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Artist Interview
Norimizu Ameya, an artist who directs stages with a strong degree of reality
強度あるリアリティを用いて舞台を演出するアーティスト 飴屋法水
飴屋法水
飴屋法水
飴屋法水
──箱の中に閉じこもっているだけの展示なのに、コミュニケーションのこと、生と死のこと、現代美術のやっていること、現代社会のあり方など、色んなことが瞬時にシンボリックに頭の中を駆け巡ってしまう。そういうパフォーマンスをひとつの言葉で説明するのはとても難しいですよね。飴屋さんの作品は舞台にしても、ライブにしても、飴屋さんの感覚を見ている側がそのまま受け取るような表現なので、言語で解釈して説明することが野暮な気がしてしまいます。
 言葉で説明できないと言うと逃げみたいな感じになるところもあるから、「言葉じゃないよね」とか言うのは好きじゃない。言葉にすることも大事だし、喋ることも大事だと思っている。けど、自分が何かやる時は、基本的にはすごく複雑なこと、何かが多層的になっている感じをやりたいので説明するのがどうしても難しくなる。
 そういう多層的な感じというのは、音楽が好きというのと繋がっていて、音楽ってひとつの音が鳴っている状況はほぼあり得なくて、必ず何かの音が複合的に鳴っている。聖徳太子が何人もの声を同時に聞くとか言うけど、音楽の聴き方って誰でもそういう聴き方をしているでしょ。ベースが鳴って、ギターが鳴って、ドラムが鳴って、歌があって、みたいな。歌ものだったら、言葉もあるしね。それを同時にとらえて複合的に聴いていると感じるということは、一方でバラバラに聴いているということでもある。で、「このベースいいね」って言ったりする。そういう感じのことをやりたいんだけど、そのバランスの加減を図っている瞬間はどうしてそうなるのか理由を聞かれても絶対にわからない。ミキシングの時に「ベースのボリュームをちょっと下げた理由は?」って聞かれても、それはまあ、後づけで、言おうと思えば言えるけど…みたいな感じでしょ。と言って、それを、センスです、で片づけてもちょっと違う。

──実際に、飴屋さんが演出する舞台からは、作曲行為と演奏行為が同時進行しているようなムードが漲っています。ライブでミキシングする様子も含めて見せるライブというか、音楽で言えばダブやライブ・エレクトロニクスみたいなつくり方をされているんだと思います。
 多分、そういう風に見たほうが、楽にもなると思うけど、言葉があるものは意味が強いからバランスがそっちに傾くので、とにかく何とか「解釈しよう」と思って見てしまう人もいて、そうなるときっとしんどいものがあるだろうなとは思います。

──飴屋さんはいつ頃から音楽をつくり始めたのですか?
 いや音楽をつくっているという自覚なんてないです。今さら卑下するつもりはないけど、「自分は何にもできない」という気持ちが本当に強い。だから、音楽をちゃんとやっている人をすごく尊敬しているし「いいなあ」って思う。役者さんも、ちゃんとやっている人を見ると「いいなあ」って思う。だから自分が音楽をやっているなんておこがましいって感じです。でももう歳も取ったし、そういうことはあまり考えないようにして、自分で決めてもロクなことはないから、全部、人に決めてもらおうと(笑)。人に決めてもらうのはズルイのかもしれないけど、表現ってどうしてもある意味少しイヤらしいところがあるじゃないですか。自分で何かをつくって「これには価値があります」ってお金を取るみたいな。とてもじゃないけど、自分で「僕の音楽、お金払って聴いて」みたいなこと言えないですから。だから、誰かに「これをやって」「それでいいからやって」と決めてもらわないととてもできない。

