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Artist Interview
Insights from international activities—The latest interview with Toshiki Okada
海外進出で見えてきたもの 岡田利規の最新インタビュー
『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』
(2009年10月/ベルリンHAU劇場)
ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶
(c) Dieter Hartwig
──観客の体験がどのように変化していくか? 岡田さんにとって、それを実践する最大にして最高のメディアが俳優の身体ということですね。
 そうですね。俳優が表象を担うだけだったら、そんなの別にコップにだってできますから。

──『わたしたちは無傷な別人であるのか?』では、これまで以上に俳優の身体に負荷がかかっているという印象を持ちました。その結果、俳優の身体を媒介として観客に伝わる強度もさらに高まっていたように思います。そうした身体を作り出すのに、稽古のやり方が変わったりはしましたか。
 この前、公開リハーサルのあとにティム・エッチェルス(イギリスの前衛劇団フォースド・エンタテイメントのリーダー)とトーク・セッションをした時に、通訳をしてくれた人が「英語でこうやって説明するとわかりやすい」と僕に提案してくれたことがあります。つまり、観客は、舞台上にあるものを知覚=perceiveするのではなくて、想像・受精=conceiveするんだと。あ、そうやって対みたいになっている単語なんだ、ということが僕にとってはすごい驚きでした。しかも、僕が稽古場でずっと使っていた単語というのは“受精する”というものだった。観客の中で言葉と空間を受精させるんだと。観客の中に生まれるものをつくるんだと。だから、「今のは受精に至っていない」とか「届いていない」とか「膨らんでいない」とか、「今度はちゃんと受精できた」とか、そういうようなことを新作の稽古場ではずっと言っていたんです。
 何なんだろう、そういうconceiveって単語のある英語っていうのは、すごいな、俺のことをなにもかも見透かしているなって思って(笑)。

──確かに、観客を変容させる力のようなところにこれからの演劇の可能性もあるのではと思います。逆にいうとそこがなければ、他のメディアではできない演劇たる根拠をなかなか持ち難くなってきている。
 そうですね。結局、演劇は“具象する”ということが非常に苦手なメディアなんですよ。例えば、死んでいるテイで横になっているけれど、ちょっとお腹が上下しています、みたいな(笑)。でもさっきまで激しい格闘シーンやってたし、しょうがないよね、みたいな。そこで「腹を動かすな」っていうダメ出しをするのは、演劇をネガティブなものと捉えてしまっているってことだと思うんですよ。
 だけどそうではなくて、例えば死というものを表象するならば、目の前の役者の身体っていうマテリアルなものと、“死んでいる”という表象とが共に成立している、それは具象的にではないんけど、重なり合っている、そういうことを起こせるのが演劇だと思うんです。だから、「お腹は上下させるな」というディレクションは、演劇のディレクションではない。例えば、俳優が横になってさえいなくても、ある人物が横たわって死んでいることにできるとか、そういうのが演劇なんですよ。そうしないと演劇は演劇の可能性を最大化することはできない。

──その“できる”の方法として、「物語」に依存せず俳優の身体そのものが持ちうる力ってどういうものでしょう?
 物語とか、状況とか、感情とか、要するに表象というのは、いちばん最後にパフォーマーに訪れる、そういう感じがいちばんいいんです。最初からそれらの中にズブっと潜り込んでしまっている、というのだと、弱いですよね。
 つまり、俳優がそのとき与えられている役割からくる気持ちみたいなのを問題にしてパフォーマンスを行うと、それはパーソナルなパフォーマンスになってしまうんですよ、パブリックなパフォーマンスというのがあって、それは、観客に植え込むためにパフォーマンスをするということですよね。僕、最近、とにかくもうパブリックという言葉の意味ををどうやって創作のレベルに落とし込むか、実現させるか、っていうことを考えてますよ。だってそれ考えないとマズイですからね、世の中の流れが。で、作品がパブリックであるっていうのは、要するに強い作品だっていうことだと思うんですね、僕は。演劇をパブリックなものとしてやろうという意識が、僕たちにはあからさまに、まだ足りてませんよね。そしてパブリックにするというのは、社会的な題材をテーマにしなければいけないとか、実験的なことをやっちゃいけないとかいう意味ではないはずで、ものすごく個人的な妄想みたいなものでも全然いいはずですよね。それをどれだけ強くリアライズするか、リアライズの度合いが高いか否かということが、パブリックか否かの尺度になる、というふうに、たとえば考えてみたいんですよね。

──日本でパブリックというと、最大公約数という風に考えられがちで、パブリックなお金を使っているんだからみんなに分かるものをつくるべき、という残念な議論に陥りがちですが。
 そこに陥ったら最悪でしょ。だから、それに抗わないといけない。そのために作り手としての僕がやれることは、「これがパブリックなんだ」という説得力をもった作品をつくることしかない。だからそれを僕はやるつもりです。  そのためには創作のために時間をかけること、繰り返し上演して作品を成熟させることが、必要なんです。だから、パブリックなものを作れるように、そのための条件は整っていてほしい。もしくは、その条件を自分たちが手に入れられるような活動の仕方をする。そのために、今の僕らにとってもっとも現実的なのが、さしあたっては海外での活動、ということなんですよね。
 
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