The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
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塚原悠也
塚原悠也(つかはら・ゆうや)
ダンサー/contact Gonzo主宰
1979年京都生まれ。2006年垣尾優と共に「contact Gonzo」を大阪にて結成。公園や街中で、「痛みの哲学、接触の技法」を謳う、即興的な身体の接触を開始。互いの行為を写真に収める「the first man narrative」という方法を開発し、大量の写真撮影も行い、映像は動画サイト「YouTube」で即時配信される。2007年大阪パフォーマンミング・アーツ・メッセ「720@PAMO AWARD」大賞受賞。同年大阪府立現代美術センター主催の「吉原治良賞記念アートプロジェクト」をきっかけに、ヘルシンキ・南京・ソウル・沖縄の4都市を巡り、2008年『project MINIMA MORALIA』を発表。以後、舞台芸術と現代美術の2つのフィールドで注目され、「南京トリエンナーレ 2008」や「あいちトリエンナーレ2010」などの国際的な美術展や芸術祭等に参加。現在contact Gonzoは、金井悠、加藤至、三ヶ尻敬悟を加えた4人のメンバーで、国内外の様々な空間におけるパフォーマンス、インスタレーション、マガジンの発行などその活動は多岐にわたる。関西学院大学文学研究科美学専攻修了。大阪在住。
http://contactgonzo.blogspot.com/
http://www.youtube.com/user/contactGonzo
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contact Gonzo II
©Hayashi Mitsunari
contact Gonzo II
©Hayashi Mitsunari
contact Gonzo II
contact Gonzo II
contact Gonzo II
シドニー・ビエンナーレ「Super Deluxe @ Artspace」(2010年)より
contact Gonzo II
「六本木クロッシング2010展」のインスタレーション(2010年)
©Kioku Keizo
contact Gonzo II
アイホール「地域とつくる舞台」シリーズ
砂連尾理/塚原悠也『SAALEKASHI』
(2010年9月)
Artist Interview
2011.5.9
dance
Playing with physical contact  contact Gonzo  
接触を遊ぶ contact Gonzo  
公園、街頭、森、核シェルター、地下道などさまざまな場所で殴り合いともダンスともつかない身体の接触を繰り返すcontact Gonzo。その即興的なパフォーマンスは、ダンサーの垣尾優(現在は別活動)と塚原悠也がダンスの技法であるコンタクト・インプロビゼーションやロシア の合気道と呼ばれるシステマなどの身体接触の技法で遊ぶ中で育まれた。YouTubeでの配信を 行い、2006年に結成されてからまたたくま に注目され、国内外の美術展やフェスティバルに招聘されるようになる。既存のダンスの枠組に捕らわれないゴンゾ・ジャーナリズムのようなデタラメさを信条とし、現在は新メンバーを含めて6人で活動するcontact Gonzoについて、塚原悠也に聞いた。
(聞き手:岡崎松恵[NPO法人Offsite Dance Project 代表])



──contact Gonzoを始める以前の生い立ちから聞かせてください。自分の身体を使った表現やダンスとの接点はあったのですか?
 僕は1979年京都の修学院に生まれました。小学1年から3年生まで父の仕事の都合でアメリカのバージニア州で過ごし、帰国後は高校まで大阪の吹田に住んでいました。大学に進学する時に、自分が何をやりたいのかよく判らなかったのと、中高でやっていたサッカーは続けたかったのですが、プロになるほど上手くなかったのでそこでやめました。それで美学科のようなところに行けば、2番目に好きな映画や音楽に浸っていられるのではないか、4年間、幸せに過ごせるのではないかと思って、関西学院大学文学部の美学科に入りました。
 当初の研究テーマは写真と映像でした。とりあえず図書館にある写真集を全部見ておこうと思って、そこで見つけたのが、細江英公が土方巽を撮影した写真集『鎌鼬』だったんです。こんな人がおんねんなあ、と驚きまして。土方巽というのが何者なのか調べているうちに、“舞踏”というものがあることを知りました。さらに掘り下げていくと、今は舞踏がコンテンポラリーダンスのコンテクスト上に、もしくはそれと並行するところに位置づけられていて、上演されていることがわかってきた。それで研究テーマをダンスに変えて、様々なダンスの資料をインターネットや図書館などで調べるようになりました。その頃、大学に教えに来ていた先生が、Dance Box(以下、「dB」)(*1)のプロデューサーの大谷燠さんと知り合いで、しかも大谷さんが大阪のフェスティバルゲートに小劇場を開こうとしていることを知り、事務所を訪ねました。ボランティアスタッフを募集していたので、何か手伝えることがあればやらせてくださいと。
 というのは、観たい公演全部を観る資金がない。でも観ておかないと研究も何も始まらない。映像ではわからない部分が多いし、より作品に近づけるところに行けば現状がわかるのではないかと思いました。それが、2002年、大学4年の頃です。

