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ケラリーノ・サンドロヴィッチ
ケラリーノ・サンドロヴィッチ
1963年生まれ。横浜放送映画専門学校(現・日本映画学校)を卒業後、バンド「有頂天」を結成し、ヴォーカリストを務める。インディーズ・バンドブームの中心的な存在として音楽活動を行う一方、劇団健康を旗揚げして、1985年から92年までナンセンス・コメディを中心とした作品を発表。93年に演劇ユニット「ナイロン100℃」を立ち上げ、ほぼ全公演の作・演出を担当している。公演を「セッション」と称し、レギュラーメンバーに加え、毎回、多彩な客演を招いた企画性豊かな舞台を展開。得意のナンセンス・コメディのほかに、シチュエーション・コメディ、ダンス・映像・コントなどをミックスしたライブ的作品、女優だけによる西部劇など、多様な作品を発表している。99年に『フローズン・ビーチ』で岸田國士戯曲賞受賞。2002年第1回朝日舞台芸術賞、2002年『室温〜夜の音楽〜』で第5回鶴屋南北戯曲賞および第9回読売演劇大賞優秀演出家賞を受賞。
http://www.sillywalk.com/nylon/index.html
NYLON100℃ 34thSESSION
『世田谷カフカ』〜フランツ・カフカ「審判」「城」「失踪者」を草案とする〜」

(2009年9月28日〜10月12日/本多劇場)
脚本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
世田谷カフカ
撮影:引地信彦
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Artist Interview
2010.1.26
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Serious postmodern comedy  Keralino Sandorovich  
ポストモダンなシリアスコメディ ケラリーノ・サンドロヴィッチ  
小劇場演劇ブーム、インディーズバンドブーム、自主製作映画ブームと、インディーズシーンが活性化した80年代の東京をバックグラウンドに登場した劇作家・演出家のケラリーノ・サンドロヴィッチ(63年生まれ)。ロックバンド有頂天のヴォーカリストおよびインディーズレーベル「ナゴムレコード」のオーナーKERAとして注目を集めるさなかに、「劇団健康」を旗揚げし、ミュージシャンから演劇の道を歩むようになった経歴をもつ。93年からは演劇ユニット「ナイロン100℃」を母体に、同世代の平田オリザ、松尾スズキらとともに日本の現代演劇シーンを牽引してきた。作品を生み出すハイペースぶりもさることながら、シリアスコメディ、評伝劇、SFコメディなど、さまざまな題材を引用しながら紡ぎ出す世界の多様さには目を見張るものがある。作品のベースにあるのは、1960年代東京生まれ、東京育ちの早熟な少年が吸収してきた、映画や音楽、文学に演劇などの幅広くもマニアックなメディア体験。ポストモダンな時代の寵児、ケラの演劇ワールドをたどりながら、その原風景を探るインタビュー。
(聞き手:扇田昭彦)



──1985年の劇団健康旗揚げから今年で25年。ケラさんは劇作家・演出家としてもベテランの域に入り、非常に多彩な新作を次々と発表し、日本の現代演劇の可能性を広げている方だと思います。もともとミュージシャンとして活動していた人が劇作家・演出家になるというのは、あまり例がなかったと思うのですが、まずは劇団結成のきっかけから聞かせてください。
 今も一緒に芝居をやっている犬山イヌコが、当時は僕の音楽仲間でバンドのメイクを手伝ってくれていたんです。音楽をやりながら女優を目指していた彼女のために、文化祭用のコントのようなものを遊びで書いたのがきっかけになって、劇団をやらないかという話になった。ちょうど鴻上尚史さんの第三舞台なんかが話題になり始めた頃。メインストリームではなかったけれど、宮沢章夫さんのラジカル・ガジベリビンバ・システムと、旗揚げしたばかりのワハハ本舗の2大お笑い劇団があって、日本の演劇シーンのある側面を引っ張っていました。かたやスタイリッシュ、かたやベタベタというまったく方向の違う笑いで、僕は両方を観るために2カ月に一度くらいは劇場に通っていて、気持ちはそれなりに演劇のほうに傾いていたんですね。
 そんな時に劇団をやらないかと誘われたので、バンドの観客で客席は埋まるだろうという小ずるい皮算用の下に(笑)、ナゴムレコードという僕がやっていた自主レーベルによるプロデュースという形で劇団の旗揚げ公演をやりました。だからそんなに長く続けるつもりもなかったし、最初の頃は客席もバンドのお客さんがほとんどという状態でした。

