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本條秀太郎
本條秀太郎(ほんじょう・ひでたろう)
1945年生まれ。日本を代表する三味線奏者、作曲家。長唄を稀音家芳枝に、民謡を初代藤本琇丈に師事。71年「本條流」を起こし独立、「本條秀太郎」を名乗る。本條流家元として後進を育成する一方、古典音楽から映画、舞台、テレビドラマなど、幅広く活動。端唄、日本の民族音楽の再発見、再構築を目指す「ATAVUS」など、常に新しい試みに取り組んでいる。三味線の音色の美しさ、しっとりと艶やかな声は多くの聴衆を魅了する。
http://www.honjoh.co.jp/
*1 三味線
日本の撥弦楽器。木で作られた四角い枠の両面に皮を張った胴と、胴を貫通する長い棹から成る。棹に張った3本の弦をバチや指で奏する。原型は中国の三弦といわれ、通説では16世紀に琉球(現在の沖縄)を経て伝来した。新来の楽器は民衆の心をとらえ、短時日で普及し、民謡から歌舞伎のような劇場音楽、地歌など芸術性を追求した室内楽まで、その後の日本音楽の中心的楽器となった。楽器は改良され、さまざまな奏法が生まれ、多彩なジャンルが誕生。文楽のように物語の語りを伴う「語りもの」や、長唄のように歌を伴う「歌もの」など日本独特の音楽分野が発達した。

*2 端唄
19世紀半ばに生まれた流行歌。政治の中心都市・江戸(現在の東京)で大いに流行した。短く洒脱な歌詞を三味線の伴奏で歌う。本條秀太郎は1993年から古典端唄と新作端唄を聞かせる演奏会「端唄 江戸を聞く」を開催している。

*3 俚奏楽
本條秀太郎が命名し、取り組んでいる民謡を再創造する試み。既存の民謡に本條が現代的解釈を加え、現代に息づく作品としてブラッシュアップしている。

*4 ATAVUS(先祖帰り)
日本の民謡を、世界の視点から日本の民族音楽としてとらえて、「民謡歌謡」を創造する試み。三味線音楽の原点を求めて、中国からさらに西アジアに延びる伝来の道を辿るなど、世界の民族音楽に触発された曲を本條が作曲している。ヤンチンやウードの演奏者も交えた10人前後の編成で演奏する。1989、91年には細野晴臣のプロデュースにより演奏会を開いている。
本條秀太郎
本條秀太郎
Photo: Daisuke Ishizaka
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an overview
Artist Interview
2009.2.3
music
The world of Hidetaro Honjoh – pursuing shamisen music as a traditional Japanese folk art, and even venturing into British contemporary theater  
日本の伝統・民族・芸術としての三味線音楽を追求 イギリス現代演劇にも挑む本條秀太郎の世界  
世田谷パブリックシアターとコンプリシテが共同制作したサイモン・マクバーニー演出による『春琴』のロンドン公演が実現。1月30日から2月21日まで3週間以上にわたってバービカン劇場で上演されている。谷崎潤一郎の作品を基に、マクバーニーと日本の俳優、スタッフが10年をかけて練り上げたこの作品の音楽を担当しているのが、三味線奏者で作曲も手掛ける本條秀太郎である。日本の伝統音楽の演奏家の枠にとらわれず、多彩な活動をする本條に、三味線との出合いからマクバーニーとの協働作業まで話を聞いた。
(聞き手:奈良部和美)



──三味線(*1)に限らないことですが、日本の伝統音楽の演奏家は専門化が進んでいて、三味線でいえば、長唄をやっている人は長唄、民謡の人は専ら民謡というように、演奏する音楽のジャンルが固定化されていて、専門領域を超えて活動する人は少ないですね。そうした中で本條さんの活動は異色だと思います。
 演奏家になった時から、広い意味で「日本の三味線弾き」でいたいという発想があったものですから、あまりジャンルは意識していません。ただ、そうは言っても三味線弾きですから、私の弾いている三味線から、日本の、江戸の楽器の雰囲気がなくなってはいけないと思っています。
 私の活動には4つの柱があります。まず、伝統的な演奏をする三味線音楽の古典としての「端唄」(*2)。次に、通常は「民謡」と呼ばれている地方の唄で、私は民謡という言い方があまり好きではなく、「地方唄」という言い方をしています。3つ目が民謡を日本の民族音楽ととらえて、新しい三味線の音楽をつくろうという試みの「俚奏楽」(*3)。新しいといっても無論、伝統に根ざしたものです。4つ目が今生きている民族音楽という意味で行っている現代民族歌謡としての「ATAVUS」(*4)です。
 そのほかに、現代音楽としての三味線音楽も作曲、演奏しますから、三味線の世界から見ると、なんとなく色々なことをやっているなあ、という感じにとらえられてしまうんでしょうね。でも、私はそれらが全部でひとつ、どれひとつ欠けてもいけないと考えています。