*1 1996年に創設のNPO。2002年〜07年「フェスティバルゲート」内に小劇場「アートシアターdB」を開設。フェスティバルゲートの閉鎖により、2009年神戸市長田区の震災復興再開発ビルに拠点を移した。
http://www.db-dancebox.org/

──その頃はコンテンポラリーダンスが盛んな時期で、dBは関西のダンスシーンを牽引している劇場でした。まさにその真っ只中に飛び込んだわけですね。それまで映像で触れていたダンスはいわゆる有名なアーティストの名作だったと思いますが、dBで見たダンスをどのように感じましたか?
 大学の図書館で見ていたのは、ラララ・ヒューマンステップやローザス、ピナ・バウシュが監督した映画などでした。あとはびわ湖ホールに有名な作品を見に行ったりゼミの永田彰三先生がパフォーミングアーツの研究者なので、ロバート・ウィルソンの『浜辺のアインシュタイン』やニューヨークの70−80年代の映像も見せてもらいました。
 なので、dBで行われているダンスを見て、最初は、ものすごくマイナーな世界があるんだなあと感じました。関西ローカルのアーティストの情報は大学の図書館までは上がってこないし、僕のアンテナもそういうところには向いていなかった。実際dBで作品を見たり、企画に関わり始めて、「ゼロからつくっていかなきゃいけない世界がある」ということがわかった。例えばCDは店で完成したものが手に入るのでつくられた工程が見えないのが当たり前ですが、dBでその工場の中を見せてもらった、しかもめちゃくちゃマイナーなものをつくっている〈ダンスの工場〉を見た、という印象でした。
 当時のdBでは本当にいろんなダンスが上演されていて、そのあり様は、既存のスタイルからはみ出してしまった人たちの避難所のように見えました。例えばジャズダンスの世界に収まりきらないものをつくりたい人がコンテンポラリーダンスという文脈で作品を発表していたり、舞踏からコンテンポラリーダンスにアプローチしている人もいました。そういう関西のコンテンポラリーダンスの第一世代がセレノグラフィカやクルスタシア、ヤザキタケシさんで、僕がdBに参加したのは、第二世代のアーティストが登場した頃だと思います。

──dBで塚原さんはどのような仕事を担当していましたか?
 最初は、「アジア・コンテンポラリー・ダンスフェスティバル」の制作チームの一員として、dBが発行する媒体にインタビューや記事を書いていました。その後は、海外のアーティストやテクニカルの通訳、契約書の作成など海外関係の制作補助と並行して、「ダンス・サーカス」、「ダンスボックス・セレクション」、「ワン・ダンス」という一連のステップアップ・プログラムの制作を担当しました。2004年に大学院を修了してからdBの職員になりました。主催公演もたくさんあったので、その制作をしながら、ダンス作品を観て、打ち上げで飲む、という生活です。もちろん作品について考えることは一杯ありましたが、幸せだなあと思っていました。僕は何よりも作品に近い位置で「アーティスト」と呼ばれる人たちがいろいろな事に対してどういう判断をするかということを見たかったのです。

