The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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Artist Interview
A geeky world born of unique collaborations The dance performance of Yoko Higashino
異色コラボが生み出すgeekな世界 東野祥子のダンスパフォーマンス
『MATAR O NO MATAR』
BABY-Q+Musiciansとして、上演ごとに異なる現代を象徴する気鋭の音楽家やDJらと即興的にコラボレーションしながら進化する作品。BABY-QのダンスとROKAPENISの映像インスタレーションが異空間を描き出す。
2008年8年の初演では、初日に中原昌也、伊東篤宏、鈴木ヒラク、L?K?O、KILLER-BONG、Kleptomaniac、虹釜太郎(DJ)らと、2日目にWorld'send girlfriend、kenichi matsumoto(サックス)、mujika easel(ヴォーカル)、置石(DJ)らとセッション。2008年9月再演では、大阪の造船所跡地にDESTROYED ROBOTの火炎放射戦車が登場するなど破壊行為へと至る。2009年には、新たな音楽家を迎えてさらなる進化を遂げる。
『ALARM!』
女の身体に流れる血と感情をえぐり出し、女性性に「警告」を発するかのような衝撃的な作品。『不思議の国のアリス』を思わせる少女と、圧搾空気で動く巨大ロボットや機械たちが闇のなかにグロテスクに共存する。ストロボ光や轟音ノイズを多用し、乱舞する東野の身体は圧巻。トヨタコレオグラフィーアワード2004「次代を担う振付家賞」受賞作。
──作品のテーマ選びについてもう少し突っ込んでお聞きしたく思います。2008年のBABY-Qの作品『MATAR O NO MATAR』は時期的に秋葉原での大量殺傷事件を想起させるタイトルでしたが、実際に起きてしまった社会事件が作品作りに影響を受けるということはあるのでしょうか?
 やっぱり生きている以上、そういう感覚はあるっていうか、どんどん凶暴になっちゃう(笑)。敢えて過剰に表現するという部分が元々あって。そんなものがなくても踊りだけでいいと思うんですが、自分がそれを選ぶということは、自分が生きているという中で感じているからだし、やはり心が動くときというのはショックを受けたときだったりしますから。
 『MATAR O NO MATAR』って「やるかやられるか/生きるか死ぬか」という意味なんですが、生きるか死ぬかって、本当にわからないなって。由来はあるCDのタイトルから。秋葉原の事件に関していうと、知り合いの後輩が殺されているんです。ただバイトでティッシュを配っていたら事件に巻き込まれてた、その身近さ。新聞見たら毎日そんな記事ばかりで、テレビをつけたらバンバン人が死んでいて、それが当たり前になっているという感じ。心がどんどん荒んでいくような状況を私たちが感じて、舞台でやってみたらどう思われるんだろうみたいな感覚はありました。
 『MATAR O NO MATAR』は、ミュージシャンが日替わりで出演する『E/G』という私のソロ作品の延長線上で、BABY-Qでやったらどうなるだろうという企画です。これまでにワーク・イン・プログレスでつくり込んできた作品を、全然タイプの違うミュージシャンと日替わりでやったら、どのように違う作品として見えるのだろうという興味がありました。こういった企画を作品と呼んでいいと思うんですが、本当に音楽にやられて、私たちが負けてしまうかもしれなかった。信頼できるミュージシャンに頼んでいるからそれは絶対ないんですが、一か八かみたいなところがありました。

──秋葉原事件の犯人の青年は、所謂“同族殺し”としても大きくフォーカスされましたよね。情報の整備だけがどんどん進んでいく中で、テレビをつけたらショックな事件が見たくも無いのに目に入ってくるけれども、本当に知りたいことこそが手に入りにくく、大切なことこそ情報網に絡まって手元に届かない。こういった社会の状況において、ダンスという身一つを使った表現にはとても可能性があると思います。もっと人と接していればああいう事件は起こらなかったんじゃないでしょうか。『E/G』も『MATAR O NO MATAR』も、セッションというある種とてもわかりやすい他者とのぶつかり合いが、当たり前のコミュニケーションの形として提示されていたといえます。
 そう、メールですら届かないように、今はコミュニケーションが成り立たない。舞台は生だから、それはいつも考えながらやっています。その現場に来てもらって生で感じてもらうということが一番大切。いくら映像で見て良かったといっても、それは絶対に違う。生で感じて心震わせ、そこで息を飲みながら観ている自分というものが大事だと思います。

──大阪時代に話を少し戻しますが、アイホールでの「take a chance projects」に参加された3年間について聞かせて頂けますか?
 2001年にアイホールに直談判しに行ったのは自分の企画だったんですが、その作品を観たアイホールのディレクターをされていた志賀玲子さんに声を掛けていただき、Aアイホールが立ち上げた「take a chance projects/一か八かプロジェクト」という、若手に3年間劇場を開放し、予算もつけるので好きなことをやってみなさいという企画に参加することになりました。それが私にとってすごく大きかった。自分の土俵がなかった分頑張ろうとしていたところに、そうやって会場と資金を提供してもらって、つくりたいものを作ることができた。
 最初の1年目というのはやはり模索状態でした。BABY-Qは当初3人で構成していたのでそれぞれのイメージが喧嘩してしまったり。1回目は『REMroom』という作品をやったのですが、それをやった後に私以外の2人が「ちょっと休憩したい」と。「BABY-Q、解散の危機か!?」という自体になったのですが、それを志賀さんに相談したら「それは東野さん自身が演出家として、一度やってみなさい」と言われ、続けてやることになりました。その時に自分の表現したいことをよく考えたんです、「何故、機械なのか」とか。それで出来たのが『←Z←・ Z 滑稽な独身者機械』。そして3年目につくったのが『ALARM!』でした。
 この3年間は修行のようなものでしたが、こういった環境が私やBABY-Qを育ててくれたと思います。『ALARM!』は、最初は15分の作品だったのが1時間になり、アワードのために25分につくり直し、アイホールで最終的な作品にして初演しました。2004年から2005年にかけてのことですね。『REMroom』『独身者機械』『ALARM!』の3作品は私の成長過程そのものというか、模索していたものが確信に変わっていった時期でもあります。