──本條さんの年代で同じような活動をする三味線奏者はいなかったと思いますが、敢えてジャンルにこだわらない三味線音楽を、と考えられたきっかけは何ですか。
 何より、三味線を弾きたいという気持ちが強かったんだと思います。17世紀に演奏の仕方などを書いた「糸竹初心集(しちくしょしんしゅう)」ができましたが、それを見ると、初めて三味線を手にした日本人の驚きが伝わってきます。楽器だけが渡来して、どうやら弾き方は伝わらなかったらしく、どんな風に弾けばいいのかと、子どもが初めてもらったオモチャで遊ぶようにいろんなことを考えたのではないでしょうか。その頃と同じような気持ちで、私は三味線を弾きたいと思っています。そうすると三味線はもっと生き生きとする。「古い音楽」みたいなイメージがあった三味線をもっと生き生きとした今の時代に生きている三味線にしたい、と考えたのがきっかけでしょうか。
 それと、古典の三味線音楽は唄と三味線が対になっているので、楽器だけを独立させた音楽があってもいいんじゃないか、自由な三味線を弾いてみたい、という考えもありました。

──そうした考え方の背景には、本條さんと三味線との出合いや修行の仕方の影響があるように思います。三味線との出合いからお話いただけますか。
 稽古を始めたのはそれほど早くなくて、11歳からです。本当はギターを弾きたかったんですが、田舎育ちだったのでそんな楽器は簡単に手に入らない。私の古里の潮来は利根川沿いの港町で芸者衆もいたから、三味線だったら身近にあった。弦の数はちょっと少ないけど、同じ弦楽器だからまあいいかみたいな(笑)。
 それで習い始めて、毎日、町のお師匠さんのところに稽古に通っていました。私は町でも有名な悪ガキで、師匠はどうせそのうち来なくなるだろうと思っていたらしいです。それで、1回ごとに授業料を払い、それは確か1回25円で、母親にお金をもらったり、誰かがお小遣いをくれたりすると、それをもって習いに行く。1日も休んだことはなかったから、よほど好きだったんでしょうね。

──その頃はどんな曲をやっていらしたのですか?
 常磐津も清元も長唄もやりました。民謡や端唄も教わりました。訳もわからず、子どもの頃から大人っぽい唄を唄っていたようです。子どもなのに年増の芸者が唄っているみたいだとよく言われました。それがトラウマになっていて、未だにテレビ番組で子どもが大人びた歌謡曲を歌っている姿を見ると落ち込んでしまいます。よっぽど嫌だったんでしょうね。

──年増の芸者が唄っているみたい、ということは、上手かったということではないですか?
 どうやら上手かったらしい…ですよ。子どもの頃は誰でも天才ですから(笑)。お祭りの時など、舞台に上がってよく唄わせてもらいました。

──三味線の天才児現る、というところですね。有名人だったのですか。
 ええ、超有名(?)でしたね(笑)。「天才少年」みたいに赤いインクで書いてある古ぼけたポスターを大切に持っていましたね(笑)。母親の心持ちを感じました。中学生の時には、プロになろうと心に決めて一家総出で東京に出て来ました。普通はこの人、という先生を頼って上京するんだと思いますが、私は無鉄砲にもとりあえず東京に来ちゃった。東京の住まいの近所だったというご縁で、長唄の稀音家芳枝先生に入門しました。
 その芳枝先生がすごく自由な考えをもった方で、近所にあった上野の美術館や博物館に連れて行ってくれて、レポートを書かされたりしました。三味線を弾くことは筋肉の運動だから、ある程度まで動かせばできるようになる。それよりも、曲を弾く時に、情景が見えるような演奏家になりなさい。本物に触れ、美しいものを見なさい、感動することを覚えなさい、よくそう言われました。多感な年頃を芳枝先生の下で勉強できたことが私にとって世界一幸せ出会いでした。
 13歳から19歳ぐらいまで芳枝先生のところで長唄を学んでいたのですが、舞踊家の注文に合わせて演奏する仕事をいただくようになり、もっと音楽としての表現がしたい、舞踊家と演奏家が同じレベルで戦うような表現がしたいと考えるようになり、一度、長唄をやめちゃおうと、芳枝先生に暇をいただきました。
 それまでは三味線の音のスケールをきちんと身体に染みこませておきたいという思いがあって、歌謡曲も演歌ももちろん洋楽もほとんど聴いたことがなかった。三味線の音階は、なんとなく半音が洋楽よりちょっと狭いとか、微妙なものがあるのではと、長唄以外の音楽を聞いたりしたら、三味線を弾いても、三味線らしい音にならないんじゃないかとさえ思っていました。
 その辺のニュアンスは海外の人にも一番説明しにくいところなのですが。音を出すのに押さえる場所を三味線では「勘所」と呼んでおり、その場所は絶えず変わって、揺れている。手前にある音と次にくる音とで均整がとれて音が決まるというか、勘所がひとつの音程ではなくて、要するにひとつの音の高さではなくて、一つ一つの音に「音格」をもった姿があるのです。そこの音を出せば誰が聴いても「こういう感じなんだ」と伝わるのが三味線の独特なところなのですが、そういう三味線らしい音を身体に染みこませたかったんです。

──芳枝先生のところをやめてからはどうされたのですか?
 自分で長唄をやりながら、民謡の初代藤本琇丈先生の住み込みの内弟子にさせていただきました。祖父と先生のお名前をいただいて、藤本秀太郎を名乗らせていただきましたが、24歳のときに藤本の家を出ることになり、コマーシャルや歌謡曲の仕事を2年ぐらいやりました。あの頃は、歌謡曲で三味線を使うのが流行っていて、国際劇場や日劇のオケピットで三味線を弾いたこともあります。その頃が懐かしいですね。
 26歳の時に独立して、「本條秀太郎」を名乗りました。
 
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