──塚原さんの場合は研究というスタンスでdBに入ったところがあるわけですが、表舞台にたって自分で踊ってみようとは思いませんでしたか?
 当時は土方巽に憧れていたので、舞踏のワークショップに興味はありましたが、自分でやるのは恥ずかしくて。だから、ずっと観ているだけでした。「アーティスト」という存在にも「自分の仕事ではない」と距離を感じていました。ただ、舞台袖でパフォーマンスを見ながら自分の頭の中で勝手にシミュレーションしていました。それが下積みになっていると思います。その頃には逆にワークショップは受けないと決めていましたね。
 その中で、垣尾優という、その後contact Gonzoを立ち上げたダンサーに注目するようになりました。彼のダンス作品はユニークで、けっこう喋ったり、即興で踊って「最後に壁を走ります」と言って壁にトントンと2歩ぐらい駆け上がったり、人の作品で床にパンを並べてるだけ、とか。今で言う「揺らぎ」がたくさんある、というのか。興味深かったのは、小さい頃からダンスをしていた、という訳ではなく、元々別のことをやっていて、少し遅めにダンスの現場に入って来たという所でしょうか。山下残さんなんかもそうですよね。ある現場に全く異なる視点を持込めるのはいつもこういう人たちだと思います。
 それで、dBが企画参加していた「泉北アートプロジェクト」という泉北高速鉄道沿線のまちアート的なイベントの中で、2004年11月〜2005年3月の会期中に公園を舞台にしたドキュメンタリー的なダンス作品を発表する企画を立ち上げて、垣尾さんを誘ったんです。僕の企画意図は、区画整理されたニュータウンと緑地計画としてつくられたたくさんの大きな公園という構図の中に、社会の枠を揺るがす存在としての「アーティスト)を野放しにしてみたかったんです。
 垣尾さんも興味をもってくれて、何をやるか白紙のまま二人でニュータウンの公園に一緒に行きました。そしたら初日にいきなり垣尾さんが「落ち葉キャッチするわ」と言って、落ちてくる葉っぱに向かってバーッと走り出して掴まえようとする。僕はその後を追いかけながら、その様子を撮影しました。それで最後に3か月間撮りためた映像を1時間にまとめた上映会をやりました。こうしたことをやっている間に、お互いの好みや価値観が判ってきて、プロジェクト終了後も二人で一緒に飲みに行ったり、山登りに行ったりしていたのですが、1年が過ぎた頃、垣尾さんから「接触やろうや」というメールが届いたんです。

──垣尾さんは、山下残作品には欠かせない存在感のあるダンサーで、神戸を拠点にしているアンサンブル・ゾネや東京を拠点にしているルーデンスなど、高い技術が要求されるカンパニーの作品にもよく出演しています。二人の信頼関係がcontact Gonzoのベースになっているのはよくわかりましたが、塚原さんは垣尾さんから「接触」と言われて、何のことだかわかったのですか?
 「新しい遊び」なんだろうと解釈しました。山登りに行ったときも、あえて登山道を外れて藪の中を入ってみたり、崖を登ってみたり、そういうことを繰り返していましたから。それで、大阪のど真ん中にある扇町公園に集まって、最初は、垣尾さんがワークショップで習ったコンタクト・インプロビゼーションのメソッドで遊んでいました。
 そのうちに、彼が愛読していた武道・武術の専門誌「月刊秘伝」で「システマ」を見つけて、これが面白いと。「システマ」はロシアの合気道と言われている格闘術です。「呼吸し続ける」「リラックスを保つ」「姿勢を真っ直ぐ保つ」「居付かない」という身体の使い方が基本らしく、僕は今もあんまりわかりませんが、相手をやっつけるというより、(コンタクトインプロと同様に)相手の動きを判ろうとする視点があります。そのクネクネした動きを真似したり、向かいあってお互いの顔を叩いたり、その強さをどんどん強くしていくとか、自分たちなりに“システマごっこ”をしていた。プラス、フランスの街中でビルからビルに跳び移ったりする「パルクール」。公園で傾斜や段差を登ったり跳び降りたり。二人で気が向いた時に公園で会っては、さまざまな接触の技法をゴッチャにした「遊び」を数カ月間続けました。その中で、殴るみたいに押したり、身体を引いたりする、新しい動きが生まれました。
 ちょうどその頃、海外で動画サイト「YouTube」がオープンされたことを知り、パフォーマンスの記録映像をYouTubeで流し始めました。

