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Artist Interview
Norimizu Ameya, an artist who directs stages with a strong degree of reality
強度あるリアリティを用いて舞台を演出するアーティスト 飴屋法水
──ギャラリーのP-Houseで行った「バ  ング  ント」展も最初に何かイメージが浮かんできたのですか。
 あれも1カ月ぐらい前に、突然、そのイメージが浮かんで。つくばに引っ込んで、ほとんど人と接触しないようにしていた時期でした。周りに民家もあまりない所に3年ぐらい住んでいたのですが、東京に戻って「何かまたやろうかな」と思っていたんだけど、何をやるかは決めていなかった。僕は基本的に他人に決めてもらうようにしているから、ウロウロしていれば誰かが決めてくれるかなと思っていたら、最初に声をかけてくれたのがP-Houseの秋田敬明さんだった。それで展覧会をやることになったんです。その時点で演劇の人が声を掛けてくれていたら最初に舞台をやっていたでしょうね。
 展示の1カ月ぐらい前、朝、目が覚めて顔を洗っている間に「ああ、箱に入ったほうがいいな、これ」って思ったんです。どうしてそう思ったかは全然わからない。前に即身仏に興味を持って調べたりしてたからそれがベースにあったのかもしれないけど。ただ、思いついた時にはそのことは忘れてました。

──最低限の食料と水を持ち込んで箱の中に籠もり、その箱が展示されました。外からは中の様子は見えないのですが、見に来た人が箱を叩いたり、声を掛けることはできました。箱の中でどのような体験されたのか、お答えいただける範囲で聞かせていただけませんか? 完全に真っ暗なんですよね。
 真っ暗ですね。カロリーを消費しないように、ほとんど寝ていました。目は醒めているけどずっと横になっている状態です。24日という数字は別に意味はなくて、主催者側から僕のために供されていた期間が24日だったということです。最初は恐怖みたいなものがすごくあって、12日間ぐらいはちょっとしんどかった。丁度折り返し地点みたいなのがあって、折り返しちゃった後は普通の感覚で、日数を数えたり、出た後のことを考えたりという感じでした。1日のエネルギー摂取量を130キロカロリー前後に制限していたので、基礎代謝のこととか考えても、結構ギリギリだったのは確かで、便とかも入ってすぐ止まってしまった。
 身体はある特殊な状況にガーンと入っていったので、そのままスーッと死んじゃう側にも転がってしまえる感じでした。「どうしようかな、このまま死ぬのかな?」というギリギリの判断というか、頭の中での判断じゃないと思うけど、そういうギリギリの感じが12日目くらいだったと思います。真っ当なことも考えるから一応ブレーキはかかる。「みんなに迷惑がかかる」とか、「怒る人もいるな」とか。しかし誘惑みたいな感じで、「死んじゃってもいいのかもな」みたいな。
 で、そこから折り返した時は、「子どもをつくろう」って決めている自分がいて、普通に生きるための回路を使い始めていた。
 水の量なんかもお医者さんには1日1リットル以上の飲まないとヤバイと言われていましたが、缶コーヒー1本分くらいの量しか飲みたくなかったし、それで大丈夫だった。決して無理したいわけじゃなくて、必要になったらどんどん飲もうと思っていたけど、欲しくなかった。身体が防衛体制に入っていて、生存のために冬眠状態になっている感じ。真っ暗だったから時間感覚もわからなくなっていたし…。

──真っ暗だと色の感覚もなくなりますね。
 黒って頭の中で思っているんだけど、それはやっぱり何かとの対比で黒という色があるから、箱に入って時間が経ってくると、その黒という色の感覚もなくなっちゃう。何だろう、逆にすごく白く発光している感じ? 強烈に発光していることと真っ暗ということの違いがなくなって、どっちがどっちだか全然わからないって感じ。
 途中から蝉の声がすごく気になり始めて。丁度夏だったので、ギャラリーにドアを開けて人が入って来るとその度に外で鳴いている蝉の声がワーッと聞こえてくるんです。身体の状態とか色々と変わっていたせいもあると思うけど、音を全部、身体でガーンって受ける感じで、もうその声がすごくてわけがわからなくなるぐらいでした。蝉の声って、あれはオスの発情、繁殖の声じゃないですか。後付的に説明すると、六本木というある意味で動物にとっては人間が破壊し尽くしちゃったような、非常に住み辛い所でも、蝉が次世代をつくろうとしているということでしょ。次世代をつくるということは、要するにそこは生きていくに値するっていうような判断をしているわけじゃないですか。それがすごいなと思って、そこで自分の中の何かが変わったように思います。
 昼間の人の気配みたいなこと、人が周りにいてくれるという感じも徐々にわかるようになってきますね。でも、最初は、箱をノックされたりするとすごく煩わしくて、「超めんどくさいな」みたいな感じだった。それが自分の中の何かが変わってから、コンタクトしてくれることが素直に嬉しくなってきました。

──当時のブログ記事を読むと、「バ  ング  ント」のパフォーマンスを即神仏のような神懸かった行為としてとらえられたくないと飴屋さんは言われています。箱から出る時は普通に元気よく、みんなの期待を裏切るような感じで出たいと。
 そうそう。身体を拭くためのアルコールを持ち込んでいたから、出る前にはそれで一生懸命キレイにしました。出る頃には、気付くと手が寿司を握る形になっていて、「ああ、寿司が食べたいんだな、自分は」とわかった(笑)。最後の頃は北京ダックを食べに行く自分をイメージトレーニングしたりとかもしていました。

──箱の中に閉じこもった自分自身を展示物にするという行為は、“コミュニケーション”の問題をテーマにしているようにも見えます。
 そうですね。いつも僕がやっていることには色んなことが重層的に走っているとは思う。例えば展示物として見せると言っても、まあ僕の姿は外から見えないわけじゃないですか。「箱の中に入っています」と書いてあっても、それは言葉の情報として伝わっているだけだから、ウソかもしれないし、ウソに違いないと思っていた人だってたくさんいたわけです。あるいは「夜は出てきているに違いない」と思いたい人は思うわけだし。箱の中に持ち込んでいるものが書いてあったって、確かめようがないからそれが本当かどうかもわからない。そういった“リアリティ”を巡っての展示とも言える。
 HIVのウィルスが混入されてる血液を「このウィルスは空気感染しません」という言葉を付けて展示した時も、それも書いてあるだけだから、見ている人に本当のところはわからない。でも人って書いてあればものすごく恐れるし、書いてなければ「何かどう見ても血っぽい液体だな」ぐらいの感じでとらえる。それは友人とか家族とか、会社の同僚に、何かを“告白”された時も、そうなのかもしれない。でもその一方で、それが本当かどうかっていう判断は、言葉だけで行っているわけではなくて、同時に言葉以外のことからもキャッチしているので、「これ嘘だな」とかも感じる能力もある。だから僕はコンセプトの提示、というような展示はやりたくないんです。
 「バ  ング  ント」も箱の中で時々ゴソゴソって音がするだけだから、何かの仕掛けを入れておいて、時々ゴソゴソって動かせば人がいる風に見せられるし、演劇というのはそういう仕掛けをいっぱい使うわけです。これによって人がいるということにするとか、死んだということにするとか、この人は幽霊ということにするとか。そういう仕掛けや装置でリアリティを与えるとか、言葉でリアリティを与えるとか、映像でリアリティを与えるとか、人が実際にいてリアリティを与えるとか、人が実際にいることと言葉の組み合わせでリアリティを与えるとか…色んなリアリティの与え方があると思うけど、そういうことを巡っていっぱい色々考えます。
 
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