The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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Artist Interview
Norimizu Ameya, an artist who directs stages with a strong degree of reality
強度あるリアリティを用いて舞台を演出するアーティスト 飴屋法水
フェスティバル/トーキョー09秋プログラム
『4.48 サイコシス』

(2009年11月16日〜23日/池袋あうるすぽっと)
作:サラ・ケイン
演出:飴屋法水
http://festival-tokyo.jp/program/ameya/
4.48 サイコシス
4.48 サイコシス
4.48 サイコシス
4.48 サイコシス
Photo: Jun Ishikawa
──そういう自然と近い感覚があるかと思うと、飴屋さんは最先端の技術も普通に使われていますよね。先ほど仰っていたYouTubeの使い方も、超現代っ子っぽい。
 そうですね、そういう新しいものは好きですよね。「吾妻橋ダンスクロッシング」でやったパフォーマンス「顔に味噌」(国籍、職業、年齢などが異なる色々な20名の出演者がパフォーマンスしながらつぶやく)は、自分の中では“Twitter演劇”って名付けているんですけど(笑)。

──そういった直感で行われるパフォーマンスに対して、舞台表現としての意味を求められることについてはどう思われますか。
 自分がつくる時にも頭の中がそうなることがあるんですけど、「コレとコレによってコレが描けそう」「コレはこういうことで伝えられそう」みたいな。でもそこまでだとつまらないから、そうなることをすごく避けて行動していますね。「コレが言いたい」みたいなことだったらわざわざやる必要はないし、もうちょっとそうじゃない回路でつくったものじゃないと、「ふうん…」みたいな感じで終わってしまう。僕は散歩中に気になるものを携帯で写真を撮ったりしながら歩いているんだけど、「何でこれを自分は良いと思ったんだろう?」っていうのはほとんど説明不可能だけど、でも確実に、自分が今これをいい、面白いと思った感触は確かにある。そういう回路の方を大切にしたいと思っています。

──そういう飴屋さんの感受性を、他者との共同作業を通して具体化させていくわけですが、そのプロセスに興味があります。例えば、『4.48 サイコシス』ですが、これは客席と舞台を逆に使って、客席でパフォーマンスを展開されていました。ロビーにはバイクが半分沈んでいる血のプールのインスタレーションがあり、客席と舞台の間にも赤い血の池があった。音響担当は音楽の現場で活躍されているエンジニアのZAKさんで、出演者は山川さんを含めて俳優ではない人たちがほとんどでした。一緒につくる人にどうやって飴屋さんのつくりたいもののイメージを伝えているのですか。
 何にも伝えないですよ。例えば、今回の『サイコシス』で天気予報を読んでいる彼女は、稽古も半ばくらいになった頃に「どうしても出たいんです」ってメールが来た。池に沈んだ電話ボックスの中で電話しているサラリーマンみたいな彼も、「9月で会社辞めたんで、稽古場に遊びに行っていいですか?」ってメールが来て出ることになった。当たり前だけど、彼らが、そう動かなかったら、来なければああはなっていないわけだから、最初に何かイメージがあって伝えているわけではないんです。よく「飴屋のイメージ」みたいなことで語られることが多いのですが、決してそうではない。彼らが来たからそうなったわけで、違う人が来ていれば全く違うものになっていたと思う。いつもそういう答えの出し方だから、自分のイメージがどうのとか全く思わないです。

──そうすると『サイコシス』はどのようなプロセスでつくられたものなのですか。
 制作の人から何日から稽古場を押さえましたとメールが来たので、それは使わないと悪いと思って、稽古の1日目はひとりで稽古場に行って台本読んでいたんです。でも僕は本当に文字で台本を読めない人で、読んでいても眠くなっちゃうだけで何が書いてあるかさっぱり判らない。でも台本読んだ上で、それで、出たいと言ってくれてる人や、来てくれそうな人に声を掛けたりして少しずつ人を集めて、とりあえず読んでもらう。

──まず役者さんにやってもらって、それを見ることから始めるわけですね。
 それを見たら次のことが自然に出て来るだけで、プランは何にもないんです。気象情報を読む彼女も、出たいと言われたら、なるべく出してあげたいと思って台詞を読んでもらう。でもどの台詞を読んでもダメだった。この、なんかダメということはわかるんです、自分にも何らかの判断ラインがあるので。でも山川さんが彼女を見て、アナウンサーみたい、と言ったので、気象情報を発語してもらったらすごく良かった。「じゃあ、お天気アナということで」みたいな感じで決めていくわけです。稽古が始まって最初の1カ月ぐらいは、『サイコシス』っていうものが、いったいどうなるか、確かめながら探っている、という感じです。

──そのように探っていって、本番直前のギリギリ最後のところまで調整している?
 そうです。最後まですごく調整しますし、最後のほうにならないとわからないことのほうが多いですから。だから稽古期間が半年あれば、また変わるだろうし、もっとあればまた変わる。そのプロジェクトを決めるのは制作の人なわけで、今回で言えば2〜3カ月というのが与えられた期間だったので、その間毎日考え続けて、気付いたことでつくっていきます。これも例で言うと、「サイレンス」というト書きがあったのですが、ト書きだけど、この「静寂」という言葉は音として発語されたがってる、ということに、ある日、気付くわけです。そういうことのための時間が3カ月だったら3カ月分あるという感じです。ですから、作品ごとの全体像がわかるのはいつも初日直前です。

──例えば1年間あって途中で3回発表するとなると、すべて違う作品になるということですよね。
 自然に違う作品になりますよね。ある町に引っ越して、その町の色んなことが自分にどう見えるのかっていうのは、1週間と1カ月と3カ月では全然違うじゃないですか。その町がわかるための時間って絶対に必要だから。台本と1カ月付き合えば、引っ越して1カ月目の自分、3か月なら3カ月分の自分みたいな、そういう感触に変わっていく感じで、作品が自然と変わってくるということです。

──開場直後にロビーに展示されていた血のプールの周りを、子ども(飴屋さんの娘)が走り回っている仕掛けもあったそうですが、そういうことも直前に決められたということですか。
 子どもが走るのは僕が決めたことじゃないです。勝手に走り始めただけで、よく回ってるなあと思って見ていましたけど(笑)、本当にグルグル回っていましたね。

──そういうことも含めて、全然問題ないということですよね。多分それを見た人と見ない人とでは、作品の印象も違うと思います。
 ああ、そうか。そうですよね。そういうものだと思います。僕はあんまり演出席って設けないんだけど、演出席って考えてみると本当に奇妙なものじゃないですか。だって、その席で見られるお客さんは本当にひとりだけで、残りは全部違う距離と角度から見ているのに、その席から見て「もうちょっと右」「そこでオッケー」とか言っている自分は何なんだって思うんですよ。そういうところは映画と決定的に違う。他人はもう全然違う角度から見ていることとかも全部前提にして、なぜか良しとしていくようなものが演劇だと思います。
 
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