──初期の映像を見ると、公園や街頭、竹薮といった場所で二人の男が真剣な眼差しで向かい合って立ち、殴り合うように組み合います。殴るという暴力行為につきまとう緊張感の高まりはなくて、むしろ静かにスピーディかつ柔らかな即興的な動きで、一見すると格闘技のようでもあり、優雅なダンスのように見えなくもない。そうした動きとは対照的に、肉体を叩く音や転がるペットボトルの音が、時折、リアルに空間に響く。従来のコンテンポラリーダンス作品の作り方/見せ方とは一線を画すアプローチです。この頃すでにcontact Gonzoの基本的なスタイルが形作られていたように思います。そもそも、このネーミングはどこから生まれたのですか?
 賞金を目当てに大阪21世紀協会主催の「720@PAMO AWARD 2006」に応募しようということになり、そのために名前を付ける必要があって考えました。
 「gonzo」という単語は、「ゴンゾ・ジャーナリズム」(*2)という言葉からとりました。大学時代に影響を受けたハンター・S・トンプソンの本で、映画『ラスベガスをやっつけろ』の原作になったルポがあるのですが、それがめちゃくちゃ格好良かった。当時のコンテンポラリーダンスのシーンはリテラシーが確立し始めていましたが、僕らのやり方はそことあまり関係を持たず、照明効果も要らなければ、リハーサルもしない、「作品」という概念もない。そういう自分たちが既存のコンテンポラリーダンスと正反対のやり方でやろうとしていることが、トンプソンがクリーンなジャーナリズムという暗黙のリテラシーに“乗り込んでいく”感じと重なって、英語のスラングで「でたらめ」を意味する「ゴンゾ」という言葉に置き換えられるのではないかと思いました。文法的には「Gonzo Contact(ゴンゾ的なる接触)」ですが、リズムが悪いのでひっくり返して、「contact Gonzo」にしました。

*2 それまでの客観的な事実の報道というジャーナリズムに対して、ハンター・S・トンプソン自らが取材対象の中に入り込んで投じてその本質を伝える独自の取材スタイル。

──塚原さんにとって、既存のダンスリテラシーからはみ出すことの意味は何ですか?
 僕がdBに一番関わっていたのは、自分とも年齢の近い第三世代の作家が活動し始めた頃です。学生たちは「コンテンポラリーダンスがやりたい」と入ってきて、彼らが踊れる機会も用意されていました。けれども、コンテンポラリーダンスが他のメソッドからはみ出してきた人たちのある種の肯定的なシェルターや避難所でかつてあったならば、「コンテンポラリーダンスをやりたい」という発想は生まれてこないはずです。つまり、そもそもジャンルの名称ではないと考えています。
 メチャクチャな発想が、純粋かつ強い作品として生まれる現場を作るには、あえて「コンテンポラリーダンスというリテラシーはもう確立された」ととりあえず言ってしまった上で、その外枠を揺り動かさないとこのジャンルの幅は広がらないと感じていました。だから、僕らは、できるだけメチャメチャでいようと思いました。元々めちゃくちゃなものが好きだという事もありますが。
 結局その年のPAMOの最終選考には残らなかったのですが、審査員のひとり、維新派主宰の松本雄吉さんが僕らの映像を見て「ええやんけ」と言ってくれたことを人づてに聞いて、それだけで十分だと思いました。

──人前でパフォーマンスをしたのは、2006年10月dBの10周年記念イベント「Dance Circus 100連発!!」が初めてです。これはいわゆるショーケースですが、コンテンポラリーダンスの範疇の中でどのように見せようとしたのですか?
 上演時間7分で、いつものパフォーマンスに、最初と最後に目隠しした人が歩くという演出を加えました。それを見ていたフランスの振付家のジャン・ゴーダンが、少し怒っていたんです。彼は大阪府立現代美術センターの招きで来日していて、彼の現場に通訳として付いていたこともあって見に来てくれた。彼は、「オマエのやってることはめちゃくちゃ面白いけど、そこに物語を付ける必要はない。余計な演出で見えなくなってしまった部分がある。お客さんは物語を外しても理解してくれるよ」と。これで吹っ切れました。装飾的なことはやらなくてもわかってもらえると、自信が持てました。
 翌年の「PAMO AWARD 2007」では、大学の同級生だった三ヶ尻敬悟君を加えて3人で参加して、大賞を受賞しました。彼は高校までラグビーをやっていたのですが、3人目が入ると予測不能なことが起こる。それまでは二方向だったのが、3人いることで向かい合っていた矢印がグニャッと曲がり始めたんです。それがcontact Gonzoのもうひとつの転機になりました。

