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Artist Interview
Serious postmodern comedy  Keralino Sandorovich
ポストモダンなシリアスコメディ ケラリーノ・サンドロヴィッチ
──高校は東京の日本大学鶴ヶ丘高等学校で、演劇部にいらした。ここは高校演劇の名門ですが、どんなものを上演していたのですか。
 顧問の先生の影響で、主にベケット、ピンター、別役実清水邦夫です。あとは安部公房。だから、さっぱりわからなかったです(笑)。でも「これ読んどけ」と言われて読んだ別役さんの本は、読みながら思わず吹き出してしまうくらい面白かった。僕が「くだらない」と言う時は良い意味で言うことが多いんですが、別役さんの本は「いい年してよくこんなくだらないこと考えているな」と思えたんです。ところが実際に舞台を観にいくと、不条理劇風にくら〜く演出してしまうとその“しょうもなさ”がなくなってる。別役作品の不条理さ、すれ違いのおかしさは普通にやった方が表現できるのになあと思いました。

──94年にケラさんが演出した別役さんの『病気』は、ラジオのDJで有名な小林克也さんを主役の中年サラリーマンにキャスティングし、変な看護婦にいじられるというナンセンスコメディとして演出されていて、別役作品の上演史を引っ繰り返した印象があります。そういう感じはすでに高校生の頃からもっていたんですね。高校生で演劇をやっていたのに、その後、映画の専門学校に進まれたのはなぜですか。
 日本大学の付属高校だったからそのまま日大に進むつもりだったのですが、そのための統一テストの時期に入院してしまったんです。その矢先に、深夜のラジオで小沢昭一さんがナレーションをしている「大学落ちたら横浜放送映画専門学院!」というCMを聞いたので、じゃあ行こうと(笑)。当時は映画監督の今村昌平さんが学院長でした。パンフレットを取り寄せたら、いきなり「映画で食うのは無理だ。女に食わせてもらえ」とあるようなユニークな学校で、映画の世界は尋常じゃないんだというところから始まりました。

──日本映画では、当時のベテランで例えば岡本喜八のような喜劇センスのある監督もいたと思いますが、影響を受けた人はいますか。
 岡本喜八さん、川島雄三さん、中平康さん、市川昆さんの一部の作品など、すごくかっこいいなと思うものもありました。フィルムセンターなどにもよく行っていましたし。たとえば川島雄三だと『貸間あり』とか、『幕末太陽傳』のラストが墓で終わるというところとか。人生の暗部を“泣かせ”ではないところでドライに提示してくるような作家が、かっこいいなと思っていました。

──にもかかわらず、映画の世界には進まなかった。
 知れば知るほどネガティブになるようなシステムでしたからね。当時の映画界はまだ、助監督のフォースから叩き上げて、10年間かかってようやく監督になって、撮りたくもないものを撮らされて当たらなかったら次はない、みたいな世界でしたし。僕が興味のある題材も、先輩たちに「邪道だ」「テーマがなきゃダメだ」と言われてしまうような経験があったりして、映画業界に幻滅を感じるようになっていったんです。
 一方で、当時は石井聰亙さんが『爆裂都市』を撮り、手塚眞さんが8ミリで『MOMENT』という作品を撮って若手のホープとして注目されたり、自主制作映画の登竜門としてぴあフィルムフェスティバルが始まったりと自主製作映画の新しい動きがようやく出始めた頃でした。でもそこでニューウェイブとして出て行くのも非常に狭き門で、迷っていた時に、インディーズのバンドが盛り上がってきたんですね。

──楽器などはやってたんのですか。
 やってないです。親父がウッドベースやっているのを「うるせえな」と思いつつ見ていたくらい。その頃日本は、シンセサイザーとコンピューターを駆使したテクノポップの黎明期で、その代表であるYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)やパンキッシュなテクノのP-MODEL、グラフィック・デザイナーやスタイリストなんかが結成したプラスチックス、元ミスター・スリム・カンパニーの俳優だった巻上公一がヴォーカリストとして参加するヒカシューなどが出てきていました。パンク・ムーブメントがまずあって、その後、そのパンクな精神をテクノロジーを使って表現していくニューウェイブやテクノのブームが続いた。そこではアートスクール出身の人たちが弾けもしない楽器をもって表現したりしていて、僕もそれにすごく触発されて、自分もバンドをやろうと映画から離れていったんです。バンドは4、5人でパッとできるし、オーディエンスは思いの外みんな喜んでくれるし、気が付くと周りに変な奴らが集まっていて、将来どうするかも考えずにバンド活動をしていました。

──そのバンド、有頂天でボーカルを担当されただけでなく、インディーズレーベルを主宰し、メジャーデビューもされた。ケラさんのバンド活動を、お父さんは結構喜んでいらしたんじゃないですか。
 照れ屋だったから直接僕に言うことはありませんでしたが、死んでから親父の友達に「俺より音楽の才能あるかもしれないな」みたいなことを言っていたと聞きました。亡くなったのは僕が27歳の時で、その3年くらい前から、病気であと2〜3年ですと言われていたので、覚悟はしていたんですが…。

──お父さんが脳梗塞で入院されて、看病しながら書かれたのが88年の『カラフルメリィでオハヨ〜いつも軽い致命傷の朝〜』です。これはケラさんの劇作の中でも転機になった作品ではないかと思います。ある病院からの脱走劇と痴呆症の老人の話が絡み合うナンセンス・コメディです。「死」がテーマになっていて、悲しみが深い分逆に笑いが増えてしまうという、普通はあり得ないようなことが起こる非常に感動的な作品でした。自分の身近なことを書かれたのは初めてで、その後もあまりないですよね。
 あの時は、書くとしたらあれしかなかったという感じでした。
 『カラフルメリィ〜』以降、自分の中で変わったことというのが確かにあって。僕はアメリカ的な、健康的な笑いというのがあまり好きじゃなくて、イギリス的な自虐的な笑いが好きなんですが。なぜ、そう志向するのか?ということを、自分が生きていくことと関連づけて考えるようになった気がします。
 自虐的な笑いを突き詰めていくと、人生はそんなに楽しいことばかりじゃないけども、それでも生きていく、生まれて来ちゃったんだから、まあやっていこうよ、ということなんじゃないかと思います。あの作品はそういう作風に自分を向かわせたきっかけにはなっていますね。
 
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