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Performing Arts Network Japan
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Artist Interview
Cross-over Kyogen master Sennojo Shigeyama’s quest for a new form of global comedy theater
越境する狂言役者・茂山千之丞 日欧を融合したグローバル喜劇に挑戦
3Gプロジェクト
©ミホプロジェクト
──国の違い、言葉の違いを超えて、「一緒にやれる」という確信が強くなっている?
 はい、その気持ちは上演の度に強くなっています。
 私はもちろん、あきらもイタリア語は全然わからない。向こうの方も日本語は100パーセントわからない。しかも舞台ではアドリブが入るわけです。それでも、こちらの言葉が終わった時に、ちゃんと相手の言葉が返ってくるんです。というのも、「言葉」は本来、「意味」を伝えるものではなく、「意思」を伝えるものだからです。たとえ意味がわからなくても、意思は伝わる。もっと言うと宗教とか哲学は伝わる。だから一緒にやれるのだと思います。
 ところが、最近の日本人はどうも言葉ではなくて、文字を見ないと信じられない、文字に頼り過ぎているように感じます。

──それは、言葉による「意思の伝達」のではなく、文字による「意味の伝達」に頼り過ぎているという意味ですか?
 ええ。最近は、言葉も平板になっていますから、意味の伝達という傾向が強くなっていると思います。
 例えば、「私はあなたを愛します」「アイ・ラブ・ユー」という言葉は、3つの文節から出来ていて、この3つのどこを強めて言うかによって言ってる人の気持ち(意思)が変わってきますね。「“私は”あなたを愛します」と言うと、「あなたは私を愛しているかどうか知らないけど、私はあなたが好きなんだ」となるし。「私は“あなたを”愛します」だと、「何人かいらっしゃる中であなたを愛してる」となるわけです。1人しかいないときは、「愛しています」とだけ言えばいいんだから「私」も「あなた」もいらない。「私はあなたを愛します」という単純な言葉でも、どこを強く言うかで伝えたい気持ち(意思)が変わってくる。
 でも、平板な言葉というのは、全部を同じように言うので、「私はあなたを愛します」って意味はわかるけど、どういうふうに愛しているかはわからない。相手に気持ちは伝わらないですね。

──千之丞さんの意思を伝える言葉の技術は、狂言の伝承の中で培われてきたものでしょうか。
 狂言やコメディア・デラルテは全部口移しで、師匠から弟子に伝達されてきました。師匠が「これはこの辺りに住まいいたす者でござる」と言うと、そのとおり真似る。音だけで字は介在しない。それも、狂言だと右脳を使わない子どものうちから稽古をします。私は初舞台の記憶がないのですが、2歳と8カ月で舞台を踏んでいて、稽古を始めたのはおそらく2歳になるかならないかでしょう。
 私の場合はじいさんが師匠でしたが、その向かいに座らされて、真ん中にお菓子か何か置いてあって、ちゃんと終わると食べられる(笑)。猿回しが猿を調教するのと全く同じやり方です。そうすると、割に早く覚えるんです。身体の動きも、師匠のやる通りに真似るまでやらされる。そういう型が先に出来上がって、台詞がちゃんと言えるようになってから初めて内容が入ってくるわけです。
 これは歌舞伎も日本舞踊も、日本の古典芸能は全部そうです。ヨーロッパも方法論は違うかもしれませんけど、伝承芸は同じような形で継承されてきたと思います。その点でも共通項があり、イタリア語と日本語でやっていても音で伝わるわけです。それに役者というのは言葉に対してすごく敏感ですからね。特にリズムや間(ま)には敏感です。3Gをやっていても、その間はよくわかります。なぜかというと、言葉の終わりというのには一種独特の言い方があって、それで間をつくる。つまり、終わる言い方があるんです。これはもう日本であろうがどこであろうが、世界共通だと思います。一種の言葉の魔術ですね。こうした文字にとらわれない言葉が役者の口から出てくることが、上手い役者、良い芝居の第一の条件だと思います。

──芝居によって「意思を伝える言葉の力」を伝えたい、3Gプロジェクトにはそういうお気持ちも込められているのですね。
 それはあります。日本人はもっと生の芝居を観ないといけない。僕らは「狂言の出前」と称して、学校へ出掛けて行って体育館や講堂で狂言をやってきましたが、それが最近、どんどん減ってきた。今から30、40年前は月に10校くらい回っていました。今は孫の世代が回っていますが、減っています。減っている理由は少子化の問題がもちろんあります。それから経済的な問題もあると思いますが、子どもたちに狂言とか能、生の音楽を聴かせようと学校が企画すると、保護者から文句が出てくる。そんな時間があるんだったら受験勉強させてくれ、時間の無駄遣いだと、お母さん方がおっしゃるそうです。しかし、言葉の魅力、言葉の本来の機能というものを知るためにも、生の芝居をもっと観てほしいと思います。

──学校狂言のお話が出ましたが、茂山家は狂言の普及活動に大変熱心に取り組んでこられました。
 狂言は中世の頃は、今のテレビドラマと一緒で毎日毎日新しいものがつくられていて、色んな怪しげな歌が入ったりした現代劇だったわけです。ところが、江戸時代になると能や狂言は式楽という名前が付けられて、武家社会のセレモニーの中だけでやるようになりました。だから、能舞台以外、能と一緒にやる舞台以外の狂言はまずなかった。大衆が喜ぶ現代劇は歌舞伎が取って代わったわけです。明治以後になっても、江戸時代以来の格式を守るという考えは連綿と続き、それを破ると品位が落ちると言われたわけです。
 ウチのじいさんの時代は、狂言役者が歌舞伎を観に行くこともできなかった。あんな品の悪い芝居を観ると、狂言の品位が落ちるというわけです。親父は子どもの頃、変装して歌舞伎を観に行ったそうです。そういう時代、つまり能と一緒じゃないと狂言をやらなかった時代に、私の祖父はどういう所へも狂言をしに行きました。祖父はいわゆるハイカラさんで、洋服も好きで、京都の能、狂言の役者の中で最初に牛肉を食べたような人でした。古いしきたりにとらわれず。呼ばれれば園遊会の余興でも狂言をやりましたので、快からず思った連中は、「茂山の狂言は豆腐みたいな狂言ですな」と悪口を言った。
 
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