The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
Artist Interview
The theater world of Seigo Hatasawa, with its unique focus on “communities” and “schools”
「地域」と「学校」─ふたつの視点から演劇界を見つめる畑澤聖悟
弘前劇場『召命』
(2000年1月/スタジオ・デネガ)
そう遠くない未来。学校教育の現場は今以上に荒廃を極め、権威も力も失った文部省は「校長職」を教職員の互選によって選出する制度を導入する。事件や不祥事の責任を取る立場である校長にかかる重圧は大きく、死亡率はうなぎ登り。舞台となる青森県の公立中学でも、新校長選出のための話し合いが行われていた。話し合いに公開選挙、議論は白熱しても結論は出ず、それぞれの思惑があぶり出される。


弘前劇場『俺の屍を越えていけ』
(2002年4月/浪岡現代美術空間)
青森市に本社を置く老舗放送局。経営状態の悪化を救うべく就任した辣腕の新社長は、「360度評価(上司、同僚、本人、部下の4者による評価)」を実施し、徹底した人員削減を提唱する。その一環として取られたのは、若手社員による管理職リストラ候補社員の選抜。部下いじめを弾劾する者、他人事を決め込む者、義を説く者。集められた6人は気の重い話し合いを始める。


劇団昴 ザ・サード・ステージ
『親の顔がみたい』

(2008年2月/THATER/TOPS)
都内にあるカトリック系私立女子中学校の教室で、一人の生徒が自殺した。夕方、学校の会議室に保護者が集められる。彼らは、自殺した子供の遺書に名前が書かれていた生徒の親たち。 生活環境も職業も違う親たちは、ひたすら身勝手に我が子を擁護し、学校の責任を追求する。だが、第二、第三の遺書と「証言者」が現れたとき、それぞれの親子の「本当の顔」が暴かれて…。
親の顔がみたい
『親の顔がみたい』(初演版)
撮影:梅原渉



青森中央高等学校演劇部『生徒総会』
(1998年12月)
生徒総会を明日に控え、リハーサルをするために集まった生徒会役員執行部のメンバーは、制服廃止にこだわる男子生徒の動議でもう一度話し合いをすることにする。「制服は廃止すべきか否か」、「多数決による決定は本当に正しいのか」。白熱した議論は思わぬ方向にそれ、執行部を危機的状況に追い込んでいく。


青森中央高等学校演劇部『河童』
(2007年12月)
とある町の平凡の高校の平凡な教室。いつもと違うのは、クラスメートの一人が突然河童になってしまったことだ。友人の「変身」を受け入れようと団結を誓う生徒たちの前に現れたのは、制服を着た河童ヒメノ。受け入れるはずのクラスメートたちは、生臭くヌメっとしているヒメノに嫌悪感を隠せず次々に理解者の立場から離脱していく。「自分」の存在を否定されるたび、ヒメノの河童化は進んで行き…。
河童
『河童』
第54回全国高等学校演劇大会(群馬大会)
(2008年8月8日/群馬県桐生市民文化会館)
撮影:ハラセイ写真館 原敏明
──そこが高校演劇との出合いの場になったわけですが、きっかけはどういうものだったのでしょう。
 当時、弘前劇場は文化庁の助成を受けていて、その条件により1年間に4本公演する必要がありました。つまり両立するには1週間ずつ4回、仕事を休まなければいけないわけです。長期休暇を利用しても、そんなに休む教員はさすがにいません。最初は「演劇がんばりへ」などと言ってくれた教頭や同僚から次第に笑顔が消えていく……。自分のような教員の存在価値を認めてもらわなくては続けていけない。と考えた末、演劇部顧問になることにしました。僕の経験を学校に還元する一番良い方法だと思いましたから。
 それまではソフトテニス部を教えていたのですが、スポーツ系クラブが圧倒的に強い学校だったので、文化部は軒並み虐げられた存在でした。クラブにカースト制度があるとしたら、演劇部は間違いなく最下層(笑)。地区大会も一度も抜けたことがなかった。ならば「県大会には絶対に連れて行く!」と僕も燃えまして、演劇部のために戯曲を書いた。それが生まれて初めて書いた戯曲『室長』です。
 学校では4月に図書委員や体育委員、保健係といったクラスの役員・係を決めますよね。僕のクラスで実際にあったことなのですが、学級委員だけ決まらなくて、係に就かなかった10人くらいを残して放課後に話し合ったこと。そのエピソードを戯曲化し、公約通り県大会まで行きました。

