The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Contents
Artist Interview
Serious postmodern comedy  Keralino Sandorovich
ポストモダンなシリアスコメディ ケラリーノ・サンドロヴィッチ
NYLON100℃ 34thSESSION
『世田谷カフカ』〜フランツ・カフカ「審判」「城」「失踪者」を草案とする〜」

(2009年9月28日〜10月12日/本多劇場)
脚本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
世田谷カフカ
撮影:引地信彦
──健康は92年に解散し、93年からはナイロン100℃という演劇ユニットに切り替わるわけですが、それはどうしてですか。
 『カラフルメリィ〜』のようなイレギュラーな作風のものもありましたけど、そうは言っても健康というのは、やっぱりナンセンス系のコメディを専門にやるためのチームだったわけです。目指すはモンティ・パイソンだった。そのことに限界が見えてきたというのがありました。ナンセンスの臨界点に達してしまい、もう、何が可笑しいのかよくわからなくなった。「何も起こらないのが一番可笑しい」みたいな(笑)。役者さんの上手い・下手の基準もそうだと思うんですが、良いもの/悪いものの基準というのはとても多義的なものですから、もう少し視野を広げて、いろんなことをいろんな価値観で認めながらやっていけないか?という思いが個人的にあってナイロン100℃にしました。
 とは言え、1本目は健康時代と似たことをやっていて、2本目の『SLAPSTICKS』で評伝劇&メロドラマをやってから、一気にふっ切れた感があります。舞台の上でできる表現は何でもやっていこうという方向になっていきました。

──ナイロン100℃になってからのケラさんは、多い時には年間5〜6本の新作を発表するなど、作品数がすごく増えましたし、作品のタイプも非常に多彩になりました。昔やっていたようなナンセンスコメディに評伝劇、SF喜劇のようなもの、最近では非常にシリアスな悲喜劇といった趣の作品もありました。これだけ間口の広い作家は珍しいですね。
 自分が飽きるのが恐くていろんなことをやっています(笑)。それと、僕は、失敗するのは絶対ナシだと思っているわけではなくて、上手くいくこともいかないこともあるけど、やらないよりは色々やって後で良かったなと思えればそれでいいと思ってるんです。1本の作品をつくり上げるだけの種火が自分の中に点りさえすれば、迷わずそれを作品にしていくという姿勢なので。そうじゃないと多分こんなにたくさんつくれなかったと思います。

──作品を作る時に、どういうものにインスパイアされて、それをどう作品化していくのか、そのプロセスを聞かせてください。
 プロセスも何も、ドタバタしているうちに初日が来てしまうんですけど(笑)。例えば最新作の『東京月光魔曲』は、昭和初期の日本の風景を、YouTubeで見たのがきっかけでした。それがカラー映像だったんです。当時日本にはカラーフィルムがなかったですから外国人が日本に来た時に撮った映像で、浅草などの風景が補修も施されてすごくキレイな状態で見られたんですよ。それと、大家になる前の谷崎潤一郎や江戸川乱歩なども書いていた「新青年」という雑誌をまとめて読んだことも刺激になって、太平洋戦争前のエネルギーに満ちあふれた時代の東京を舞台に探偵小説風の群像劇を書いたら面白いんじゃないか、とイメージするようになる。そんなふうに幾つか偶然が揃うとグッと背中を押されるようなところがあって。僕は運命論者じゃないですけど、そうやって作品の材料は自然と揃っていくものだ、と感じています。

