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Artist Interview
Insights from international activities—The latest interview with Toshiki Okada
海外進出で見えてきたもの 岡田利規の最新インタビュー
『わたしたちは無傷な別人であるのか?』
(2010年2月14日〜26日/STスポット、3月1日〜10日/横浜美術館レクチャーホール)
自民党から民主党への政権交代が実現した2009年8月30日の衆議院選挙前後の出来事。何もない空間に役者が出入りして舞台は展開。高層マンションへの引っ越しをひかえ、いつも通りの一見幸せそうな日々を過ごしている夫婦。そこに遊びに来ることになっている妻の同僚たち。夫婦二人だけになった夜…。観客の心の中に潜む、「幸福の中の不安」「不安の中の幸福」を役者の身体を媒介にして露わにしようとした野心作。
わたしたちは無傷な別人であるのか?
(STスポット公演)
撮影:松本和幸
──劇場を基盤に作品をつくるヨーロッパと、カンパニー制を基盤にする日本には、作品づくりのシステムに決定的な差がありますよね。昨年は立て続けに日本の公共劇場での仕事もされましたが…。
 公共劇場での仕事に対するフラストレーションについては、いろんなところで発言したとおりです。これはチェルフィッチュの作品を観ていただければ明らかだと思うんですが、僕がやりたいこと、僕の演出というのは俳優を介してしか見せられない。コンセプトとか、セットのつくり方とか、戯曲の解釈とか、あるいは役柄の解釈とか、そういうレベルの話ではなくて、その俳優が行うパフォーマンス自体の強さというものでしか、僕は演出家としての能力を発揮できない。だから、劇場がキャスティングした俳優に限られた時間でその強さをいきなりやってもらうのは、ものすごく難しい。というか、無理です。
 それから、そうした劇場のプロダクションがどういうスパンで考えられているか、ということもあります。作品の生命というものが1カ月、あるいはもっと短くて2週間に20ステージも行われれば十分ではないかという感覚でつくられている。本来的には作品は長く繰り返すことで成熟するわけだし、もっと言えば、回数を重ねて数を売れば、コストは回収されるはずなのに、それを2週間でなんとかしようとする。プロダクションの発想自体が短命な作品を前提としたものになっている。

──とすると、ヨーロッパのシステムのほうが、岡田さんがやりたいことにチャレンジできる確率が高い?
 とりあえず今後、死ぬまで生きていかなきゃならないわけで、そういう立場から言うと、“消費”されちゃったら困るわけです。そうされないように生きていかなきゃいけない。そして自分のやりたいことを突き詰めて、何か力のあるモノを生み出して、それをとりあえず死ぬまでやっていく。引退できちゃったりするかもしれないけど(笑)、とにかくアーティストとして生き続ける限りはそれをやり続けなきゃいけないとすると、消費されちゃマズイわけです。でも、消費される恐怖感というのがいつもあって、自分のすり減り度とのデッドヒートみたいな、「それに勝てるのか俺は?勝てないのか?」(笑)みたいなのはイヤだなあと。
 そうした消費への恐怖に対して、ヨーロッパという場所で1つの作品を何度も上演することに僕らは活路を見出したわけです。一生懸命つくった作品を大切に育てて少しずつ成熟させていき、その喜びを味わいながら経済的にも成り立つように。

──しかしヨーロッパでも消費される危険性は常にあるわけですよね。
 確かにそれはそうですね、ちょっとそれを恐れていたところはあるかもしれない。『三月の5日間』は、そういうことに無頓着につくったラッキーな作品でしたけど、一発屋で終わるかもという危機感はもっていました。では、ゼロから意識的につくった作品が『三月』のように届くのか。それは「受ける」「受けない」とか、日本というローカリティを「超える」「超えない」とかの話ではなく、アーティストとして自分が自分の作品をどう乗り越えていくかということが問題の本質的なんだと思います。プロフィールに代表作として書かれているのが何十年も前の作品だったらやっぱり切ないけれど、それが現実だったりする場合もあって、そういうこととアーティストとして戦わなきゃいけない。あるいは甘んじなければいけない。HAUで『ホットペッパー、クーラー、そして、お別れの挨拶』をやって成功させられたことは、そういう意味でも大きかったと思います。