──contact Gonzoの活動の特徴として、映像や写真といったメディアをパフォーマンスと同等に扱っている点があげられます。即時配信される映像、パフォーマンス中に自ら撮影する「the first man narrative」の手法で撮られた写真など、これらのメディアを使って何を伝えたいと思っていたのですか?
 Gonzoという発想はすでにポルノや写真にも応用されていて、それにもたくさんの影響は元々受けています。さらに、泉北アートプロジェクトの流れで、「公園映像の第2作目」のつもりで撮影を続けていて、YouTubeも動画をアップして遊んでいた、という感じです。映像に関しては、僕らは一貫して、三脚据え置きで撮影しています。というのも、contact Gonzoみたいに殴り合っているようなパフォーマンスは、すぐれた機材/編集/音楽によって、CMみたいに格好良くてセクシーな映像は誰でもできてしまう。そうではなくて、僕は真逆のことをやりたい、その方が、垣尾的な木訥さが伝わるだろうと思いました。
 YouTubeの映像をきっかけに、批評家の中西理さんが取り上げてくれたり、パフォーマンスをプロデュースする日本パフォーマンス/アート研究所の小沢康夫さんや評論家の桜井圭介さんから東京に呼んでもらえるようになり、活動が広がっていきました。YouTubeは僕にとっては世界の辞書で「そこに手作りのセクシーではない動画」をアップするという事は自分たちを世界と接続させるという感触もあります。

──その後、美術の領域である「吉原治良賞記念アートプロジェクト」(*3)にも応募されています。そもそもの動機は?
 先ほどの話とは逆行しますが、コンテンポラリーダンスの文脈の中だけでなく、現代美術という違う文脈と両方で揺れながらやるほうが、互いの現場でより自由にできるのではないかと考えました。美術については、大学での基本的な知識もありましたし。僕らがこのプロジェクトでやろうとしたのは、「contact Gonzoとは何か?」という自らの問いに対するアプローチで、美術の現場の方が幅広く考えられると思いました。

*3 大阪府立現代美術センター主催のアートプロジェクトのコンペ。第一次選考により選ばれたアーティストとアート・コーディネーターの協動により、スタジオを中心に展覧会・レクチャーの開催などを経て、第二次選考でアーティスト1名(組)とアート・コーディネーター1名が選ばれ、1年かけてプロジェクトを完成させて発表する3年プロジェクト。

──ここではまず5組が書類選考されて、半年間のスタジオワークがあって、最終的に1組が選ばれて、アート・コーディネーターと共に最終的なアウトプットとしての展覧会をつくります。contact Gonzoはその1組に選ばれたわけですが、この活動をまとめたドキュメントを見ると確かに自らの定義を探る旅をしているように見えます。
 スタジオでは、様々な人たちに集まってもらい、contact Gonzoの定義について対話するという企画を考えました。要するに、多角的な定義を周りに置くことによって、一つの定義で解釈されることを避けたかった。即興で殴り合ってぶつかる行為は、素早さや破壊性という方向の概念であっという間に括られてしまう可能性がある。記録映像でも伝えたかった垣尾さんの木訥性や、何かゆらゆらした曖昧な感じというものを核としてもっておきたいのに、見過ごされてしまうだろうと危惧していたんです。
 その中で、面白かったのは、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授の西川勝さんの定義です。看護士として医療の現場で多くの患者の痛みに日々「接触」してきた経験を持つ臨床哲学者としての視点から、「弾性である」「はじける性質のもの」とか、「ぶつかって終わり」ではなく、「ぶつかるから次の運動が生まれる」、そんな言葉をもらったのが強く印象に残っています。

──それから、吉原アートプロジェクトで、フィンランド、中国、韓国、沖縄に旅をされています。その時のプロジェクトタイトルが「MINIA MORALIA(ミニマ・モラリア)」です。
 「MINIA MORALIA」は、哲学者のテオドール・W・アドルノの本のタイトルです。今思うとちょっとカッコつけすぎなんですが、静かにゆっくり旅するという印象と、言葉の感じが合うのでつけました。
 旅の最初の目的地は、フィンランドのヘルシンキにある地下核シェルターでした。平時は開放されていて、場所によってはプールや図書館、スケートパークもある広大な場所ですが、そういうものがすぐ横にある生活とはどういうものかに興味があり、見に行きました。その後、審査員だった美術キュレーターの住友文彦さんに中国と韓国に連れて行ってもらい、これらの旅先の記録がcontact Gonzoのパフォーマンスの映像アーカイブ世界版の第1項になりました。展覧会ではそれらの映像や写真をインスタレーションしましたが、扇町公園や訪れた国の風景をイメージした桟橋とゆらゆら揺れる床を白藤垂人さんという大工さんに作ってもらって構成しました。
 いま振り返ると、すごい伸び伸びやれて贅沢な時間でしたね。実務面でも舞台芸術の制作現場とはまた違った方法論で動いていることを学びました。

