪が面白かった時代です。
 そういう風に二足の草蛙をやっていたんですが、次第にダンスが忙しくなってきて、もっとダンスをやりたいという方向に気持ちが向いてきた。味園っていう遊び場もある程度つくり上げたという感じだったから、「私が抜けてももう大丈夫かな」と思って。ちょうど東京へ行こうかなと思っていた時に「トヨタコレオグラフィーアワードに出してみないか」というお話をもらった。小さい時のコンクール以来、初めてアワードというものに出してみようと思いました。そうしたら、ガガガっと「ビデオ審査受かった」「え、東京に行かないと」という展開になり、みんなで舞い上がってしまって。でも頑張って行ったらアワードをいただいてしまって、それに後押しされて東京に拠点を移しました。

──どうして大阪から東京に出ようと考えていたのですか?
 「大阪は狭いな」という感覚になっていたというのはあった。ある程度やってしまった感があって、劇場にしてもそうだし、人にしてもある程度知り合えてしまったかな、と。セッションしたいミュージシャンともやり尽くしてしまった、という。今も大阪に住んでいたとしても色々できるとは思うんですが、私自身「踊りたい」という衝動がすごく強い。ダンスというものは生で観てもらわないと伝わらないものですし、東京も一つの通過点かもしれませんが、新天地を求めていたんだと思います。
 大阪でやり続けて「BABY-Q?うんうん、良かったよ」って言われるのは嬉しいですが、批判もちゃんとされたいですし、知らない世界をもっと知りたいという欲望があった。刺激中毒なのかもしれないけど(笑)。石橋を叩いて渡るじゃなくて、着地点もないのに飛んでしまうというか(笑)。だから東京で何をするのか決めていないしスタジオもないのに住む家だけは決めて、口で言うより先に体が勝手に動いてしまった。東京に来た最初の頃は途方に暮れていたんですけどね。それが2005年の春のことです。

──場所を高円寺に選んだのはなぜ?
 友達がいっぱいいたからというのもあったし、やっぱり中央線=出発点みたいな感じがありました(笑)。東京ってシュッとしてないとだめな場所だと思っていたんですが、高円寺は大阪に似ていて行きたい所がどこも近く、気張らなくてもいいし、住みやすい。最初は、バレエスタジオの空き時間を借りようかと思ったんですが高くて、それなら自分たちでつくろうと。スタジオつくるのは、床貼って、鏡貼るだけなので簡単ですから。隣のビルの部屋を借りて、維新派時代の人にも来てもらって、またDIYでつくりました(笑)。
 
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