──2001年にはカフカの評伝劇『カフカズ・ディック』を書いていらして、昨年は『審判』『城』『失踪者』という彼の長編小説3本を元にした芝居『世田谷カフカ』を発表されました。カフカの影響は大きいと思われるのですが、10代の頃から読んでいたのですか?
 ええ、最初はよくわからずに読んでいましたし、『城』なんかは幾度も挫折しましたけど。カフカを読んで残るのは、ストーリーと言うより“情景”みたいなものですよね。例えばもの凄くたくさんの人が裁判所にいるシーンとか、銀行員たちがわき目もふらずにタイプライターを打っているシーン、会社の倉庫で人が鞭打ちされてるシーン。僕は恐いおとぎ話みたいなものが好きだったので、その延長線上で読んでいた気がします。ほかにはマルケスやトーベ・ヤンソンも好きだったし、もちろんグリム兄弟も大好きでした。
 『変身』は短くてわかりやすかったから、そこから例の僕の癖で、この作家は他にどんなものを書いているんだろう?とひと通り読み、調べていくうちに、この人はプロの作家としてはほとんど認められぬまま40歳で死んでいったのか、とか、マックス・ブロートという友達がいたから今のカフカがあるんだな、なんてことがわかってくる。バックボーンというか、人生そのものが謎めいていて、魅力的です、カフカって人は。そこからまた作品にフィードバックしていきました。
 書簡集などを読むと、人間味のあるところもあれば、融通の利かない、わがままなところも一杯あった人のようで、そこが面白いなと思いましたね。

──とあるホテルの10周年という設定で、オープン時の宿泊客たちの“10年後”を描いた2003年の『ハルディン・ホテル』や、最終戦争後の世界を生きる兄弟を主人公にした2004年の『消失』などが典型的ですが、ケラさんの作品は、一方に笑いがありながら、世界はどんどん崩壊していくというものが多い。
 「物事が良くなっていく」ということを自分の中であまり期待できないんでしょうね。僕らの子どもの頃には、21世紀は“バラ色の未来”“鉄腕アトム”などのポジティブなイメージがあったのですが、それがだんだん「そうでもないんじゃないか?」となっていった世代。未来が明るいかも、というイメージを提示できたのは、おそらくYMOが最後だったと思うんです。あの時でさえ、みんなこれは半分擬似的なものだと思いながら彼らのテクノポップを聴いていた気がします。それ以降は、もう未来に対してあまり期待しちゃいけないと思うようになった。どちらかというとユートピア的なものよりデストピア的なものに惹かれるのは、そんなところからきているのかもしれません。
 人間関係についても、人間の善意というものが裏目裏目に出ていくという、残酷なシチュエーションを書きたくなることが多いのは、登場人物がそういう事態とどう向き合っていくのかに興味があるから。それは、僕が幼い頃に、人間関係のことで悩んだことが原因なのかもしれませんが。例えばここに僕とAさん、Bさんがいるとしますよね。3人が揃って話すことと、Bさんが居なくなったところでAさんがBさんについて僕に言うことが違ったりする。そんなことがあるとその事態を、関係をどう処理していいかわからなかった。子どもの頃には誰もが感じるような些細なことだと思いますが、僕は多分他の友達よりも悩んでしまう方だったんだと思います。
 そういった経験が何故か忘れられなくて。今でもそういうシチュエーションはギャグとして作品に1回は必ず出てきますね。自分で分析し切れないこと、小さい頃に傷ついたことなどを、ちょっとした小笑いとして処理していくことで、どこか自分を清算しているような気持ちがあります。

──作品を拝見していると、登場人物には表のキャラクターと裏のキャラクターがあって、台詞も実は2通りあって、その選択の仕方でストーリーが違ってくるような感じがあります。このシチュエーションでは表キャラを出すからこの台詞になる、みたいな。そういう感覚はあるのでしょうか。
 例えば岩松了さんは「人は思ったことを喋らない」とおっしゃるわけです。台詞というのは相対的なものであって、シェイクスピアの時代のように、自分の思っていることをそのまま口にするわけではないと。それはそうだなと思う反面、僕は案外折衷的に、「でも、それもさじ加減じゃないんだろうか?」と思う。人は、思ってることも口にするし、思ってないことも口にする。色々だ、と(笑)。それが表キャラ・裏キャラといった感じに見えるのかもしれません。
 ただ、役者に演出する時は、「人は思うことを言うとは限らないんだ」ということは強調します。“台詞すなわち感情”だというふうに役者は解釈しがちなので。あるいは、嘘をついているから誤魔化すために言っているんだ、といった具合に極端な解釈をしがちです。「もうちょっとぼんやりした、曖昧なことなんだよ」「なぜ自分がこう言っているのかこの瞬間はわからないでしょ?」というくらいのゆるーいスタンスが、僕には合っているような気がします。
 
BACK
| 1 | 2 | 3 | 4 |
NEXT
TOP