The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
Artist Interview
The unending challenge of butoh artist Ushio Amagatsu, a leader in the international dance scene for over 30 years
30年以上にわたり世界のダンスシーンを牽引 舞踏家・天児牛大のあくなき挑戦
『降りくるもののなかで─とばり』
[初演]2008年5月/パリ市立劇場
とばり
とばり
©Jacques Denarnaud
とばり
とばり
とばり
©SANKAI JUKU
──2005年には、『金柑少年』で初めてリ・クリエーションに取り組まれました。もともと天児さんが踊られていた4つのソロパートを若手の踊り手たちに分配し、自身は出演されませんでした。なぜこのようなかたちで作品を蘇生させようと思われたのか、また若手の踊り手たちとのコンセンサスはうまくとれたのか、詳しく教えてください。
 なぜリ・クリエーションを手がけようと思ったかというと、これは単純に、外部からのオファーがあったからです。93年のパリ市立劇場での公演を最後に『金柑少年』を封印してからも、「ぜひやってほしい」という依頼を多くの劇場からいただいてきました。けれど体力的にいって、私が再びこの作品を踊ることは難しい。そこで若くパワーのある他者の身体に委ねるかたちで、作品を再創造してみることにしたのです。
 実際の振り写しの作業に関しては、型を写すのではなく、感情のうごめきを写すことに重点を置きました。その時々の動きのなかで、何を体感し、何を感受しているのか。そこさえブレなければ、具体的な動きの型に関しては、むしろ、個人差を許容するかたちで作業を進めていきました。
 確かに若手の踊り手たちとは、旗揚げメンバーたちほどは、あうんの呼吸でコンセンサスが取れないこともあります。例えば「沈殿」というと、古いメンバーたちは私がどのような意図でその言葉を使っているかを即座に理解してくれる。しかし、若手からは「何ですか沈殿って?」「落下と沈殿は違うんですか?」なんて質問が返ってくる。でもそうした疑問を投げ掛けられることによって、私の方が気付かされることがある。ああそうか、自分の言葉は符丁化してしまっているんだな、と思わされたことが多くありました。なので、このリ・クリエーション作業は自分にとっても非常に実りの多い作業でした。

──新作の場合、稽古期間はどれほど与えられているのでしょう。2008年5月にパリ市立劇場で世界初演された、最新作『降りくるもののなかで―とばり』を例に教えてください。
 稽古期間はおよそ2カ月。その間は、すべてのツアー公演を断ちます。『とばり』では、まず横浜で、市とNPO法人が管理・運営している(公設民営の)稽古場で最初の1カ月を過ごし、それからパリ市立劇場の上階にある、ステージと同サイズの稽古場に移りました。実尺の空間で稽古ができることは、踊り手たちにとって非常に重要なこと。なぜなら内的な緊張感を大切にする私の振り付けでは、歩数ひとつが変わるだけで、感情の揺れが微妙に変わってきてしまうからです。
 また、パリ市立劇場の場合には、公演直前の1週間はいつでも、実際の劇場をエンプティにして明け渡してくれます。なので、そこで音楽、照明、美術のすべてについて最終的な試みをしていけます。26年前から付き合いの続くテクニシャンたちは、「まだこの時点では創作の過程である」という意図を共有してくれているので、仕込みが完了した後でも「あそこの照明はやっぱりこう変えたいのだけど」と言えば「もちろんだよ」と快く応じてくれます。クリエーションとはそうして直前まで変わってゆくもの。このことに対し徹底した理解のあるプロフェッショナルな態度に接するたびに、私はいつも、深く感心してしまいます。