──畑澤さんの戯曲には、何かを決めるために複数の人が一堂に会し、話し合うという展開のものがいくつかありますが、処女戯曲で既にその形式に取り組んでいたのですね。
 確かに僕は「会議モノ」とでも言えばいいのかな、話し合いの過程を戯曲にするのが好きです。『室長』は、2年後に改作して、設定を学校内での校長選びに変えて『召命』というタイトルで弘前劇場でも上演しました。ラジオ局でリストラ候補を決める『俺の屍を越えていけ』もそうだし、劇団昴に書き下ろした『親の顔が見たい』も、いじめの加害者の親たちによる、ある種の会議モノと言っていいでしょう。
 教員をやっていると、「民主主義とはどういうものか」と考えることがよくあります。クラス内では何でも挙手で決めるじゃないですか。賛否が20対21になって、20人も手を挙げているのに一人足りないだけで「正しくない」とされるみたいなことが日常的に起こる。子どもたちのほうでも、何かもめると多数決で決めようして議論をあまりしない。これは日本人独特の発想と行動に通じるものではないか。日本のコミュニティの在り方は学校を舞台にした会議モノに凝縮できるのではないか。と考えたりもしています。

──その後、青森中央高校演劇部の躍進は目覚しいものがありました。『修学旅行』(2005年)と『河童』(08年)で全国大会二度の優勝、『生徒総会』(95年)で優秀賞。『修学旅行』は韓国から招聘されて海外公演も行いました。この作品は職業劇団である青年劇場の公演として全国の高校演劇鑑賞教室を巡演。青森中央高校演劇部は昨年、青森県の発展に寄与した人や団体を顕彰する東奥賞(地元紙・東奥日報社主催)も受賞しました。
 そこまでの成果を、予測したり目指したりしていたわけではありません。何せ最初は、自分が演劇を続けるための方法であり、教員としての義務感から起こした行動ですから。でも実際にやってみると、一生辞められないと思うほど面白かった。高校生は、短期間で驚くほど上達するんです。
 教員は人に物を教えるという、非常に不遜なことを仕事としています。もちろん、教育と名の付くものはとかく時間が掛かるもので、成果が見えにくい場合が多い。それが演劇の場合、「ここがゴールだよ」と示すと、部員は一丸となってそこへ向かい、必要なことを身に付け、できるようになっていく。台本の完成が遅く、大会本番の3日前にできたとしても彼らはちゃんと上演する。何せ人生で一番記憶力が良い時ですから。物を教える立場の人間として、対象が音を立ててみるみる上手くなっていく場に立ち会える、これ以上の快感はありません。
 それと、僕の周りには高校演劇の世界を「閉塞的だ」と悪く言う人が少なくなかった。そういった部分も確かにありますが、だからといってそこで生まれた作品が人の心を打つ力を持たないかと言えば、それは断じて違う。16〜18歳の俳優しかいないという制約はあるけれど、そこでできることをやればいいだけで、それは高校演劇でも渡辺源四郎商店でも違いはありません。『修学旅行』はまさにその証拠で、僕は高校演劇の勝利だと思っています。

──劇作家として高校演劇から受けた示唆や刺激には、どういうものがあるのでしょう?
 『修学旅行』を通して、「劇作家の意図したことがすべて観客に伝わらなくても、それは敗北ではない」ということは自覚しました。戯曲は、観る人それぞれがわかるレベルで楽しめばいい、と思えるようになりました。
 『修学旅行』は青森県の女子高生が、修学旅行先の沖縄の旅館で夜に喧嘩になり、マクラを投げあうなど大騒ぎになるという話です、表面的には。その、一番上を流れる物語とドタバタで笑ってもらってもいい。でも同時に中心となる5人の女子高生は、過去と現在のアメリカやイラク、日本、ロシアにもなぞらえてあり、彼らの投げる枕は頭上を飛ぶテポドンや、沖縄に降り注いだ鉄の雨にも見立てられるようになっている。そこまで理解して楽しんでくださる観客がいても、もちろんいい。その両方の観客の存在を、初めて意識的・戦略的に想定して書いたのが『修学旅行』という作品で、劇作家である僕にとっても大きな作品だったと思います。
 当たり前ですが、高校演劇ではつくる側だけでなく観客も高校生。彼らはわずか1、2年の演劇経験しかない中ですべてを判断し、「面白い・面白くない」を決める。だから高校生から演劇に詳しい観客まで、それぞれのレベルで持ち帰れるものが作品には必要なんだと思います。
 
BACK
| 1 | 2 | 3 | 4 |
NEXT
TOP