The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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Artist Interview
A geeky world born of unique collaborations The dance performance of Yoko Higashino
異色コラボが生み出すgeekな世界 東野祥子のダンスパフォーマンス
『GEEEEEK』
娼婦、ゲイ、小人、家畜、前と後ろが逆転し顔のないギーコなど、精神や身体にどこか奇形をもったGEEKな人間たちが、荒廃した闇の世界で危うく暴れ回る。夜行性の野生動物たちが闇の中でときに凶暴に、ときに性の奴隷となるがごとく、虚構ではない真の愛を求めてタブーの世界を繰り広げる。2006年初演。
東野祥子ソロダンス『VACUUM ZONE』
ペットボトルや工場から出る鉄くずや部品などの廃材を集めてオブジェを構築する美術家OLEO、元BABY-Qで音楽家の豊田奈千甫、VJのROKAPENISらと共同創作した東野祥子のソロダンス作品。舞台に掘られた暗黒の空洞、それがヴァキュームゾーンなのか。穴の上に吊るされた幾何学的廃棄物オブジェは轟音のたびに揺れ動き、ゴミたちとともにすべてが吸い込まれていく。
Photo: Banri
VACUUM ZONE
VACUUM ZONE
VACUUM ZONE
VACUUM ZONE
──そういった、自分たちの場所は自分たちでつくっていこうとする意識は、BABY-Qの作品の中でも其処彼処に見受けられますね。では、参加メンバーが一丸となってつくり上げる作品の中で、東野さんがもつ世界観やアイデアはどのように現れてくるのでしょうか? 東野さんの作品の世界観やその制作過程についてお伺いしたいと思います。BABY-Qや東野さんのソロ作品の中には、舞台上に人形や機械といった無機物が、まるで役割を与えられた役者のように出演していますが、ここから全ての作品中に通底する美意識が感じることができます。意図するものは何なのでしょう?
 どうしても舞台に上げてしまう。鉄、硬質なもの、生きていないもの、しかもちょっと壊れていたり朽ちていたり、しかもそれらは必ず擬人化されていたりする。当初は無意識で選んでいましたが、なぜ美術として人間ではないものを選ぶのかということについて作品をつくっている時に考えたことがあるのですが、自分の影響を受けたものの中に寺山修司さんであったり、「人間機械論」というシュルレアリスムの中の一つの理論で「人は機械にもなれるし、機械は人間になれる」といったものがあるからなのだと思います。
 私は人間ですが、自分自身の踊りの中には機械的なイメージや動きがある。言ってしまえば、振り付けされる身体というのはマシーンだったりするわけです。よく出来た精巧な、ちょっとした角度でもつくることができるマシーン。それで人に見立てた機械に心の通じ合えるものとして舞台上にいてほしいというか。それと踊りで交流できるということに惹かれているんじゃないかと思います。そこからは鉄が錆びていった時間の経過も見て取れるし、朽ちていく儚さも感じられる。ある意味グロテスクなビジュアルで優雅なものではないんですが、そこにある美意識を見せていきたい。それを私自身も探しているし、本能的に自分の踊りの中で表現の一部にしてしまう。これが自分のやりたい世界観なのかな、と気付いた作品が『←Z←・ Z 滑稽な独身者機械』。マルセル・デュシャンの作品に「独身者機械」というのがありますが、機械に関してはその感覚に凄く影響を受けている。愛おしくなっちゃう。

──21世紀の現在において、シュルレアリスムは美術史の中である意味クラシックな概念ですよね。そういった方法論に強く惹かれるというご自身の意識の働きについては、突き詰めて考えたことはありますか?
 出て来た時代は古くっても、それをなぞっているつもりは全然ない。私は今を生きているし、そこに捕われているわけではないけど、自分の中にその感覚が絶対にある。機械のようなものと生っぽい「性」。私が女であるという理由であったり、流れ出る血であったり、そういった女が持っているものと対比させているのかもしれない……。自分の中にある血なまぐさい物が、ある意味母性であったり、子どもが生まれてくるといったところに繋がってはいると思います。

──生産性のある機械と女性性を対比させることで見えてくる世界があるということでしょうか?ソロ新作『VACUUM ZONE』にはそういった女性性が強く打ち出されているように感じました。何も無くなった真空状態の中で東野祥子という一女性に何が出来るか、といった覚悟を垣間みました。
 私の作品の中で女性性というのは、別にエロスという意味で武器として使っているわけではなくて、必然というか、「隠さないといけないもの」ではないと思っているということ。逆にそれを露見させることで、日本の社会の酷さというか、女性性が欲望の対象でしかないというか、そういうことを考えてもらえたりすると嬉しいなと思う。だから、ダンサーに裸に近い格好をしてもらったり、実際裸になってもらったり、そういうものはやっぱり出て来てしまう。欲望がないと生きていけないから。自分が女であるということが、いつもは無意識だけど、作品をつくっていく中で勝手に出て来てしまう。計算してやっているわけではないんですが。