──飴屋さんのソロライブとかあり得ないですか(笑)。
 あり得ないです! 役者さんとかも、根本的にはちょっとイヤらしい仕事でしょ。あるイメージを自分なんかが体現して、人にお金もらおうとか、ましてや感動してもらおうとか、「何様だよ」みたいな(笑)。そういう意味で、いわゆるスターと呼ばれる人は本当に次元が違ってすごいなと思います。「俺を見ろ!」みたいに言えちゃうわけでしょ。これは全然悪口じゃなくて、たとえばベンジーさん(浅井健一)のライブに行くと、出て来ていきなり「ハローベイビー!」みたいな感じでやれちゃう。これができるからスターになれるんだ、すごいなって。僕はそうしても「あ、どうもスイマセン」としか言えないので…(笑)。まあ、「価値があるかを決めるのはやっぱり他人だな」とつくづく思います。だから他人が「やれ」と言ってくれているうちはやるし、話が来なくなれば生きていくために何か職を探して働いて食べていくだろうと。それは自分が決めることではなく、他人が決めることという気持ちはすごく強いんですよね。

──アーティストの創作に対する姿勢というよりも、それはつまり飴屋さんの人生観そのものですよね。そのような人生観には、ペットショップを開くなど、動物たちと過ごしてきたことが影響しているのでしょうか?
 小さい頃から動物がすごく好きで、身の回りに絶えず動物がいたからそういう育った環境も影響していると思います。動物が絶えずいるというということは、生き死にをいっぱい見るということ。生き死にも見るし、発情して交尾して卵を産む過程とかもいっぱい見るから。魚とか昆虫とかが一番顕著だけど、当然のようにかなりの数が死ぬことを前提にシステムが組まれているでしょ。死が当たり前のことになっているのを見てしまうし、自分が初恋をする前に、コオロギの交尾とかいっぱい見てしまう。だから、自分が思春期になっても、恋愛感情が沸いてきても、「あー、これが発情期か」みたいな(笑)。だから、そういう意味では、まともに恋愛とかしたこととかないと思う。

──全体を俯瞰して見る癖がついている?
 俯瞰は必ずしますよね。それが自分のバランスだと思うけど、だからといって別にニヒルなわけではなく。俯瞰して「だから意味がない」とかっていう気もなくて、ちゃんと半分はそのことに強くとらわれている。ご飯とかも全く同じですよ。ちゃんと食べたいって思うし、美味しいものが食べたいとは思うけど、でもそれはいつも半分であって、もう半分は、食べて消化してウンチになってということを考えている。好きになった相手とデートしていたとしても、胃の中とかがすごく気になる。「ああ、彼女が10分前に食べたハンバーガーが今胃の中でどうなっているんだろう」とか、「その胃がここにあるな」ということは絶対に忘れない。半分は夢中になれないというか、なりようがないという感じです。

──じゃあ、他人の恋愛とかはすごく精神的な部分が肥大化しているように見えるのではありませんか?
 まあ、見えますよね。でも一方ではちゃんと気持ちはわかるというか、決して無意味に見えるとかバカにみえるということはない。「人間の場合はそうなるよね」っていう感じ。でも一方で「虫はそうなんないよね」とも思いますけどね(笑)。そのことだけに夢中になると、意味とか価値がすごく肥大化するけど、それについてはすごくおこがましい感じがいつもする。
 自分の子どもが死ぬことに例えるのが一番わかりやすいけど、そんなことがあったら当然、僕はすごく泣くし、ものすごく悲しいと思うに決まっていて、そこは全然ニヒルじゃないけど、でももう一方で、自分の子どもの命にそんな特別な価値などあるはずはないということもわかっている。そうでなかったら、今朝食べたタラコに申し訳なさ過ぎる。生物は個ではなく、種同士の関係の中で、一定数死ぬことを前提として当然あるんだから、「個が死んだからといってどうってこない」ということはちゃんとわかっていたいという気持ちのほうが強い。その上で、意味などぜんぜん無いものに、意味を与えながら、強い感情を抱きながら生きていくのが人間なんだ、と思います。
 
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