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Artist Interview
Giving expression to dissected texts  The new possibilities of compositional theater pioneered by Motoi Miura
解体したテクストを発語する 構成劇の新たな可能性を切り拓く三浦基
地点『あたしちゃん、行く先を言って─太田省吾全テクストより─』
(2009年9月/京都芸術劇場studio21)
あたしちゃん、行く先を言って
撮影:清水俊洋
──太田省吾さんの戯曲だけでなく、評論なども含めた全テクストを使った『あたしちゃん、行く先を言って』をつくられました。三浦さんは基本的に太田さんと舞台づくりが似ているという気がしました。
 鈴木さんについては生の舞台に出合えましたが、太田さんの転形劇場はもう解散していたので観ていません。太田さんの作品で初めて観たのは『更地』だったのですが、全くわからなかった。つまらないとは思わないんですが、おもしろいとも思わなかった。それで、『水の駅』のビデオを死ぬほど見ました。これはやっぱり本当に凄いんです。時間に対する感覚とかプロットのつくり方とか…。鈴木さんは短気というか、短いずば抜けた集中力でつくられるんだと思いますが、太田さんの場合は大らかで、だけどもの凄い高いレベルで続いているフラストレーションの一点があるんだということがわかりました。
 だから、僕にとって太田さんは不思議な存在ですね。お亡くなりになってしまいましたが、ご本人とお会いするとおもしろいし、考えていることも僕よりよほど進歩的でした。京都で僕が演出した『Jericho』(作・松田正隆)を観て「これはすごい」と太田さんがはしゃいでくださって。生意気な言い方ですが、巨匠というよりもすごく若々しくて、演劇青年同士がお互いの作品を観ながら痛いところ突く、みたいなことができた関係でした。転形劇場の生の舞台に出合うことはできませんでしたが、太田さんの演劇に対する理念やそこでの迷いも含めて、側で見ることができた。チェーホフも『三人姉妹』を観て、「四大戯曲を全部やれ」と言ったのは実は太田さんです。

──なぜテクストを再構成するのかについて、もう少しお話しいただけませんか。
 戯曲を「再構成しよう」と思って読んだことはないと思います。読んだ時に引っ掛かってくる部分だけをやりたいということなんです。だから、「何がやりたくて再構成するのですか?」という質問には答えられない。こういう解釈でこういうことをやりたいから再構成するのではなく、ある意味で直感なんです。「この戯曲は絶対にいじらないでください」というのを前提にできたら、どんなに楽なことかと思います。でもそうじゃなくて、そのままやるということが苦しいんです。
 それはどうしてかと考えると、言葉のもつエッセンスというのが僕にとっては最重要だからだと思います。中原中也が好きだとか、思春期の頃は詩人になりたかったとか、そういう資質があるからだと思いますが、僕にとって文学というのは詩なんですよね。だから再構成せざるを得ない。台詞というのは、どこか詩(うた)と似ていると思っていますから。

──テーマがあって再構成しているのじゃなくて、直感だと。
 そうです。自分に引っ掛かってくる言葉を拾っている。でも、どういう言葉がひっかかるのかの傾向はもちろんあります。僕の隠れテーマはベケットだし、僕の演劇観にはベケットが水脈として流れていますから、ベケット的なるものを無意識に拾っていると思います。それは、現代演劇とは何か?ということに通じている。「物語の不在」であったり、存在論のことであったり、『わたしじゃない』に代表されるような、主体性を疑うという、そういうことですね。

──三浦さんが引っ掛かり、集団の関係性の中で結果的に言葉の集合体のようなものが出来るわけですが、観客に提示するまでのさらなる過程というのは?
 そこがグレーゾーンで、一番悩むところです。装置と言葉が、アフォーダンスと言っていますが、「順応」していく。言葉と空間が順応していくという過程が必要になります。僕にとって台詞は詩、歌だと言ったけれど、それだったら朗読、語りでいいわけですよね。そうではなくて生身の人間が演じるわけですから、俳優の身体性を伴うためには“装置の掛け算”が必要になってくる。そうしてある程度出来上がった時には、前段階で引っ掛かってきた言葉はほとんどが削ぎ落とされています。それを忘れた頃に、すごく幸運なときには、「やっぱりあれはおもしろかった」と不条理に復活した言葉がポンと入る。そうなると、言葉が、その言葉が光るわけです。何か別の文脈が流れているところにポーンと引っ掛かってくる。チェーホフの時はそうでした。

──三浦さんは「発語」とは言っても「語り」とは言わないですよね。
 「語り」というと物語の朗読になってしまうので、そこは意識的に区別して使うようにしています。『おもしろければOKか?』の中では「観客に語れ」と書いているのですが、これは「観客に」という対象があるので「語る」という言い方をしています。でもやっているのは物語じゃなくて、「あー」とか「うー」とかそこまで解体しているつもりなので、物語は存在しない。だから「観客に語れ」というのは「観客に無理に関われ」ということなんです。「あー」とか「うー」とかいう「発語」で無理に関われと。

──それは「あー」とか「うー」で感情であれ、意味であれ、いろいろなものが表現できるということですか。
 極端に言えば、「is」だけでチェーホフができるということです。「あー」ではできませんが、日本語では「です」や助詞の「を」や「私は」の「は」だけでチェーホフはできると思います。そういう意味で言うと、僕がやっている演劇は、極端な外国人と喋っているようなものなのかもしれません(笑)。言葉はわからなくても、俳優の関係性だけあれば見せられるとどこかで思いたいのでしょうね。
 
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