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Artist Interview
The world of Hidetaro Honjoh – pursuing shamisen music as a traditional Japanese folk art, and even venturing into British contemporary theater
日本の伝統・民族・芸術としての三味線音楽を追求 イギリス現代演劇にも挑む本條秀太郎の世界
長唄三味線と地歌三味線
本條さんが主に使う三味線は、さまざまな大きさのある三味線の中では中型の三味線。長唄は歌舞伎の伴奏音楽として江戸(今の東京)で発達したジャンル。そのため、長唄三味線は美しい高音を出すことができ、華やかな音色に特徴がある。

一方の地歌三味線は上方といわれた大坂、京都で発達した音楽「地歌」で使われる三味線。長唄三味線よりは大ぶりで、棹もやや太い。最も特徴的なのは胴側で糸(弦)を支える駒に鉛など金属のおもりが入っていること。おもりの重さによって微妙に音が変化する。箏や尺八と合奏されることが多く、日本家屋の座敷で聞く、いわば室内楽の楽器。

楽器の大きさが異なれば、糸の太さも変わり、バチの大きさ、形も変わる。奏法も異なり、当然、音色も違う。

地歌はかつて盲目の演奏家によって継承された。封建制の時代、視覚障害者が自立して生きる手段が音楽だった。『春琴』の主人公春琴は9歳で病のため盲目になり、地歌の稽古に打ち込み、やがて名手となる。
本條秀太郎
本條秀太郎
Photo: Daisuke Ishizaka
──本條秀太郎として独立されたのはどうしてですか? その時にはもうジャンルにとらわれない、三味線の演奏家として活動するというイメージがあったのでしょうか。
 私の場合の独立は、せざるを得なかったということです。独立しなくてはならないのなら、当時我々の世界では家元制はありませんでしたので、流儀としての本條流を創ろうと考えました。若気の至りというか、今はとても反省していますが、家元をつくればお弟子さんが私のやりたいことを支えてくれるんじゃないかと思ったからなんです。そうすれば、私は好きな三味線の音楽を、自由な音楽をやれるんじゃないかと(笑)。それで、俚奏楽という新しい音楽のジャンルを立ち上げ、その家元になろうと、本條秀太郎という名前をつくったわけです。今は後悔していますが……。
 邦楽の世界では新しい流派ができたお披露目をするのですが、私は一切しませんでした。なんとか型になったらと思っておりました。創流10周年の折には、師匠の藤本琇丈先生にもお出ましいただき、あの感動は今も心の中にあります。

──お弟子さんは来たのですか。
 来ないですよ、まだ海のものとも山のものともつかないのですから(笑)。本條になって1回目の「本條秀太郎の会」を読売ホールで催したのですが、この時に三味線はペルシャから来たものなので、シルクロードの音楽をテーマにした『駱駝と船』という曲を作曲し、演奏しました。駱駝や船に乗って三味線が日本にやって来たというストーリーの曲です。まだNHKのドキュメンタリー番組も放送されていない、シルクロードがブームになる前の話です。それから毎年、厚生年金会館や日本青年館などで会を催しました。それは現在も続いています。

──大きなホールばかりですね。お客さんは入ったのですか?
 満杯でしたよ。藤本の頃からファンがすごくいたみたいです(笑)。藤本ではおさらい会だけで公演はやったことがないのですが、その時も私が出ているときだけ一杯になって、私の出番が終わるどっといなくなるみたいな、そんな状況でした。

──アイドルだったんですね(笑)。
 そうだったように聞いています(笑)。民謡の世界では一番若かったですからね。その頃は、三味線弾きでも民謡の人たちは派手な着物を着ていましたが、私はそれが嫌いで。裕福ではなかったこともありますけど、無地の着物を着て、真っ白の献上の帯を締めて、草履も白く、という衣装にしました。そうしたらそれが仲間に流行ったりもしました。黒紋付が着られるようになった時はうれしかったですね。

──独立された当初から作曲をされていたんですね。
 特に作曲を勉強したわけではないのですが、自然とやっていましたね。

──西洋音楽の影響を受けるまで、日本の伝統音楽には作曲家という専門職はなかったように思います。昔の演奏家は作曲もし、演奏もした。その中から古典といわれる曲が残ってきた。ところが、現代は演奏家と作曲家が分業になり、本條さんのように積極的に作曲をする演奏家は少ないように思います。
 私は、こと三味線に関してはあまり作曲家を信用していないところがあります。作曲を専門にしている人が三味線の曲をつくると、何か違うかな?、みたいな感じがします。「音格がある」ということがよく判っていなくて、洋楽的な作曲法では音の高さだけ繋ぎ合わせてメロディーをつくられているような気がします。三味線の場合は、音格があるから音程自体がひとつひとつみんな個性的で、その個性的な音を合わせること自体がとても難しい。箏や尺八と同じような感覚で楽譜を書くと、三味線は全然鳴らない。三味線が鳴らないというのが私にとっては一番の問題なので、自分でつくらなきゃと思う。もっと三味線を生かそう、鳴らしてあげようと思いますから。
 私にとって作曲するということは、普通に言葉を喋るような感じです。こんなことできる、みたいな感じで音を探っていく。端唄のような古典の分野の作曲だと、ある程度形が決まっているのでそのフレーズを使ったり、歌詞も言葉遊びみたいな感じでつくったりしています。
 現代音楽に分類されるものも含めて、三味線でなければ出ないもの、三味線の「言葉」というか「におい」というものが出るような曲がつくれたら、と思っていつも作曲しています。
 三味線って単音なんですが、さっき言ったように音格というのがあるからそれだけで表現できるし、世界をバッと広げられる。平均律の音を使ってそういう感じを出すには、いくつかの音を出す必要がありますが、三味線の場合は1音でそれができる。これが三味線のすごいところだと思います。

──篠田正浩監督の映画『はなれ瞽女おりん』の音楽を担当したのは1977年、本條さんが32歳の時です。その前年には東京バレエ団の公演「虹の橋」で東京交響楽団と共演していますし、映画やテレビドラマの音楽などさまざまな仕事をしていらっしゃいます。
 三味線音楽のジャンルを問わず、いろいろなことをやっていましたから、映画やテレビの人たちからみると頼みやすかったのかもしれません。私も若くて、いろいろなものをやってみようという気持ちがありましたから、三味線音楽のなかった時代の音楽も引き受けました。三味線が日本にやってくる前の時代にも音楽はあったわけですから、どういう音楽がいいかなと考えて、普通に作曲します。民謡を勉強していて良かったと思うことのひとつなのですが、地方の古い歌の中に、ほんの一節だけ、古い日本の音楽の旋律が残っているということがあります。発掘した土器の破片を繋ぎ合わせて復元するように、組み合わせてひとつの曲をこさえていくこともあります。

──それができるのは、本條さんが独立後いろいろな音楽を研究されたからですね。
 そうですね。母がよく言っていたことですが、何でもただ漠然と見るのではなくて、よく見て自分の引き出しに入れておきなさいと。良いものも悪いものも何でも見なさい、とも言われました。何か本を読んでも、そういうつもりで読んでいるから、「あの本に、ああいうことが書いてあったなあ」というのはわりと覚えています。だから、この時代の音楽をと依頼されてもスーッと出てきますね。あ、あそこにアレがあった、アレを使えばいいかなと、勘が働くわけです。
 
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