──BABY-Qの作品は、多様な個性をもつ参加メンバーたちの意見を聞いて、東野さんがアレンジャーに徹しながらつくられているという印象を受けます。その、制作の方法と過程についてお聞かせいただけますか?
 1999年にピナ・バウシュの作品『ビクトール』を観て衝撃を受けました。“人”なんですよね。「あの人好き」という風にダンサーの顔を覚えてしまう。1回観ただけで人の顔を覚えられるなんてあまりないのだけれど、それぞれのキャラクターを好きになれてしまう感覚が面白いなと思えた。一人でバスに乗って東京まで来て観たんですが、感動して泣いて、泣いて……。人自身がもつ力を掘り下げたものだったのだと思います。単純なことしかやっていないんだけれども、それが意図されたもので、そこに意味があるということに気付くと凄く面白い。寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」からの影響もあったと思いますが、これを観たことでBABY-Qをつくってみようという気持ちの動きに繋がっていった。
 私の作品はいちいち主題が大きいというか、大きな世界観を言いたい派?(笑) だから、最初に作品をつくろうと思ったら、タイトルを最初に考える。一番言いたいことを伝えるために、後で味をつけられるような、キーワードを必死に探す。
 例えばBABY-Qの作品『GEEEEEK』は東京でつくった最初の作品ですが、「GEEK」という奇形やオタクを意味する言葉にEを3つ足して「ギィーク!」と叫んでいるような、なんとかしてそこを抜け出したいと思っている感じにしました。「GEEEEEK!」という言葉から、自分たちの環境、感覚、経験したこと、メディアの情報というものを発想させたかった。
 その前の作品『ALARM!』は警告という意味ですが、「もう危険だよ。もう鳴り響いているからどうしよう。あなたたちはどうする?」というイメージです。『VACUUM ZONE』は、世の中はほとんどゴミで、それが全部吸い込まれてしまった後に何か大事なものが残るんじゃないか、それを探してみたいというイメージ。そういったイメージがまずできて、それから音、映像、美術、フライヤーのビジュアルなどを同時進行させていく。だから振り付けが先にあるわけでは絶対ない。それが一番最後なんです。
 誰とこの世界をつくりたいかと考える時に、自分がやってみたい人や同じ世界観を共有している人に、映像だったらROKAPENISに相談しに行く。「こういうタイトルにするんだけど、何かイメージある?」と。「私はこういう風に踊るシーンをつくりたいんだけど、何かアイデアある?」と、まず世界を提示し、帰って来たものをまた私が加工するというやりとりを結構します。ガチガチに「こうやってして欲しい」というのはあまりなくて、信用している人と一緒にやっている感じです。
 それはダンサーにしてもそうで、振り付けをする部分はもちろんあるけど、シーンが出てくるのはダンサー自体からというのが多い。普段から即興のワークショップでダンサーを鍛えているんですが、色んな方法を使って自分の中に何があるのか掘り下げさせ、そこから踊りがどのように出てくるのかを体験させる作業をしている。それをよく見ているとダンサー自体の資質がわかってきて、やはり上手い子は同じような動きばっかりしてしまい面白くない。下手糞だけど、頑張って何かを出してくる子の方が面白い。
 そういう風にあんまり君主的ではないつくり方をしています。最終的には私が全部決めるんですが、共同作業という感じです。音に関しても「こういうシーンつくりたいんだけど」と言葉でまず提示し、帰って来た音に対してさらにオーダーをして加工してもらう。映像に関しても同様のやり取りをしていく中で一本の作品となり、最終的に自分の踊りが出来ていく。一番自分が最後までほったらかしというか(笑)。いつもゲネ直前のギリギリまでああだこうだ言っています。
 私は外側を固めてしまいたい人なんでしょうね。やいのやいの言いたい人。踊っているだけだと満足しない。演出するという意味では、照明にしても音量にしても細かいことが凄く大事だと思う。周りが固まってからやっと成り立たせることで、自分に関しては振り付けに縛られることなく自由でいられる。

──『VACUUM ZONE』に限っていえば、BABY-Qの作品にも通底する寓意的な美術装置が舞台に並べられていて、それらが穴の中に吸い込まれて消えて、東野祥子という一個人が残る。その演出方法が本当にすごいなと思いました。
 そう思ってもらえたらすごく嬉しいです。一人残ることの怖さという感覚があって、でも自分自身でいられるということが大事というか、そうでないと自分は何処にもいないわけだから。それまでは自分自身を色んなもので飾っているんですが、それらがはぎ取られた後の何もない状況で私が踊れるということ。いるということ。生きているということ。ソロ作品をつくるのは本当に大変で、悩みながらたくさんの振り付けを考え、でも全部やめるという試行錯誤を繰り返しました。
 構想自体は1年前からあって、よく似た状況でやったことが一度ありました。大阪の地下鉄の工事現場でやった作品なのですが、ダンス以外は全て即興で、ほとんどノリ打ちでやったような公演でした。上からどんどんゴミや粉塵が降ってくる工事現場の穴の中で、モワモワした中で人間たちが蠢いているという内容だったのですが、イメージはそこから来ています。あの世界をもう一度ちゃんと掘り下げてみたいな、と。
 
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