──ケラリーノ・サンドロヴィッチという日本人らしからぬ芸名の由来は。
 高校時代に演劇部で先輩が付けてくれた名前がケラでして、それが有頂天でのニックネームになっていました。劇団立ち上げ公演のチラシを作るのに何か名前をつけなきゃと、一過性の名前のつもりでケラリーノ・サンドロヴィッチという名前を入れたんです。
 僕はマルクス・ブラザーズが大好きなんですが、役名をつけるときに、例えばグルーチョの演じた役名はドクター・ハッケンブッシュとか、ルーファス・T・フィアフライとかやたらと長くて仰々しい名前が多いでしょ。チコはイタリアなまりが売りなので、チコリーニといった具合になる。多分そのマネをしたんじゃないかと思います。あまり覚えてないんですが。コントをやっているくせに何か仰々しい名前が付いているのが面白いと(笑)。 

──マルクス・ブラザーズの名前が出ましたが、ケラさんの場合、映画や音楽や文学など子どもの頃から慣れ親しんできたものが作品のベースになっているように思います。それを知るために、少し子ども時代のお話を伺いたいのですが、お父さんがジャズミュージシャンでいらしたとか。
 ええ。父親がジャズをやっていたというのは大きいと思います。由利徹さんとか森川信さんとか当時の日本のコメディ界を代表するような方々が周りにいて、幼い僕を抱いてくれているエノケンさんの写真もある。そんなジャズが毎日鳴り響いているような生活をしていたのですが、小学生の頃、「大正テレビ寄席」という牧伸二さんがやっていたテレビ番組で小野栄一さんを見たんです。チャップリンの形態模写をひとつの売りにしている方で、僕はそれで初めてチャップリンのことを知った。その直後に「ビバ!チャップリン」というチャップリンのリバイバル連続公開があって、第1弾の『モダン・タイムス』を観に行き、それでドップリはまりました。『エクソシスト』や『燃えよドラゴン』といった当時流行っていた映画とは全く違う世界。声がないしモノクロだし、全編にジャズとクラシックの間みたいな音楽が流れていて、そこで台詞を使わずに笑いを連発する。何か夢の世界のようですべてが魅力的で、ものすごく魅了されました。

──それが無声映画との出合いだったんですね。
 次にハマったのがバスター・キートン。ちょうど失われていたはずのネガが見つかって彼の全作品が甦った時で、やはり10何本が連続公開されて大学生を中心に話題を呼んでいました。僕はまだ小学5〜6年でしたが、夏休みなどは1日中映画館にいて見ていました。売店のおばちゃんが僕の顔を覚えてくれて、ラスクをもらってとても嬉しかった。「1日何も食べないで何でこんな所にいるの?」って言われて。
 僕は今でもそうなんですが、チャップリン、キートンとくると、他にどんな人がいたんだろう?と調べずにはいられない性格なんです。で、古本屋に行って昔の映画雑誌を貪るように見たりしているうちに、「チャップリン、キートンとくればハロルド・ロイドなんだな」とわかってくる。そうやってトーキーになったらマルクス兄弟だという感じで、どんどん知識と興味が広がっていった

──少年時代に無声映画のフィルムをコレクションしていたというのは本当ですか。
 サイレント・コメディ好きが高じて、輸入代行業を通してアメリカやドイツ、イタリアからマニアックな無声映画のフィルムを買って、コレクションし始めたんです。途中で勝手に親父の定期預金を200万下ろしたりもして、ものすごく怒られた。中学生くらいになると場所を借りて自分で上映会も主催していました。大人が来ると、「お父さんのお手伝いしてるの?」と言われるんで、めんどくさいから「そうです」って(笑)。

──その中でもケラさんが好きだったのがバスター・キートンだったそうですね。キートンは今に至ってもケラさんの作風を決定しているようなところがありますね。
 キートンって、計算しているのか、人間性からくるものなのかわかりませんが、媚びない笑いで、クールで悲しい感じがしますよね。チャップリンが無声映画を好きになるきっかけではあったんですが、色んな事を知るにつれ、キートンとマルクス兄弟、つまり、やっていることがヒューマニズムから一番遠いところにあるアナーキーなものに惹かれるようになりました。バスター・キートン、マルクス兄弟、『モンティ・パイソン』の3つがなければ、今のような仕事は、少なくとも継続はしていなかったでしょうね。そこに、30歳を超えた辺りからウッディ・アレンが加わるんですけども。
 
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