──contact Gonzoのプロフィールには、「痛みの哲学、接触の技法」を謳うと記されています。社会との関係を強くイメージさせますが、そのあたりは意識していますか?
 当初そういう名乗り方をしたのは、先ほどの話の流れで、何か決定的な事を言われないための、曖昧に包括的な言語による防衛線のひとつだったのですが、今ではその言葉がなくても自由に活動できる感じになってきたので、そういう言い方はあまりしなくなりました。
 僕は高校までは理系で、物理学に興味がありました。ダンスでは、そこで起きている出来事に対して何らかの感情や感性が生まれて、「この速さがいい」とか、「この遅さがいい」とかいう話になります。しかし、その感性を一旦無いものとして身体を捉えると、身体とは感情の伝達の為のメディアではなく、すべては単なる物理現象だと言えなくもない。僕らには動く事に「内面の/感情的な」理由はなく「押されたから」という事でしかない。映像を見ながら、すべての動きをベクトルの矢印で表すこともできる。そういう意味で考えると、「身体はメディアではなく、身体そのものが既に哲学してる」という考え方が成り立つのではないかと思っています。
 「痛み」についても、社会における暴力としての痛みではなくて、感覚、神経の問題として考えています。やっているのは、相手にダメージを与えるということではなく、力を加える、物理で言えばベクトルを生み出すということです。接触の時間が短ければ“殴る”ということになる、という解釈です。めちゃくちゃドライで、出来事としてはペットボトルが倒れる事と同じレベルで、僕たちが接触している。「痛みの哲学」というのはそういう意味ですが、なかなか説明しにくいですね。つまりそれは、だいたい言ってから意味を考えているからです。

──身体感覚から情緒的なものを引き算して、即物的な身体感覚をテーマにするとしたら「速さ」や「重さ」といった情緒的でない言葉を使うことも考えられたと思いますが、「痛み」の方が自分たちにはしっくりきたということですか?
 もしかしたら、「衝撃」でもよかったかもしれないですね。でも、「痛み」という言葉を使いながら、その割にパフォーマンス自体はカラッとしているので、超フラットな身体感覚がよりハイライトできたかもしれません。
 日常生活に置き換えると、基本的にスポーツ以外で人に押されることはないし、ましてや街中で誰かにちょっと押されただけでもドキドキしますよね。それに近い感覚があります。相手が予想している以上の事が起きて、それが自分に跳ね返って、その繰り返しの中で何か大きい波が来て、それに乗れるかどうかという身体を使った遊びをやっている感じです。毎回やってみないとどうなるかわからないから面白い。
あるいはとても小さな出来事に崇高な感性を付随させて、自分たちの世界に対する絶対性を構築しているのかもしれません。どうでもいい事を、もの凄く大げさに言う事で見える事もあります。

