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Performing Arts Network Japan
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Artist Interview
Norimizu Ameya, an artist who directs stages with a strong degree of reality
強度あるリアリティを用いて舞台を演出するアーティスト 飴屋法水
──『サイコシス』の台本を役者に読んでもらったときに何か感じたことはありますか。
 いや、とにかく内容がよくわからなかったけど、ただ、“声”のことがすごく…まあいつも気にしていることですが、いつも以上に気になりました。声のバランスみたいなこと。山川さんの心臓の音も大きいし、コオロギの声も結構重要だったから全体のバランスが最後まで難しかったですね。コオロギは1日だけあまり鳴かない日があって、超焦りました。なんで鳴かなくなったのかよくわからなくて、本番が始まってから「アレ?今日は鳴いてない」って(笑)。

──あれは本物のコオロギを使っていたんですか!?
 そうです。本番中に「鳴いてないから何とかして!」ってスタッフに言って(笑)、慌てて楽屋に残ってるコオロギを取りに行ってもらって増やしたりとか。本番が始まるまでどうなるかわからないんですよ。もうコオロギだけは完全なコオロギ任せですから、その日の湿度やシーンの明るさや音なんかで鳴いたり鳴かなかったりするのに任せているんですよ。でも任せていながらも「いくらなんでも今日は鳴き過ぎだろう!」という日があって(笑)。その日は「スイマセン、ちょっと減らしてください」と本番中にスタッフにお願いして数を減らしたり。

──てっきり録音されたコオロギの鳴き声を音響のZAKさんがライブでミキシングしているものだとばかり思っていました。客席と舞台を逆転させていたので、音響装置も客席側につくってありましたが、そういう装置プラン全体についてはZAKさんが担当されたのですか。
そうです。そのことは今回の舞台ですごく大きな位置を占めています。血の池に水中スピーカーを仕込んで、そこからも声を流すようにして山川さんの台詞の声をすごく多層的にしたり、ZAKさん自身も自分でいくつか音を出したりしています。ZAKさんや照明の高田政義さんに関しては、ほとんどお任せです。高田さんが「今日はちょっと新しい光のプランを考えたんですけど」って言ってきたら、「あ、じゃあ、本番で見ますから」って感じです。

──基本的にワーク・イン・プログレスなわけですね。
 と、言うんですか? 水中スピーカーから、山川さんの声と同時に、不思議な楽器の音が混ざってるんですが、それが何の楽器の音かはZAKさんが考えてやっているので、知らないですし。

──『サイコシス』を見た時に思ったのは、テキストを追いかける必要がないというか、冒頭のシーンがあればそれでいい、途中のあのシーンがあればそれでいいという印象がありました。
 ああいう現代劇の翻訳ものは台本を簡単には変えちゃいけない縛りがあって、原則としてカットしちゃいけないし、構成のチェンジもダメだったから正直しんどいなあと思いました。「これをこのまま全部セリフにするの?えーっ!?」みたいな、苦行のようなものだったんだけど、その苦行の中でこそ、自分の中に出て来る感覚というものもあるから、それがそのテキストをやる意味なんじゃないかと。それは平田さんの『転校生』をやったときも同じで、女の子が落下するシーンやあのエンディングも、その苦行にみんなと一緒に潜っていった結果、稽古場で自然発生的に出て来たもの。逆に言うと、「こんな台本わけがわからん」というところから始まって、その苦行の結果、そういうシーンが出来てからは、本当は台本の行間に、そういうことが最初からすべて書いてあったんじゃないかと思える。

──飴屋さんのそういう感覚を受け取る感じは、演劇を見るというより、格好いい音楽を聴く時やライブを観ている時の感覚に似ています。
 良い音楽って、最初の音が鳴った瞬間にだいたいわかるでしょ。僕は音楽もあんまり通しで聴かないんだけど、通して聴かなくてもいい音楽は、すぐにわかる気がします。昔、状況劇場で音響を担当していた頃、NHKのレコード室に出入りしていたことがあって、そこにあった何万枚のレコードを自由に聴くことができたんです。あらゆるジャンルのものを、ほとんど全部針を落としたけど、曲の最後まで聴いていたら全部聴けないから、LPに針を落として、ボンボンボンと初めの方だけ全部聴いていった。でも、強度のある音楽は針を落とした瞬間にもうわかる。まあ、演劇は最初だけでオッケーというわけにはいかないので、最後までもっていかなくちゃいけないから、結構大変ですよね。
 でも一方で、ムダに見えるようなことも含めてすべて込みであっていんじゃないかと。僕は動物と付き合っているからかもしれないけど、そういう無駄っぽい時間に意外と耐えられるんです。3歳の娘との散歩も3時間とか5時間とか長いんですよ。その間、ずーっと自分の立ち位置を取り続けなきゃなくちゃいけない。離れすぎれば危険だし、近すぎると影響を与え過ぎちゃうので、適切な距離を取りながら、どの位置から見るかをずーっと決め続けてる。そういうのは稽古中と何にも変わらなくて、子どもとの散歩に集中してクタクタになる(笑)。で、その中で面白い瞬間って本当に少ないけど、でも僕はそういう時間には意外と耐えられるんですよね。

──お子さんとの散歩のお話を伺っていても思うことなのですが、飴屋さん自身が身体を使って色々なことを感じるセンサーのような状態でいながら、同時に、飴屋さんの表現領域の中にいるお子さんや観客といったすべての人物もまた飴屋さんのセンサーのサテライトになっているという共感関係があるように思います。
 そういうことなのかどうかはわからないけど、感覚的に言えば“自分”が本当に無いという感じなんです。稽古場でも、ずっと他人のことを考えているだけ。そんなに大したことを考えているわけではないけど、いつも他人のことを考えている。まあ、人が好きなんだと思いますが、人に限らず全てが好きなんですけど。その人のこととかを考えているだけで、「自分が○○したい」というのは本当に何にもないんです。でも、「演出家」という役割上、決定権をもらっているから、自分が決めるのはおこがましいけど、例えば「ここに○○さんが座ったほうがなんかとてもステキ」ということでその決定権を行使していく。だから、僕にとっては○○さんのことでいっぱいになるという時間が過ぎていくだけで、「自分」という意識は全くないんです。そういう意味で、自分が特に何かすると思っていないから緊張もしないし、その時間は一生懸命その人のことを考えようと思っているだけなんです。

──稽古場にはお子さんをずっと連れてきていらっしゃったそうですね。
 最近、お芝居の台詞をとにかくすごく覚えていて面白いですよ。覚えている台詞は、多分彼女にとって何か印象的な台詞なんだと思いますが、一番最初に「論理の海に溺れてる!」って叫んだ時には「何でそれなんだよ」って(笑)。彼女の中に何かのバロメーターがあるのだとは思いますが…。「ねえ、人が間違った体に生まれるなんてこと、あると思う? ア・ローング・サイレンス」とか、昨晩も言われました、枕元で(笑)。
 
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