──山海塾の場合、実際の踊り手たちが、美術や衣装などのスタッフワークに携わります。これには最初、海外のスタッフたちも戸惑ったのではないでしょうか。
 そうですね。ただこれに関しては、あえて意図的に、山海塾が70年代に活動を始めた時と同じスタイルを踏襲し続けているんです。なぜなら私は踊り手たちにもある程度「舞台の成り立ち」を理解しておいてもらいたいから。舞台には、すべての御膳立てが済んだ時点で「はい、踊り手さんどうぞ」という関わり方をしていては見えてこない要素がたくさんあるのです。例えば小道具ひとつとっても、それを自分の手でつくるのと、人につくってもらうのとでは、その道具に対する態度が異なってきます。自らの手でつくることにより、そのつくり上げられたものと自分とが舞台上でどのように関わればいいのか、というより具体的な視野が踊り手たちのなかに育まれていくのです。
 ただ確かに最初の頃は、そんな我々の姿を見て劇場スタッフたちは驚いていました。特にアメリカでは、ユニオンで厳しく技術者たちの請け負う仕事が規定されているので、本来なら踊り手は舞台裏の小道具には一切触ることができません。けれど付き合いが長くなってくると「おまえたちのところは特別だからいいよ」と、彼らも柔軟に対応してくれるようになる。持続していくことでお互いに胸襟を開く、ということはとてもあるように思います。

──先ほど「稽古場は無音である」と仰いましたが、音楽の創作プロセスについても少し具体的に教えてください。
 基本的には、稽古場でムーヴメントを完成させる作業を進めるのと同時に、音楽家との対話作業も行っていきます。このプロセスは、共に作業する音楽家が誰であるかによって微妙に異なってきます。
 例えば加古隆さんの場合は、すでに彼が一度成立させた曲をアレンジする作業になるので、ある意味、西洋古典舞踊のスタイルと同様、踊りのベースに「音のテキスト」がある状態から入っていくことになります。つまりはじめに音ありきで、すでにそこにある音符のエモーションやポエジーに、自分がどう立ち向かっていけるのかが焦点になるわけです。この音はピアノから他の楽器に転用することが可能か、ここは小節数を倍に増やすことが可能か。と、ふたりで真摯な話し合いを重ねていくことになります。
 YAS−KAZさんの場合は、どのインストゥルメントでいこうか、という視点から話し始めることが多いです。ここはやっぱり壺タブラだろう、いやもっとテンシブな弦だろう、もう少し電気ヴァイオリンのブルーな色を加えてみようと、とにかくまず楽器の音色そのもので世界を捉えることに集中します。
 ただ加古さんにしろ、YAS−KAZさんにしろ、吉川(洋一郎)さんにしろ、最終的なトラックダウンのときには必ず私はスタジオ収録に付き合うようにしています。そしてスタジオで実際に響いてくる生の音色を身体で感じて、それをどれだけ舞台に反映させていけるかを考える。私は音楽であれなんであれ、なるべく一緒に作業をしていきたいタチなんです。それがまた面白いし、勉強にもなりますからね。

──東京の消防会館ホールで出世作『金柑少年』が上演されてから、約30年の月日が経ちました。けれど今でも天児さんの中には、当時と同じように、仲間たちとゼロからつくっていくことを愉しむ感覚があるわけですね。
 そうですね、そこは大きくは変わっていないように思います。でも本当に我々の場合、フランスでの最初の1年がなかったら、これほどカンパニーを持続することはできなかったように思います。フランスに渡り、そこからのネットワークで、ベルギー、スイス、イタリアなどのエンプレサリオたちに呼ばれていく。あるいはまた「ル・モンド」に記事が載ることによって立ち位置が変わり、評判が広まっていく。
 欧州にしろアメリカにしろ、何か表現したいことがあり、それがなにがしかのものであれば、すぐにそれを支えていく文化的機構が成り立っている。これは表現する側としては、非常に勇気がもてるし、有り難いことです。日本でも少しずつ状況が変化してきているとはいえ、やはりここまで若い芸術を支えきるバックボーンは成立していないように思います。だから残念ながらいまだに才能のある人たちは、海外に出ていってしまう。この現象について、日本は改めて考えなおすべきだと思います。やはり商業的でないものも擁護していかなければ、文化がバランスを欠いてしまいますからね。
 
BACK
| 1 | 2 | 3 | 4 |
TOP