──ところで、最初に土方巽が格好いいと言っていましたが、塚原さんは彼をどのように評価しているのですか?
 あの人はメチャクチャ戦略家だと、僕は思っています。特に、初期の頃の映像…僕の理解では、今で言う「リミックス」ですね。元々はドイツの新舞踏のノイエタンツ出身だったとか、創作ノートからもわかるようにフランシス・ベーコンやエゴン・シーレの絵画から着想を得ているとか。いろんなシュールレアリズム的なものの再編集によって、ものすごいノイズを生み出している感じがしました。
 僕がアメリカから帰国した時、自分のアイデンティティは半ば西洋人化されていました。しかしその後、高校時代にロイター通信のインターンとしてロンドンに短期滞在した時は、逆に日本人なのに外国の音楽を聴いていると不思議がられる。周りからの目線でさらに、自分はアジアの人なんだと気づいた。憧れていた世界に自分もいると思っていたのに、そこにはいなかったというか。ではどう戦えばいいのか、生まれたときからビートルズだって近くにあった訳だし、かと行って今更、伝統文化にまでさかのぼる訳にもいかない。学校にだってジーンズで行きたいしね。では、自分は一体何を拠り所にしたらいいのか悩んでいる時に、土方巽に出会った。彼が自分の、西洋文化にも多分に影響を受けたバックグラウンドを否定しないまま、いろいろなものを引用しながらも進行形の日本人として「俺は」と言っている気がして、それがすごく天晴れで格好いいなと思いました。西洋的な美的感覚、絵画でもそうですが、そこに対となる醜的なものを「醜」としてではなく日常であり自分である、とある種強引に頭を切り替える必要があると感じました。
 同時に、言葉と身体との関係性も考えさせられました。“暗黒舞踏”という名前は格好いいけど、その周りで生まれたたくさんの“言葉”に巻き込まれて、活動の後半は運動が停止してしまったように思いました。言葉によって定義された時点で、運動体としては完結してしまう。だから、contact Gonzoは、できるだけ、意味的に強そうに見えて、出来事なり運動なりを決定しない言葉を選んで周りに置いておくほうがより自由になれると思っているんです。
 自分はかつてアーティストというのは自分の仕事ではないと考えていたけれど、今あるものでとりあえず闘って舞台に立てている。自分でも立てるための勝手なルールをつくるというか。そういう意味でも、土方巽に大きな影響を受けました。

──2011年度からアイホールの「Take a Chance Project」が始まります。これは関西を拠点とする振付家や演出家を1人選び、1年に1作ずつ3年間共同製作を続けるというプロジェクトです。いわゆるシアターピースをつくるプログラムですが、具体的なアイデアはありますか?
 基本的には、今までの活動のなかで構築してきたスタンスをどこまで劇場という場で作品化できるかだと思っています。
 手がかりとしては、昨年9月アイホールの「地域でつくる舞台」シリーズで上演したダンス・パフォーマンス『SAALEKASHI』があります。砂連尾理さんチーム(砂連尾さんが教えている神戸女学院大の学生)が踊って、僕らがロープで引っ張るとモノが飛んでいく投石機や平台で作った道などを空間に配置していきました。それらがダンスとの絡みの中で、妙なタイミングを生みだしたり、全然生まれなかったり、落ちて来たパラシュートが群舞を踊っているダンサーの一人に絡まったり、チャンス・オペレーション的な感じで砂連尾さんと絡んだという感じです。
 dBで舞台の袖越しから作品を観た経験が影響しているからか、僕には、本来観客の視線から隠すための手法や道具、例えば、転換や見切れ、バミリなんかがズレているのを面白がるところがある。本来舞台上ではあってはならないことですが、そういう歪んだモノの見方を意識的に空間構成で使ったりしているので、そういうアプローチもあるのかなと思っています。

──海外のプレゼンターからは、コンテンポラリーダンスに違う角度から風穴をあけることが期待されていると思うのですが、どんな印象ですか?
 今夏はドイツやオランダを中心に5カ国のダンスフェスティバルを回ります。9割は劇場です。通常パフォーマンス時間は30分程度なので、フルイブニング公演と言われたら「ちょっと違います」と言いたいけど(笑)。
 多分、僕らがフェスティバルに呼ばれるのは、基本はかき混ぜ要員なんだと思います。例えば3組なら難しいけど、5組以上選ぶなら入れた方がプログラムに幅が出る、というのは何となく感じます。僕らとしてはどんな枠でもいいでので、そこで逆転を狙うというか、コロッと変えられたら大成功ですよ。
 contact Gonzoとしての強度は、誠実かどうか、にかかっている。状況に対して、相手に対して、お客さんに対して、基本的に誠実であれば、プラス頑張れば、何かは伝わる。そういうふうにできた現場ではこれまでも結果が出ているので、それは間違いないことだと思います。全然違うメソッドや方法論、考え方でやっている人でも…黒田育世さんの動きは「ホンマに誠実やなあ」と思うし、だから信頼できるし、見てしまう。僕らも同じで、そこしか拠り所はないと思います。
 僕らがメチャクチャやることでどこまでコンテンポラリーダンスという外枠が揺らぐかわかりませんが、どこかで狙う時もあるかもしれないですけど、あまり責任感は感じずに、頑張ります。というかメチャクチャやります(笑)。
 
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