──その頃に模索していたスタイルというのは、3年間でどのように変化していきましたか?
 最初は自分が何をどういいたいかというのがはっきりしていなかった。踊りというものはずっと長い間続けていたので、踊れる自信はあるんですが、どのように踊っていいかわからない時代だったというか。ただ単に踊るだけでは駄目な時期になってきていて、それをどう自分で表現したいのかということを必死で探しました。
 BABY-Qを始めた時から「人の面白み」をどうやって演出していくかという部分で作品を成立させようとしていたんですが、最初の頃は荒くれだった感じで。やりたいイメージを無理矢理なんとかしてしまうような、空回って足踏みしているような、その場所でずっと全速力で走っているような感じがありました。いつも半年がかりで作品をつくっていたんですが、3作品目の『ALARM!』からワーク・イン・プログレスという方法を取り入れて、1年半くらいの感覚で徐々につくっていった。シーンがどんどん入れ替わり立ち替わり色んなイメージをつくっていくのですが、作品のコアな部分は変えたくないと思っていたら、やはり変わらなかった。それどころか自分の作品のテーマがもつ世界観というものが明確になっていった。それで、その世界観は間違っていないという確信が生まれた。「この作品はこう踊りたい」という、最初に降って来た感覚が一番大事ということに気付いて、それを煮込んだり省いたりという作業をずっとしていても、大事なシーンはこれだなというのがわかるようになってきたんです。
 自分は間違っていないという思い込みでもあるんですが、格好良く言えば確信。思い込むということは大事なんだなと思いました。人がどう思おうが、どう感じようが、「私はこうなんです!」と、今は作家として言えるというか、3年間の中で強くなったという感じです。

──作品を作る時はビデオに撮ったり舞踊譜を書いたりするのですか?
 ビデオは全然撮らないんです。ビデオを見るのが嫌で。構成も最後まで悩んで、シーンを入れ替えたりします。『GEEEEEK』なんかは、この間の韓国での公演ですら入れ替えました。ダンス作品なので抽象的でいいんですが、私の中では物語があって、それをやる側全員に納得してもらった上で舞台に立ってほしいと思っています。
 何がどうなってるかというのはパッと見ただけでわからなくていいんだけど、このシーンはこういう意味があってこうなるから次のシーンに繋がるという、自分たちの中の一本の筋みたいなものが大事。それが共感できていないとだめですね。すごい細かい間やシーンの転換といった作品の流れはそういった共有の感覚で構成していく。でも、これは自分にとっての課題ですが、BABY-Qで作品演出する時のスタイルがちょっとパターンになっているので、今はそこを模索していきたいという時期ですね。違う角度から、作品をつくっていこうとしています。大きな規模じゃないとしても、私が出ない作品をつくるとか。

──音楽のセレクトはどのように? 流れのベースになっているのですか?
 昔は音があっての作品というものもつくっていましたが、最近は作品の世界観を音に物語らせるということが多いです。音の世界を大事にしているというか、音に対しては神経質になっている。舞台では視覚の次は聴覚だと思うんですよ。作品の中で音がつくる世界観を大事にしていて、音に影響されて出来上がるシーンも多いです。それに合わせて伴奏として踊るというよりも、音が空間を構築していく感じ。イチニサンシ、ゴロクシチハチは一切ないです。
 ダンサーの踊りもメインではない。同等なんです。ダンス、美術、音、映像、照明、舞台空間、衣装、ビジュアル、情報、全部同じレベルで存在してほしい。だからカンパニーの中に、映像作家、音楽家、衣装さん、ビジュアルアーティストがいる。DIY。そのほうが確実なんですよね。私が創造することを確実にわかってもらえるというか。外に発注すると、思ってもいないデザインがあがってきても遠慮なく「いや、ちょっと…」って言えない。そうじゃなくて、「それ違うから、もう一回やり直してみようか」と。いつも一緒にやっているから自分のイメージにより近づけることが簡単にできる。それは作品だけではなく日常生活においてもそうで、ちょっとしたセッションだったり、コミュニケーションだったり、私がお母ちゃんと言われる由縁なんですけど、「ちょっと、ご飯食べてないんだったら、うちで食べて帰る?」とか(笑)。「しんどそうやったから、ちょっと様子見に行ってみるわ」とか。だから、みんな東京まで出て来てくれたと思うんですけど。だから、劇場があって上にみんな一緒に住んでいるアスベスト館みたいなのが理想ですね。最初は倉庫を借りてそういう場所をつくろうと思っていたんですけど、そんなお金なんかなくて…(笑)。スタジオをつくれただけでも幸せですね。
 
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