──ところで岡田さんは劇場としてはSTスポットに関わられ、アゴラでもフェスティバルのディレクターを務められました。そういうポジションで仕事をすることはアーティストにとってどのような影響があると思いますか?
 これはアーティスト次第だと思います。僕にとってSTスポット時代は、「役に立ちました」とかいうレベルではなく、本当に核になっています。例えば、STスポットがダンスに深くコミットした場所だったということは、僕にとっては本当にたまたまのことで、でもそのおかげで、手塚夏子さんをはじめとするアーティストと出会い、それまで全く興味がなかったダンスというジャンルに触れるようになった結果、ものすごくたくさんのものを手に入れることができた。本当に幸運でした。
 これは僕のケースですが、好奇心というか、自分に対して何かを起こそうと待ちかまえているとか、そういう態度は多分必要だと思います。これはアーティスト個人の問題だとは思いますが、こういうチャンスさえ奪うような環境もありますから、そういうネガティブなことはしないでほしい、というぐらいしか僕には言えない気がします。
 とにかく、こういう場や人にどうやって出会っていくかは、運なんじゃないですか?って言っちゃうと無責任ですが、それに関して僕はすごくラッキーでしたとしか言えない。それと僕の場合は、岸田戯曲賞を頂くまでは全く無名だったことがものすごく良かった。本当に良かったと思います。

──海外で公演をするようになり、これまで知らなかった世界を知り、いろいろな人や観客と出会うことで、体験できる現実自体が広がったと思いますが、これからも自分が描くものは変わらないと思いますか?
 例えば「半径3メートル」しか描けていないというような揶揄をされたりしている世代なわけですが、それまで全く知らなかった外国に行くようになったからと言って、半径3メートルを描くということ自体が、変わることはない気がします。そうじゃなくなることは、今のところ僕には想像できないです。でも、なぜその3メートルをフレーミングをするか、ということに関しては、すごく意識的になった気がします。そういう中でなぜ敢えてこの3メートルを描くのかという感覚は確かに増している気がします。それは最新作の『わたしたちは無傷な別人であるのか?』にすごく表れてるかもしれません。例えば、『三月の5日間』はなぜ渋谷なのか?と聞かれても、ニューヨークがあり、バグダッドがあり、あらゆる都市があって、その中で敢えて渋谷なんだ、という風には考えていなかったですから。

──「半径3メートル」を描いた作品が、そこから遠く離れた他所で上演されることの価値はどのようなところにあると思いますか?
 その価値は、まず観客に対してあると思います。例えばクンステン・フェスティバル・デザールは、ブリュッセルという町が抱えているローカルな問題、例えば多文化や移民の問題などを考える機会を与える場なんだ、ということがフェスティバルの文脈としてきちんと打ち出されている。だからフェスティバルで他所から、例えば日本からやってきて、日本という文化で規定されたものをやっても、それを観客が観るということが何かしらの価値をもっているはずだと、少なくとも僕は信じることができる。
 多分、演劇というのは何かを観客に観せるもの、例えばドラマの感動とかを観せるものではなく、観客をそれによって変容させていくものだと思うんです。全人格が変わるわけではないけれど、観客に何かを与えていくものだと。
 そう考えるようになったのは、本当にごく最近のことですけれど、思えば僕も演出する際に、“観客”という言葉を使う頻度があからさまに上がっています。例えば俳優にも「自分にとってのリアリティとか、自分の中の意識の問題とかではなく、観客を変えるために何をやるのか考えてくれ」と言うようになってます。僕の意見では、それが結局、ブレヒト的な発想ということなんだと思います。いわゆるブレヒト演劇という意味ではなく、演劇という制度は観客のためにある、観客に働きかけるためのものとしてある、ということ。つまり舞台の中でのドラマがどのようにリアルに立ち上がるかではなく、観客をどう変えるかが演劇をやる意味なんじゃないかと。
 そういう意味で、僕はやっぱりヨーロッパはブレヒトがデフォルトになっていると感じます。だから、たとえばトラックの荷台に観客を乗せて運ぶ、といった作品があったりしますよね、それを通して物流というものを観客に考えさせるわけですよね、それってちっとも変な演劇ではなくて、むしろ全然真っ当だとも言える。そうやって観客を変えるんだから。それが演劇なんだから。
 でもこういう当たり前のことに気付いたのはごく最近です。というか、ここまではっきり感じたのは、それこそ一昨日くらいからかもしれないです。『わたしたちは無傷な別人であるのか?』の当日パンフレットの挨拶文でもちょっと書いていますが。現代だとか、脱力しているとか、ダラダラしているとか、身体の動きがどうだとか、そういうことを問題にしてつくってきたけれど、そのことをまだやってはいますけど、どちらかというとそれ自体が目的のようだったのが、少しずつ手段になってきたような気がします。目的は観客にどう働きかけるか……思いっきり誤読かもしれないけど、それがブレヒトがやるべきだと言ったことなんじゃないかと僕は思っています。
 
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